【2020年6月】新作を発表したヴィンス・メローニーのロング・インタビュー(その2)

JB 先ほど『オデッサ』の話が出ましたが、あのアルバムはグループ(五人組)としては最終期のものにあたります。アメリカのアトランティック・スタジオでレコーディングしたのですか?

ヴィンス そうです。ただし、『オデッサ』全曲をアトランティックでやったわけじゃなくて、彼らはイギリスに帰ったと思います。イギリスに帰る前にぼくは辞めてて自分の道に進んでいました。でも記憶するかぎりでは2曲参加しています。4曲だったかもしれません。

2曲というのは「ウィスパー、ウィスパー」「日曜日のドライヴ」なんですが、そのほかにも思い出せないけどもう2曲あったと思います。

JB アルバムから発売されたシングルは「若葉のころ」でしたが、あなたも参加された曲ですか?

ヴィンス 正直いって「若葉のころ」に参加したかどうか覚えてないんです。なんだかぼくたち五人みたいなサウンドなので、参加してたんじゃないかと思うのですが確信がありません。

JB アルバム全体にストリングスが多用されていますね。「日曜日のドライヴ」はちょっと例外で、よりギター色が強い。ストリングスが前面に出てきた中で、そのあたりも問題だった?

ヴィンス たしかにそうです。「ウィスパー、ウィスパー」にもストリングスが入ってなかったと思います。もし入っていたにしてもとてもアーティスティックな感じで。ロバートがストリングス使用に熱心で、ごくごく初期にイギリスの小さなクラブに出演した時以外はぼくたちのパフォーマンスでは必ず舞台の後ろにオーケストラが控えていました。

ドイツに行ったときには16人編成のオーケストラを使ったと思います。指揮者もつれていって、彼はバイオリンも弾いていました。とにかくどこへ行ってもオーケストラを使いました。ロバートのストリングス志向はどんどん強まっていて、ぼくの仕事はほとんどなかった。ストリングスのことだけなら良かったんですが、グループ内の雰囲気もすごく悪くなっていったんです。バリーとロビンの問題が時には手に余るようになってしまって。別にぼくが暴露しているわけではなく、バリーも何度もこの問題には言及しています。バリーのインタビューも見ました。すごく悲しいことに、すべては崩れ去ろうとしていたのです。

あまりにも早く大成功をおさめ過ぎたせいだったのか、文無しだったぼくたちが急に豊かになったりしたことが根っこにあったのか、とにかくぼくたちのまわりに人がたくさん寄ってきた。いろいろ用を足してくれたりする人たちがいて、その人たちが問題だったんです。モーリスにはドライバー兼執事みたいな人がついていて、モーリスの服をドライクリーニングに出したりしていたんですが、モーリスに「あれはダメだ」とかこっそり言ったりするんです。ほんとに変な具合になってしまって。また、兄弟の父親ヒューイ・ギブはもともとコリンとぼくがグループにいるのを望んでいなかったので、機会を得たときにそれをはっきり示しました。あれでめちゃくちゃになりました。ひどい話で。

だから、ああ、もうダメだ、と思ってコリン・ピーターセンに、「なあ、もう辞め時だよ。もう終わりだ」と言ったんです。コリンは「いや、そんなことないよ。大丈夫だよ」って言ったんですが。で、ぼくはスティグウッドに会って、辞表を出しました。彼、「レコード契約を解除してやろう」と言いましたよ。他にもいろいろな条項から外してもらいました。「ただ、ドイツ公演はもう決まっているので、君がいないというわけにはいかない。ドイツのツアーだけはやってくれ」って。そこでぼくはドイツ公演には参加しましたが、とても悲しい体験で、帰国してから辞めました。

それから3カ月後にはロビンが辞め、そのまたすぐあとにはコリンもいなくなった。あとはバリーとモーリスだけ。ふたりは別々にアルバムを作りましたが、未発表のままなんじゃないかなあ。とにかくその時点でビー・ジーズは終わっていたのですが、幸い、彼らは再結成されました。でもそれから何年かはぱっとしない時代がありましたね。

12曲目 「日曜日のドライヴ」(ビー・ジーズ)

ビー・ジーズを脱退して

JB 1969年に話を戻しますが、アシュトン・ガードナー・アンド・ダイク「See the Sun in My Eyes 」はあなたも共作者のひとりなのですね。アシュトン・ガードナー・アンド・ダイクとは親しかったのですか?

ヴィンス アシュトン・ガードナー・アンド・ダイクとは一緒にレコーディングしました。長年ビー・ジーズのパーソナル・マネージャーをしているディック・アシュビーは、当時フォード・トランジットに乗ってぼくとコリンと一緒に移動していたんです。で、ぼくは彼が荷物を運ぶのを手伝ったりしていました。当時はコンサートも小規模で、あちこち行ったり来たりしていたんで。だからディックとは当初からすごく親しくしていて、ぼくがグループを辞めたときにディックが「トニー・アシュトンに紹介する」と言ってくれたんです。

トニーは素晴らしい人で、そのトニーがベースプレーヤーのキム・ガードナーとドラマーのトニー・ダイクに紹介してくれたんです。一緒にポリドール用にレコーディングしたんですが、スタジオはどこだったかな。ビートルズのアップル・スタジオでもレコーディングしました。その晩、ジョージ・ハリソンにも会いました。ジョージはティーンエージャーだったころからトニー・アシュトンの友だちだったので、ぼくたちが地下のスタジオで仕事をしていると、何かの用事で事務所に来たジョージが、そこにいた人に「トニー・アシュトンが階下にいるよ」って聞いて降りてきて、トニーと話していたんです。だからぼくも、「ハイ、ジョージ。お会いできてうれしいです」って言ってジョージと握手しました。オーティス・レディング、ジョージ・ハリソンとそういうことが二度もあったんです。

だけど結局「 The Sun In My Eyes 」はどうなったんだろうな。

JB B面として発表されたんですよ。

ヴィンス そうなんですか。知らなかった。

13曲目 「See the Sun in my Eyes」(アシュトン・ガードナー・アンド・ダイク)

JB ビー・ジーズを辞めてから、ご自分の作品に取り掛かったのですか?

ヴィンス 辞めた後は悲しい時期でした。良い時代じゃなかった。あれほど人気のあるグループにいて、いろいろすごいことをしていたわけですから、そのままあっさろ別のことに移行するというのは無理なんです。気持ちを切り替えるには長い時間が必要で、ぼくはアメリカに渡って友人を訪ねたり、アシュトン・ガードナー・アンド・ダイクとレコーディングしたりしました。オーストラリアには帰らなかったと思います。しばらくは何もしなかったんです。それから自分のグループが欲しくなってファニー・アダムズを結成しました。もっとヘヴィーなサウンドのギター志向のグループが欲しかったんです。ビー・ジーズを脱退した後、ビリー・ソープ・アンド・ジ・アズテックスでプレイしていたテディー・トーイにイギリスでばったり会って、話してたときに、「グループを作りたい」って話したら、ダグ・パーキンソンとジョニー・ディックに紹介してくれました。ジョニー・ディックには二度ばかり会ったことがあったけれど、ダグとは初対面でした。

連絡して話してみたら、訪ねて来てくれたので、一緒にたしかMGMのためにレコーディングしました。ファニー・アダムズとしてアルバムをレコーディングしたんですが、けっこうヘヴィーな内容だったです。ただ、残念なことに、そこでぼくは大きな間違いをしちゃったんです。ぼくたち全員オーストラリアでは名が知られているから、オーストラリアでグループとして地位を確立しよう、オーストラリアへ帰ろうよ、って言っちゃったんですが、あれは間違いでした。ただ人を集めてレコーディングして、ツアーに出て、大規模なコンサートをする、なんてのは無理な話なんです。だからオーストラリアがいいかなと思ったんです。ところがオーストラリアではウィスキー・ア・ゴーゴーというクラブと6か月の契約があって、ほかにもコンサートがいくつか決まってました。これはいい、このクラブで週に4-5回出演して、グループとしてもまとまりをつけよう。いろいろと試してみる良い機会だなって。

© 2009 - 2024 Bee Gees Days. 当サイト記事の引用・転載にあたっては出典(リンク)を記載してください。

おすすめ

error: 記事内容は保護されています。