バリー・ギブ、サンデー・インディペンデント紙インタビュー(2013年8月25日付)

9月25日のダブリン公演を前にバリー・ギブがアイルランドのインディペンデント紙の日曜版(オンライン版8月25日付)サンデー・インディペンデントに登場、現在の心境などを語りました。バリー自身の気持ちが落ち着いてきたためでしょうか、最近これまで以上に率直にいろいろなことを話している感があります。今回のインタビューもこれまでの繰り返しという感じではなく、いろいろと新しい内容に触れていますので、少し前のインタビューなどご紹介が遅れているものが多々あるのですが、とりあえずこの最新インタビューを大急ぎで要約してご紹介します。

最後のメンバーとしてビージーズの音楽を歌い継ぐバリー

ビージーズのメンバーではなかったけれど末弟だったアンディにはじまり、音楽体験を共有してきた弟たちを次々に失ったバリー。どうやってこの苦しい時期を生きているのかと尋ねると「受け入れたけれど、自分でもよくわからない。人生の他の出来事を受け入れて生きていくように、死も受け入れて生きていくしかない」という答えが返ってきた。長兄として下の弟たちを次々に見送るという体験は「わけがわからない」としか言いようがないという。「母と2つ上の姉レスリーはまだ存命で、ぼくたちだけになってしまいました。もう一生分の死を経験したという気がします。だから自分で格言を作りました。どこかで気持ちを切り替えて明るく生きようとするしかない。このままではいけない。だから『悲しむことは生きることではない』と言うんです」

それでもバリーを見ているとどれだけ成功しても、巨万の富を築いても、彼の心の中にぽっかりと空く穴は時として埋めようがないという印象を受ける。


苦しい悲しい日があるかと思えば、前向きになれる明るい日があり、また悲しみがもどってくる、という感じではありませんか?

「結局、ぼくもいつかは死ぬわけです。だから毎朝起きたときに『今日はいい日になるぞ』と自分に言い聞かせてから起きます。元気で幸せでいるように自分で自分を監視してます。また苦しみのどん底に落ちないように、ぼくたちが歩んだ道のりを思い、一緒に作った曲を歌い、過ごした時間の素晴らしさを祝いたい

バリーが人生でもっとも悔やんでいることのひとつが、疎遠だった時期に弟たちを亡くしたことだと言われている。とくにロビンとはあまりうまくいっていなかったと言われており、バリー自身、「暴力沙汰なしの」オアシス兄弟のようだと発言したことがある。

「仲は良かったけれど…すごく仲が良かったというのとは違う。最後の10年間はお互いにやや距離がある関係でした。モーリスは10年ほど前に亡くなり、ロビンは8カ月前に(訳注:これはもちろんバリーか取材側の思い違いでしょう)亡くなりました。」

「 (最後にはグループ内での)競争が頂点に達したといってもいいでしょう。ロビンはソロアーティストになりたがったし、ぼく自身は引退状態だった。ぼくにすれば、もう亀裂ができていると気持ちだった。ロビンやモーリスがしたがっていることをするだけの情熱を、もうぼく自身は感じることができなくなっていた。もう夢は実現したじゃないか、と思っていたのです。『ロビン、夢は実現したんだよ。少しはゆっくりしろよ』と言ってたんですが。だからぼくの方も少し譲歩しようとしたようなところがあります。仕事を続けても良かったけれど、ぼくらもトシを食って、若い層にはアピールできなくなっているんじゃないかと思っていたんですが、ちょっとぼく自身も理想が高過ぎたのかもしれません」

力関係がメンバー間をぎくしゃくさせ、お互いの気持ちにも深いところで影響を及ぼしたようだ。

「人生は複雑だ。一番近いところにいる人間と常に良い関係でいられるわけではない。そう望んでも、なかなかそうはいかない」

でも亡くなる前には仲直りできたんですか?

ロビンが亡くなる2か月前に会いに行きました。でもそのずっと前から具合が悪そうだったんです」 
ロビンが亡くなる1年ほど前に会ったときに「何か変だ」と感じたという。床をじっと見つめるなど態度が変だっただけでなく、何か悩みがあるように見えたそうだ。 「そのときには原因がわからなかったけれど、ロビンが鬱だ、何か悩んでいる、と感じました。はしゃいだかと思えば、急にふさぎ込むという調子だったんです」

ロビンは自分がガンだと知っていたんでしょうね?

「だと思います。今回のこと全体がぼくたちの家族にとっては本当につらかった。ロビンの家族はぼくよりずっと早く、ずっといろいろと知っていたようですね。ロビンが悲しそうだから、ぼくも『もうやめておこう。なんだか変だよ。これじゃ、いつものぼくたちと違う。仕事に気持ちが入っていない』と言ったのかな。…とにかく何か本当におかしいと感じていたのですが、本当の理由を知ったのはロビンが亡くなる7カ月前でした」

バリーは毎晩弟たちの夢を見るという。夢の中の会話を通して過去10年間の弟たちとの関係を受け入れられるようになってきたそうだ。

よくアンディの夢を見ます。ロビンの夢も。でも夢に出てくるのは幸せなロビンです。モーリスも若いころの姿で夢に出てきます。みんなでいろいろと話します

どんな話を?

「ロビンが『バリー、あれはそうじゃなかったよ。実際はこうだった』とか言うんです。現実に解決できずに終わってしまったことを、今こうやってぼくなりにたどりなおしているのかもしれません。自分でもかなりの部分まで『これは現実だ』、ほんとに弟と話しているんだ、と思っています。ほんとのところは誰にもわかりませんが、ぼく自身はそう感じています」
  また、ビージーズ初期の”伝説中”でも有名な、オーストラリアに渡ったのは地元マンチェスターの警察がバリーたちが犯罪者になるのではないかと心配したからだ、という話はでっちあげではないそうだ。

「両親とも働いていたので、ぼくたちは野放し状態でした。夏には11時ごろまで暗くならないので、好き勝手してましたね。他人の土地に入り込んだり、建物の中で遊んだり、地元警察のやっかいを増やしていました。ぼくはおもちゃの車を盗んで保護観察処分になったんです。本物の車じゃありませんよ! でもあれはいい教訓になりました。オーストラリアに移住したのはぼくが11歳ぐらいのときです。警察が来て『あの子たちを通りに放任してちゃいけない。オーストラリアに移住したらどうですか』って言ったんです。オーストラリアがどこにあるかもそれまでは知りませんでした。でも父はそれで夢を持って『新生活をはじめよう』ということになったんです」

5週間の公開中にバリーたちはスエズ運河、インド、エジプト、シンガポールなどを目の当たりにした。

「ぼくたちはまるでタンタンみたいでした。マンチェスターっ子が見られないようなものを見たんです」

オーストラリアでは8年を過ごし、子どもだったバリーは大人の男性として帰英した。18歳半にしてすでに結婚している。

「あれはうまくいきませんでした。両親が結婚に乗り気だったんです」

バリー自身は結婚したかったのでしょうか?

「バリー自身は自信がなかったな(笑)。まだすっかり大人になっていませんでしたからね。1年半ばかりの結婚でした。そのあいだにロバート・スティグウッドと契約し、ぼくたちは天にも昇る心地でした。それがぼくの結婚にも影響しました。ぼくはレコード作りに夢中だった。みんな世間知らずだったのだと思います。知らないことが多すぎた。若いころはよかったんです。モーリスとロビンはあくまで弟だったし、アンディはまだ小さかった。兄弟の間に競争がなかった。ぼくは”兄貴”をしていれば良かった。モーリスとロビンは13歳とか14歳ぐらいでしたから。いったん大人になると、そうはいかなくなる」

好きな女性をめぐってのライバル関係というのはなかったそうだが、「相手の知らないところでいろいろするようになった」そうだ。

「兄弟は4人組のグループとは違う。グループなら離れてしまえばいいけれど、兄弟はそうはいかない。ぼくたちは一緒に育ったけれど、その後仲違いをしたとは言わないまでも、それぞれの暮らしを持つようになりました。仕事を離れての付き合いはほとんどなかった。一番良かったのはモーです」
 どの曲で誰がリードボーカルを歌うかということについてピリピリしたということはありますか?

一貫して、その歌に合った者、あるいはもともとその歌を思いついた者が歌う、というやり方でした

ビートルズではジョン・レノンとポール・マッカートニーが創作面でジョージ・ハリソンを周辺に追いやったという面があるかと思いますが?

「あの状況ではしかたなかったんじゃないでしょうか。自然のなりゆきでしょう。レノンとマッカートニーはすでに仲が良く、一緒に曲を書いてもいた。ビートルズというグループの場合にはあれは自然の成り行きだったと思います。ビージーズの場合、自然だったのは、その曲に声があっている人間がその曲が気に入ったら歌う、というやり方でした。ロビンはどっちかというとPJ・プロビーみたいで、オペラ風のところがあった。ぼく自身はどっちかというとクリフ・リチャードやフランキー・ヴァリという感じでしょうか。ぼくはポップシンガーなんですね。ファルセットとか。歌うときに他の人間になりきって、その過程で自己発見するという歌い方です」

バリーにとってビージーズのハイライトは1967年だという。

おそらくぼくたちの人生最高の年でした。最初のインターナショナルヒットを飛ばしたトシだし、ぼくにとっては妻と出会った年でもあります。1967年はぼくにとって本当に意味のある年です

47年の結婚生活というのは音楽業界では例のない数字だ。しかもいまだにバリーがリンダといつも一緒でお互いに夢中だという事実は、バリーの性格を表しているともいえる。

「リンダは『トップ・オブ・ザ・ポップス』でアシスタント役をしていたんです」

リンダからジミー・サヴィルのことは何か聞いていますか?(訳注:当時、番組の司会をしていたDJのジミー・サヴィルは、いわゆる有名司会者でチャリティにも貢献した文化人として知られていました。けれどもその彼が立場を利用して多くは未成年の女の子たちに性的な暴行を加えており、年少の犠牲者の中には自殺者までいたという事実がその死後に判明し、50年にも及ぶ”黒い歴史”が一大スキャンダルになりました。サヴィルが死亡したとき――スキャンダル発覚前――にはバリーとロビンは連名で葬儀に花束を送っています。日本でいう”花輪を贈る”ような行為です)

「サヴィルのおかげでぼくたちが出会えたということは言っておきたいのですが、同時にサヴィルについては何も言いたくないという思いがあります。彼にああいう黒い顔があってそれを誰も知らなかったというのは悲しすぎることですね」

バリーがリンダに会ってお茶に誘ったとき、バリーとビージーズは『ニューヨーク炭鉱の悲劇』『ラヴ・サムバディ』のヒット2曲を出してはいたものの、まだ国際級のスーパーグループに生まれ変わる前だった。やがて彼らは夢にも見なかったような大成功をおさめ、大金持ちになる。

ほぼ50年も結婚生活を保持できた秘訣は?

「一番言えるのはぼく自身が安定した人間だということだと思います」

この業界で安定しているというのは非常に珍しいのでは?

「成功と失敗の両方を繰り返してきましからね。”天狗”になっている暇がなかったんです。ビージーズのキャリア全体が一段上がれば二段下がるの繰り返しでした。しかも兄弟でしたから、お互いに”ええかっこ”をしてもしょうがなかったですし」

バリーには4人の息子と令嬢が1人、さらに5人の孫がいる。アイルランドのコンサートには全員が来るそうだ。

「アイルランドは大好きです。母方の祖母の名前がリンチ(訳注:アイルランド系の名前です)でアイルランドとスコットランドには親せきが多い。ですから今回は故郷に帰って一族全体の思い出の一部をたどりなおすという気持ちでいます。…アイルランドには妻も来ます。ぼくたち、どこへ行くのも一緒なんです。秘訣はそれかな(笑)」

そのリンダ夫人は長年のアメリカ暮らしでもあいかわらずスコットランド風の英語を話すそうだ。バリーはステージで弟たちなしで歌うのは「好きな歌なので」問題ないが、ステージ上では弟たちに「会える」のだとも言う。

ステージであたりを見回すと今でもふたりが見える気がするんです。ふたりとも、まだここにいるって感じる。…マイクに向かうとふたりの息遣いを感じる。ふたりそれぞれの息遣いがわかるんです。ぼくたち、本当に長いこと一緒に歌っていたんですから。まるでひとりの人間みたいに一心同体で

取材はマイアミの自宅で行われ、聞き手はバリー・イーガンです。

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