モーリス・ギブ追悼(Mojo誌2003年3月号より)
立ち姿のすっきりときれいなひとでした。やさしい傷つきやすそうな眼をしたひとでした。「うしろの方で下向いてベースなんかひいちゃってるから、おれって目立たないでしょ」なんておどけて見せるひとでした。「にいさん思いの三男、三男♪」でした。「モーリスは踊るような足取りで部屋に入ってくる」とバリーはいい、「ドーナツをドリンクにつけて食うなよ」とロビンはいいました。
あれから11年。Mojo誌の2003年3月号に掲載された追悼記事をご紹介します。
追悼記事というものはどうしても短すぎてしまうし、遅すぎてしまう。それでもせめてこの記事で、モーリス・ギブは兄や弟の陰で生きていたというとんでもない誤謬を正したい。ふたごのロビンとモーリス・ギブは1949年12月22日にマン島で誕生。モーリスは悪ふざけの名手でもあったが、兄たちが軽犯罪に走ったときには、現実を踏み外しやすい傾向の強いバリーとロビンに対して貴重な”安定剤”としての役割を果たした。これがモーリスの生涯変わらぬ立ち位置であった。ビージーズの類いまれなるハーモニーの三分の一をつとめただけではない。グループ初のヒットとなった「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の冒頭、バリーとのコンビで奏でたギターの独特のコードからあのもの悲しいサウンドが生まれ出た。
生まれつき社交的な性格で、ロンドンのスピークイージー・クラブの常連でもあり、キース・ムーンやリンゴ・スターと交流。ジョン・レノンと会ってビートルズのメロトロン演奏を薦められたのもこのクラブでのことである。モーリスはこのメロトロンをビージーズのファーストアルバムで印象的に使ってみせた。
1967年5月11日、「トップ・オブ・ザ・ポップス」出演中に歌手のルルと出会い、短い結婚生活を送ったが、ビージーズの第一回解散もルルとの離別も彼の飲酒問題に負うことが大きいとモーリス自身率直に認めている。三兄弟の間の溝は深まり、ついに1969年には短いあいだビージーズといえばモーリスひとりというときまであった。それでも喧嘩中のふたりの兄との交流を保ち、なんとかグループのハーモニーを取り戻そうと奮闘したのもモーリスだ。ビージーズとしての活動がほぼ休止状態におちいった時期にはリング・スターの「バイ・バイ・ブラックバード」をアレンジしたり、ジョージ・ハリソンの『All Things Must Pass』製作に参加したり、ウルトラライトやスタートライトなどのためのCM音楽を作ったり、ミュージカル『Sing A Rude Song』に出演したりしていた。
1975年10月17日、イボンヌ・スペンスリーと結婚、ふたりの子どもに恵まれてマイアミに居を構えた。音楽に対して変わらぬ熱情を抱き続けた。最後にビージーズをインタビューしたときには、ちょうどブライアン・ウィルソンから電話があってアルバム『This Is Where I Came In』中のモーリスの曲「Walking On Air」を褒めてくれたと言ってほんとにうれしそうにしていた。
一見健康そのものだったモーリスは、最後の数週間にはペイントボールのチームのリーダーをつとめてもいたのだが、1月12日腸ねん転の手術後に心臓発作を併発。53歳であった。哀惜の思いはやまない。偉大なミュージシャンであり、頼れるきょうだいであり、愛情あふれる父親であり、ほんとにいいやつだったモーリス。あんなひと、めったにいやしない。――ジョニー・ブラック
むかしむかし、モーリスに急にポンッと肩を叩かれたことがあります。「いいじゃーん!」とかなんとか声をかけられたのですが、そのときは何のことかわかりませんでした。あとでひとにいわれて、実はそのときモーリスがそれがしの背中に何かシールを貼ったのだと知りました。相手に気づかれずにシールを貼るという遊びをしていたのだそうです。緑色の小さなシールでしたが、今でもどこかにとってあるかもしれません。ロビンはモーリスにいたずらされると文句をいっていましたが、それでもお互いほんとに好きなんだなあと見ていて思ったものです。あんなひとたち、めったにいやしません。
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