【1968年5月】バリー・ギブが語るビー・ジーズのライフストーリー(Fabulous誌コラム)

昨日アップしたバリーが表紙の英雑誌「ファビュラス208(Fabulous 208 )」(1968 年5月4日号)に掲載されていたシリーズ「This Is Our Life by Barry Gibb」。60年代のイギリスのティーン雑誌としては最大のシェアを誇ったこのFabulous誌の売り物のひとつが、こうした「有名人を書き手に起用する」というやり方でした。1969年にはビー・ジーズ脱退後のロビンもこの雑誌で連載コラムを書いています。

このバリーの連載は、ツアーのせいでその前週の連載が中断しており、この号の記事はそのお詫びから始まっています。

(行方不明だった我が誌のコラムニストの)バリー語るビー・ジーズの物語の続きをどうぞ。

まず、先週は休載になってしまってごめん! どうか許してもらえますように。編集長にはイースター・バニーのチョコレートをプレゼントしたら許してもらえました。問題はビー・ジーズのツアー。忙し過ぎて原稿が締め切りに間に合わず、先週号はお休みという羽目に! 時間とフリート街は人を待たずっていうことわざの通りです。(ジャーナリストの仕事ってポップスターと同じぐらいハードなんだろうなあ、と思うことがあります!)

とにかく心からお詫びしながら、話を続けます。1949年のクリスマスのころ。当時、ぼくは2歳ぐらい。家具にぶつかったりしながら家じゅう動き回って、いろいろとごたごたややっかいを引き起こしていました。母バーバラ・ギブは当時妊娠中で、ぼくは特別なプレゼントをもらえることになっていました。ちっちゃな弟か妹です。

ところが生まれたのはふたごの弟。家の中のごたごたがさらにひどくなったわけ。その年の12月22日に、ロビンとモーリスがこの世界にデビューしたのです。とんでもなく調子っぱずれな(ハーモニーのかけらもない)泣き声(歌い声ではなく)をあげてね。

ふたごというのは珍しい。けれどもふたごは考えることも、外見も行動パターンも似ているというセオリーは我が家のふたごにはあてはまりませんでした。ロビンとモーリスはものごころついて以来、性格も個性もまったく別。だいたいの点で意見があわなかったけど、ただひとつ、音楽が大好きという点だけは一致していました。ふだんはいつも別行動。一緒なのはぼくたちが仕事をしているときぐらいです。

ロビンはたいていぼくと一緒。モーリスはビー・ジーズの他のメンバーであるコリンやヴィンスとのつき合いが多いです。仕事の外では交友関係もぜんぜん違っていて、だいたいのことについて猫と犬みたいに言い争ってばかり。「ふたご」はいつも一緒だとか、テレパシーが通っているとかは、だからなし。

ああ、そうそう、どうしてビー・ジーズという名前になったかということについて、いろいろと噂があるけど、ほんとのところをお教えしよう、と約束してましたよね。えーと、すでにお話ししたように、ぼくたちはオートバイのレース場で歌って、投げ銭を稼いでいました。で、その場にいあわせたドライバーのひとり、ビル・グッドという人が、ぼくたちに将来性があると見込んでブリスベンで一番有名だったディスク・ジョッキーのビル・ゲイツに口をきいてくれたんだ。

ビル・ゲイツは、とてもぼくたちの力になってくれました。ぼくたちの歌をテープに録音して、地元のラジオ局でめちゃくちゃかけてくれた。そのうちの1曲が「Let Me Love You」という曲でした。もちろん、レコードなんかまだなかったんだけど、いつもかかっているあの曲のレコードがほしいってラジオ局にファンから電話が殺到したんですよ。

これがグループとしてのぼくたちのスタートになりました。当時ぼくたちはブラザーズ・ギブと呼ばれていたけど、そこで、うーん…と考えてみたんです。業界に「ブラザー」のバンドなんてたくさんある。ぼくたちはもっと変わった感じにしたい。で…ビル・グッド、ビル・ゲイツ、バリー・ギブだろ。それにぼくたち、自分でも「ベリー・グッド(Berry Good)」だと思ってたし、なーんてね。そこでビー・ジーズっていう名前が決まりました。なんか必然だったと思います。バリー&ザ・ツインズ(バリーとふたごたち)(独創的~!)っていう案もあったけど、これだとあとになってコリンとヴィンスがグループに入った時に困ったでしょうね。

ビル・ゲイツがものすごくプッシュしてくれたおかげで、ぼくたちはローカルのテレビ局に出るようになりました。つまり、顔が売れたわけで、すぐにいい暮らしができるようになりました。急に、オーストラリアの暮らしも悪くないな、という感じになったわけ。貧しさからくる心配事のあれこれから解放されましたからね。帰国軍人会(英国在郷軍人会のオーストラリア版みたいなもの)が運営するクラブで1週間に200ポンドとか稼ぎました。

オーストラリアは人口は少ないけれど、金まわりが良かったんです。あの種のクラブは豊かさの頂点にあって、片腕だけの無法者が年に100万ポンドも入れ込んでくれていました。だからキャバレーの出し物にも金を出す余裕があったわけです。

ヒット・レコードも出していなかったのに、18カ月ほどのあいだ、毎週少なくとも150ポンドは稼いでいたと思います。昼間は仕事がないので、海辺で遊んでいました。夕方にはいつもオーケストラをバックに仕事をしていました。

そう、名前を変えたせいで誇らしい気持ちになりました。それまで、ラトルスネイクス、ウィー・ジョニー・ヘイズ&ザ・ブルー・キャッツ、それにギブ・ブラザーズと名前を変えてきたわけだけど、ビー・ジーズになって自信がついて、生意気にもなりました。サーファーズ・パラダイスのビーチコマーというナイトクラブで住み込みの歌手になったんだけど、これってすごいことだったんです。でも、いつだって、ぼくたちはそこで満足はしていませんでした…。

そこでもっと広い世界に大きく打って出たいと計画を立てました。それにはかなりの度胸が必要でした。特にぼくたちはまだとても若かったから。でもやっただけのことはあったんです。これについては来週お話ししようと思います。それともうひとつ、オールスターが集ったコンサートに出演して恐ろしい思いをしたという経験についてもお話ししますね。

この「成功の階段をやすやすと駆け上がってきた」という印象の物語については、後にビー・ジーズ本人たちが、脚色していたことを認めています。実際にはオーストラリアではかなり不遇だったようです。昼間はビーチで遊び、夜は歌って大金を稼いでいた…と、バリーが「すべて薔薇色風」に物語る時代にロビンとモーリスが中高生の年齢だったことを考えると、後年、ロビンが「子ども時代を持つことを許されなかった」と語った背景が見えてきます。

ビー・ジーズのインタビューには必ずお金の話が出てくる、といったファンの方がいましたが、「レース場で投げ銭を稼いでいた」時代から、彼らは小学生ぐらいで家族を養っていたのです。ビー・ジーズ独特のプロ意識は、こうした環境から生まれたのだろうと思います。

{Bee Gees Days}

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