【1968年6月米誌インタビュー】ビー・ジーズがやって来た

米IN誌1968年6月号に登場したビー・ジーズのインタビュー記事より

ビー・ジーズがアメリカ進出したころの紹介記事風インタビューです。中で使われている写真は別の機会でのフォトセッションからのもののようで、2ページに広がったこの白黒写真ではモーリスとヴィンスのポーズがご愛敬。

現在活躍中のグループの中で、ビー・ジーズほど、ゆるぎなく美しい魅惑的な音楽を作り出してきたものはいない。彼らは、ビートルズと並んで、ポップ・ミュージックの世界の頂点に立っている。

ビー・ジーズは全部で5人。だが、彼らの音楽を聴いていると、まるでひとりの人間の作品のように思える。夏の午後の白い雲のように、常に形を変えながら、変わらぬ美しさを保つ、そんな声だ。ビー・ジーズの曲はたくさんあるが、どれを聴いても、その完璧な音楽の魅力に、他の作品が念頭から飛んでしまう。これはひとつのポップ・グループを語るには強烈すぎる表現だが、部屋いっぱいの人たちが、「ワーズ」「ワールド」「マサチューセッツ」といった曲に耳を傾け、一緒に歌い、夢中になっている様子を見れば、ビー・ジーズの作曲と演奏が持つ並々ならないパワーがわかろうというものだ。

グループの中核を成すのは、長年、新旧の大陸で活躍してきた才能あるミュージシャンのギブ兄弟。ロビン、バリー、モーリスの三兄弟は12歳のときにすでに故国オーストラリアの音楽界で活躍しはじめていた。当時から、自分たちで曲を書き、演奏している。「スピックス・アンド・スペックス」のような素晴らしい曲をレコーディングしてきたが、この名曲はイギリスでも発売されたが売れなかった。そしてついに、彼らはオーストラリアでは得られなかった名声を求めてロンドン入りする。(「ロンドンにやって来たのはもっと競争の激しい環境で仕事をして進歩したかったから」

彼らはNEMSや故ブライアン・エプスタインと関わって最初のアルバムを製作した。(「ビートルズのコピーではなく…ぼくたちの音楽だ」)イギリスで、そしてアメリカで「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が発売された。(「あの曲を選んだのはぼくたちじゃない。選んだのはマネージャー。キャッチーだろうといってね」)この曲はみんなに気に入られ、チャートをにぎわしたので、ビー・ジーズはニューヨーク入りしてアメリカのマスコミを魅了した。それでもビートルズとの比較は後を絶たなかった。まるでポップスの世界は、ビートルズと並ぶほど独創的なアーティストが存在すると認める準備がなかったかのようだ。ビー・ジーズは単なるビートルズの真似に過ぎないと思った人が多かったのだ。(「あのアルバムはぼくたちが自分でプロデュースした。ブライアン・エプスタインと初めて会ったのはアルバムが半分できあがってからだったよ」)

しかしその後、彼らのファースト・アルバムが売れ始めた。人びとが二度、三度と聴くようになった。「ホリデイ」「マサチューセッツ」「ワールド」「ワーズ」をはじめとするシングルがリリースされた。セカンド・アルバム『ホリゾンタル』がリリースされた。ロンドンでは『Antique Bee Gees』と題するアルバムが発売された。以前には無視されていた彼らの初期作品を集めたアルバムで、「スピックス・アンド・スペックス」も収められている。ビー・ジーズは立ち位置を確立したのだ。

現在、ビー・ジーズは世界中を飛び回って公演活動に忙しい。どのコンサートでもバックには30人編成のオーケストラがついている。コンサートでの典型的な反応についてロビン・ギブはこう話してくれた。「最初にアメリカに行ったときのことを覚えている。アメリカの子たちに会ったのはロサンジェルスのファンが初めてだった。すごくワイルドだった。

イギリスでは、アメリカみたいに、ポップス愛好者を❝ティーニーボッパー❞とは呼ばないと思う。でもイギリスのファンは、オーストラリアやアメリカのファンほどキャーキャー騒いだりしない。もっともイギリスのモンキーズ・ファンは例外だけど」

これほどツアー続きでは、大半のグループが「これじゃあ曲を書いて練習するひまがない」と文句を言いそうなところだ。ビートルズでさえアルバムを作るためにスタジオに数カ月もこもっている。ところがビー・ジーズは一時間もあれば曲を作り始めて完成してしまえる。「まったく素晴らしい。彼らが書く曲はほとんど全部売れ筋なんだ」と、マネージャーのロバート・スティグウッドが笑顔で言う。「初めてのニューヨーク旅行の間に、1週間ほどで完璧に売れ筋で美しい曲を10曲ばかり書いたよ」

「観光旅行にはあまり関心がない」とロビン。「どこにいても、常に新しい曲に取り組んでいる」

作曲は主にロビンとバリー・ギブが担当する。「いろいろなものから着想を得ている。身の回りのものや、毎日の出来事から。コーヒーカップひとつから何か思いついたりするから、どこにいるかはあまり関係ない。移動が多いのもかえって助けになっているんじゃないかな」とバリー。

けれどもビー・ジーズの曲を書くにあたって、ロビンとバリーが従う一定のパターンのようなものがある。「いつもこのテーマ、と決めているものはない。ただ、いつもしっかりしたストーリーがあるようにはしている『ニューヨーク炭鉱の悲劇』が良い例だ」とロビン。

ビー・ジーズは自分たちの音楽についてしっかりした意見を持っているだけでなく、ポップス全般についても独自の考え方をしている。「ポップスそのものが音楽性を強めている。最近のソングライターはメロディと歌詞が持つ意味に以前より力を入れている」とヴィンス・メローニー。「以前は、高校のパーティやミルクシェークについての曲ばかりだったけれど、今はポップスそのものがクラシックからジャズまで幅広く網羅している」

けれどもビー・ジーズは今日書かれている曲のすべてが純粋に売れ筋路線だとは思っていない。ポップス音楽全般についてと同様に、曲が好成績を収めて人に愛されるためにはどうあるべきか、彼らには彼らなりの考え方がある。コリン・ピーターセンはこんな風に説明してくれた。「曲にはビートが必要で、牛乳配達の人が口笛で吹けるようでないといけない!」

長い時間をかけ、たくさんの努力を重ねて、ビー・ジーズは今日ある位置にたどり着いた。ビー・ジーズは、ビートルズのイミテーションと呼ばれていた存在から、まさに才能の力によって、1967年最高のニュー・グループと呼ばれる存在になった。そんな彼らも、イージービーツを生んだ国でもある故国オーストラリアを振り返っては、いろいろと思うところがあるようだ。

「オーストラリアはグループには向かない。人口が少ないのに、文字通り何百というグループがひしめいている。経済的にも良くない」とヴィンス。

イギリス入りしてからそれなりに時間が経ったので、イギリスの音楽シーンについても手放しで絶賛という状態ではなくなった。「あんまりおもしろくない時もある。ファンは毎晩のようにビッグネームが演奏するのを観る機会があるから、刺激慣れしちゃっているようなところがある。ポップ・ビジネスを楽しむにはイギリスを離れないと無理かな」

アメリカについては、ビー・ジーズは全員が「アメリカで仕事をするのを楽しみにしている」と同意してくれた。ビー・ジーズの熱心なファンがあちこちで生まれており、アメリカ国内をツアーして回るのが楽しみだという。もっとも、その前に、フランス、ドイツ、イギリスで演奏してライヴ・アクトとして磨きをかける予定だそうだ。

こうして、オーストラリアのトップ・グループとなった三人兄弟のグループは、ほんの一年ほど前に、名声と成功を求めて渡英を決意し、コリン・ピーターセン(ドラムス)とヴィンス・メローニー(リードギター)というオーストラリア出身のミュージシャン二人を仲間に得て、ギブ・ブラザーズからビー・ジーズへと変身を遂げた。

「何一つ無駄ではなかった。ひとつひとつの過程を楽しんできたし、これからもやりたいことがたくさんある」という言葉が彼らの気持ちをよく表している。彼らは何よりもまず5人のミュージシャンであって、ポップスターであり、グループであるのは二の次の話だ。だからこそ大勢のファンは、彼らの最新作を聴いて、その一分一秒を楽しみ、ビー・ジーズならきっとまた誰もが楽しめる傑作を作ってくれるだろうと信じていられるのである。彼らに言える言葉があるとすれば、まさに「ありがとう」だろう。
by Richard Robinson

68年前半に書かれたこの記事、ヴィンス・メローニーの名前がMelouneyではなくMalouneyと書かれていたり、「スピックス・アンド・スペックス」の綴りが違っている箇所があったり、ギブ兄弟をオーストラリア出身だとしていたり、当時の彼らがまさにアメリカから見ると「新人」だったことを伺わせます。

この中でAntique Bee Geesと書かれているのは、Rare, Precious, and Beautiful(邦題『スピックス・アンド・スペックス/ビー・ジーズ』)のことではないかと思います。

「売れ筋」と訳したのはcommercial(コマーシャル)という単語です。以前にビー・ジーズは「ヒット」という軛に縛られていたと書いたことがありますが、ここでもビー・ジーズの最大の長所は「売れる曲を作れること」だと強調されています。マネージャーが笑いながら、その点を強調したという事実は、その後の彼らが歩んだ道を思うとちょっと空恐ろしかったりします。普通、「ヒットが出せる(=売れ筋)」のグループはある段階まで名をあげると、今度は「自分の芸術を追求する自由」を与えられ、多少ともアルバム中心の編成に移行して実験的な方向に走ったりするのですが、ビー・ジーズは(”敏腕”マネージャーのもと)常に「ヒットするか否か」で自分の成功をはかり続け、ヒット・マシンの道を驀進します。その過程で彼らは何を得たのか、あるいは失ったのか、この稀有なバンドの道程を振り返るときに考えずにはいられません。

注目すべきなのは、ロビンが「詩の物語性」をあげ、コリン・ピーターセンが「牛乳配達の人(=市井の人)が口笛で吹けなくてはならない」という名言を吐いていることでしょう。ヒットするか否かではなく、「人の心に残るかどうか」。

ビー・ジーズは、「世界中で何億枚売れた」とか「史上売り上げ何位」と売り上げ中心に称賛されることが多いグループですが、それはとりもなおさず、彼らが「人の心に残る」「心の琴線に触れる」音楽を生み出し続けたためだと思うのです。いいこと言うぜ、コリン!

{Bee Gees Days}

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