【1990年1月】ビー・ジーズ来日インタビュー(FMレコパル誌)
89年末に15年ぶりの来日公演を行ったビー・ジーズに取材した記事。フィーバー現象の後遺症に苦しみながら彼らが80年代をどう生き抜いたか、映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』と合わせて読むと感動もひとしおです!
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89年末に15年ぶりの来日公演を行ったビー・ジーズに取材した記事。フィーバー現象の後遺症に苦しみながら彼らが80年代をどう生き抜いたか、映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』と合わせて読むと感動もひとしおです!
1968年、5人組時代のビー・ジーズが米ティーン誌の取材に応えて語った「ぼくってこんな人」をご紹介します。若きビー・ジーズの自画像です。
ドキュメンタリー映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』もまだまだ好調なビー・ジーズ。年頭のごあいさつに代えて79年初頭、米誌を飾った記事をご紹介します。「トップをきわめてもまだ頑張ります。歌こそすべて!」
バリー・ギブとビー・ジーズのオフィシャル・アカウントにオリヴィア・ニュートン・ジョンへの追悼メッセージが掲載されました。バリーはオリヴィアを「妹(sister)」と呼んで思いを語っています。
1978年2月の米ロック誌Circusの表紙には、当時「新作映画のサウンドトラックに貢献した」ばかりのビー・ジーズの談話が取り上げられています。この映画とはいわずとしれた「サタデー・ナイト・フィーバー」。まさに歴史が生まれようとする瞬間でした。
1974年当時、新しい方向性を模索していたビー・ジーズに起死回生の「アメリカへ行ってみるといい」というアドバイスをしたのは、他でもないエリック・クラプトンでした。
オーストラリアン・ポップのパイオニアといわれるロニー・バーンズのコンピレーション・アルバム。親しかったビー・ジーズの作品が8曲収められ、ライナーでは、シドニー時代のビー・ジーズとの初対面の様子やロンドンでバリーと再会した際のびっくりエピソードが語られています。
1968年英誌の取材に応えてバリーが語ったビー・ジーズの成り立ち。
・偶然の事故が生んだステージデビュー
・さんざん苦労したオーストラリア時代
・ビートルズへの思い等
映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を代表する踊りの場面で使われた「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」は映画製作より1年も前にすでに全米1位の座に輝いていました。多幸感、果敢なビート等この”直球のディスコ曲”の魅力を鋭く分析します。