プロデューサーが語るロビン・ギブの思い出
マイアミでのビージーズの本拠地であったミドル・イアー・スタジオで、80年代末からプロデューサーとしてエンジニアとして円熟期のビージーズの作品作りに参加したジョン・マーチャントがロビンの思い出、ビージーズの思い出を語りました(2012年5月22日付、SunSentinel.com)。性格も仕事への取組みも違うバリーとロビンの結びつきは兄弟としても本当に類いまれなものだったそうです。以下に記事の内容をまとめてご紹介します。
マーチャントは1988年にミドル・イアー入りし、2004年までの間に『One』『Size Isn’t Everything』などのアルバムをはじめ、ライブ録音や、セリーヌ・ディオン、マイケル・ジャクソン、バーブラ・ストライザンドなどとのプロジェクトに参加しました。三兄弟は競うように仕事をして、それぞれが違う角度から曲作りに取り組んでいたそうです。ポップなグルーブ感を追求するロビン、洗練された手触りを大切にするモーリス、歌詞のメッセージ性に心を砕くバリー。そのけんかぶりも伝説的だったとか。
「ときどきバリーがちょっと偏った傾向に走ったりするとロビンが、『そんなんじゃヒットしない』とか言うんです。こっちは『うわあ…』と思っちゃうんですが、いつも自分たちでうまく解決していました。お父さん譲りの表現があって『やかんを火にかけよう(お茶にでもしよう)』っていうんですね。
ロビンの一風変わったユーモアのセンスも伝説的で、「ショッキングなぐらい下品」なジョークが多かったとか。ロビンは落書きの名人でもあり、これもかなり下品で、犠牲者としてモデルになるのはレコード会社のおえらいさんだったそうです。
今でも思い出すとにやにやしちゃいますね。
とジョン・マーチャント。
フォートローダーデールの歌手ベス・コーエンはバーブラ・ストライザンドの『Guilty Pleasures』のバックに参加。2009年(訳注:これは2006年の間違いだと思われます)のLove and Hopeボールでもバリーとロビンと一緒に歌いました。
リハーサルでは控え目なロビンとにぎやかなバリーが対照的だったそうです。
だいたいはとってもいい関係でしたけれど、ときどき、たまたま同じ部屋にいる同士がただ並んで立っているだけっていう感じのときもありました。
『To Love Somebody』を歌うときに
モーリスの役をしながらあのふたりと合わせるのは、とても深い意味のある体験でした。
また、マーチャントの話ではロビンは後年あまりリードボーカルを歌いたがらなかったそうです。バリーがロビンの「素晴らしい高音」のために特にアレンジした曲でもそうだったということで、マーチャントは、
どうしてなんでしょうねえ。残念です。ロビンのボーカルはいつだって素晴らしかったのに。ロビンが『ジョーク』とかを歌うと、世界中のどの街でも必ず大喝采だったのに。忘れられない体験です。
この数週間(訳注:5月22日付の記事です)バリーとはよく話したそうですが、バリーは「深く悲しみながらも現実を見据えていた」そうです。ロビンの死の数時間前にあたる土曜日に最後に話したときには、やや明るい話題になって、バリーが2月にハードロックで行った初のソロコンサートの音源のプロダクション作業の話になったとか。
アンディが1988年に亡くなる前に甘やかしてはいけないと電話でわざと「突き放す」ような態度をとったことが、バリーを苦しめ続けたそうです。11月にロビンが入院したときにはバリーはロンドンに駆けつけました。
飛行機ぎらいのバリーですから、強い気持ちがあってのことでしょう。
病院ではふたりは昔話をして笑いあったとか。こうやってすぐに心を通わせ合うことができるからこそ、ビージーズは長年音楽シーンに君臨できたのだとマーチャントは語ります。
彼らの間にはふつうでは考えられないような強い絆があったんです。
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