ロビン・ギブ「”今”を生きよう」(2003年Woman’s Weekly誌インタビュー)
2003年1月のWoman’s Weekly誌に掲載されたロビン・ギブの長文インタビューをご紹介します。アルバム『ファースト』に収められている「プリーズ・リード・ミー」は精神科医の診療室でカウチに座って診断を受けているという設定のなかなか面白い歌ですが、このインタビューもロビンが赤いカウチにしどけなく(?)座って質問に答えるという内容です。2 月に発表を控えていた久々のソロアルバム『Magnet』のプロモーション用のインタビューで、1月号ということは取材そのものも発表も2002年末。2003年1月のモーリスの突然の悲報の直前のインタビューということになります。
音楽業界一名高い兄弟ともいえるビージーズ、その人気は衰えることを知らない。ロビン・ギブにいわせればビージーズは特別な絆があったからこそたくさんの悲しみに耐えて進んできたのだという
モーリスとぼくはふたごだけれど、兄のバリーとの間にも強い絆があります。ごく小さいころから三人だけの小さな世界を作り上げてしまい、他の人は中に入りにくかったので、友だちもほとんど持たずに大きくなりました。父の仕事の関係で引っ越しが多かったのも原因のひとつです。貧しい家庭だったので仕事のあるところに移動するしかなかったんです。父は強圧的な存在で、一緒にいたいというよりは、ただただこわかった。何か相談したり、話しかけたりなんて、とてもとても、という感じでした。父個人というより、当時の男性はそういう感じだったんです。何しろビクトリア朝気質の人で、規則その1は「父親は常に正しい」。規則その2は、「もし父親が間違っていた場合には規則その1を参照せよ」というものでしたからね。
その結果、ぼくは母の方に近かった。母はとてもあたたかい人で、一家の中の仲裁役でした。困ったことがあれば相談し、母もいつも必ずこちらの話を聞いてくれました。両親がぼくたちにどうなってほしかったのか、それはわかりません。とにかく毎日の暮らしでせいいっぱいで、将来のことを考えるひまなんてなかったのではないかと思います。
自分では5歳ぐらいのときにもう将来何になりたいか決まっていました。バリーが8歳の誕生日にギターをもらった瞬間から、ぼくたちは三人とも音楽に魅せられてしまったのです。ぼくたちは「サンハイッ」の合図ですぐにハーモニーをつけて歌えたので、マンチェスターの街角で歌ってました。お金をもうけるためじゃなく、ただただ楽しくて。
9歳のときに弟のアンディも一緒に一家そろってオーストラリアへ移住したあとも、一緒に歌ったり曲を作ったりし続けていました。音楽に夢中だったので学校の成績はさんざんでしたね。とにかく目立たないように、そっとしていました。いいことと悪いことのけじめは両親にきっちりと教わっていたので、四人兄弟としては信じられないぐらいけんかもなかったです。
卒業後、バリーとモーリスとぼくは歌う機会があれば無料で歌い、地元のラジオ局でちょこちょこレコーディングしてました。そんな局のひとつでDJをしていたビル・ゲイツが彼のイニシャルだったビージーズがぼくたちにぴったりの名前だと言ってくれたんです。
ぼくたちの夢はとにかく成功すること。それにはイギリスにいなくては。というわけでイギリスに戻ることにしました。ヘンドンにあるセミディタッチトハウスにいたときのことは忘れません。お金がなくて部屋がなかったので三人で同じベッドに寝て将来のことをあれこれと夢見ていました。世界に名をとどろかせたいと願って、どうやって実現しようかとベッドの中で語り明かしたものです。
実はそのときのぼくたちはぜんぜん知らなかったんですが、ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインに送り付けておいたテープは、そのときもうブライアンのパートナーだったロバート;・スティグウッドのところに回っていて、ロバートはぼくたちに会いたがっていたんです。1週間後に電話がかかってきました。そして数カ月後にはこれを実現してくれたロバートのアシスタントだったモリーとぼくは結婚していました!
ロバートはとにかくこれまで会った中で一番すごい人です。ぼくたちをブレイクさせてくれた恩は決して忘れません。イギリスの音楽業界で彼ほど革新的なビジョンに富んだ人はいなかった。ロバートがいなかったらビージーズもなかったと思います。
モリーとぼくは1968年に結婚して、ふたりの素晴らしい子どもたちスペンサーとメリッサに恵まれました。でも当時のぼくはまだ子どもで、これから世界に出ようというときだったので、父親になるには若すぎたと思います。ふたりにももっときちんとした親がいたら良かったんですが。一緒に過ごす時間を作るのさえ難しい状況で、12年後に結婚が破たんしたのもそれが大きかったと思います。とても残念です。当時のぼくはまだ大人になる準備ができていなくて、答えることのできない質問をつきつけられているようでした。
幸い、家族がついていてくれたので、ビージーズはますます強力になっていきました。一緒にいる時間が長いと問題も起きるんじゃないかと思うでしょうが、グループにつきものの事態として仕事上のことで意見が食い違うことはあっても、個人的な問題があったことはありません。個人的にやってみたいと思うことがあって、ときどき単独のプロジェクトをすることがありますが、それは健康だと思うんです。でもそろって一緒に歌を作るのが一番楽しいので、ビージーズは決してなくなりません。
この曲、この時代が一番という風に決めるのはむずかしいですね。素晴らしいプロジェクトがたくさんあったからなあ。でも今のところ一番誇らしく思っているのは去年(2002年)CBEを授与されたことです。イギリスがぼくの故郷であり、ぼくはイギリス人であることを信じられないぐらい誇りに思っていますから、CBE授与は大変な栄誉だと思っています。
父もたとえ口には出さなくても大得意だったろうと思います。ただ残念なことに父は末弟のアンディが30歳で亡くなってすぐに亡くなりました。アンディはまだ30歳で、本当に残念な死でした。どうもしばらく心臓を患っていたらしく、それが原因で亡くなったのですが、父にはつらすぎる死だったのです。みんなそれぞれに自分を責め、ぼくもアンディを助けるために何かできなかったんだろうかと考えてしまいますが、父も親として末息子を守れていたら、と苦しんだと思います。アンディの死という悲しい体験を通してぼくは”今”を生きようと思うようになりました。明日のことはわからないし、昨日を生きなおすことはできない。だから、”今このとき”のために生きようって。
結婚して17年になる妻のドゥイーナはぼくと同じようなスピリチュアルな考えの持ち主で、その芸術家気質にも大きな影響を受けました。ぼくたちの関係はよくバランスがとれています。それぞれに興味を持っていることがあるのでうまくやって来れたのだと思います。気持ちの面でも経済面でも、どちらか一方に負担が偏るとプレッシャーになりますから、これは大切だと思います。
ふたりとも物質には関心がありません。これもアンディの死からぼくが得た教訓です。物にとらわれて過ごすには人生ははかなすぎる。たしかに恵まれた位置にあることはありがたいと思いますが、金も車も不必要な贅沢もぼくにとってはあまり意味がありません。人生にはもっと大切なことがたくさんあります―家族とかね。
1982年に息子のロビン・ジョンが生まれたときには、ぼくも最初のときより良い父親であることができました。ぼくもまだまだ子どもっぽいところがあったけれど、今度はそれを活かして、一緒にマンガを見たりして息子と過ごす時間を楽しむことができたんです。ある意味皮肉ですね。いつか大人になれるんじゃないかと思っているうちに時間が過ぎてしまったのに、結局思うに、男ってほとんど一生子どもなんじゃないでしょうか。ぼくが特別ってわけじゃないみたいで、今では大人の外見をした子どもであることを楽しんでいます。
(取材:サンディー・ジョーンズ: Woman’s Weekly誌2003年1月28日号)
記事の終わりには”ソロシングル「Please」発売中。この曲を含むアルバム『マグネット』は2月3日発売。秋にはビージーズの新作アルバムが発売予定”と書かれています…。
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