【ニューヨーク・タイムズ紙】バリー・ギブ『イン・ザ・ナウ』アルバムレビュー&インタビュー
10月7日の全米発売に先立って、ニューヨーク・タイムズ紙に「ビージーズ最後のひとり:思いのこもったバリー・ギブのアルバム」と題するアルバム・レビュー(オンライン版2016年10月4日付)が掲載されました。
以下に内容を簡単にまとめてご紹介します。
「今思うのは ただ過ぎた日のこと」と32年ぶりのソロ・アルバムの冒頭でバリー・ギブは歌う。ビージーズのメンバーとしての数十年の活動の中で、すっかり耳になじんだスタッカート唱法である。「君にいてほしい ここに 今この時に」
一見、誰とも知らぬ恋人に向かって歌っているようでいて、実はもっと深いところで、この言葉は歳月を重ねる中でバリーが失ってきた家族に向けられている。1988年、ドラッグ問題で苦しんだ後に30歳で亡くなった末弟アンディ、そして一緒にビージーズを組んでいたふたごの弟モーリスとロビン。モーリスは2003年に腸閉そくで他界、享年53歳。ロビンは2012年に癌で他界、享年62歳。8月には95歳の母親バーバラが亡くなった。
この曲「イン・ザ・ナウ」は金曜日に発売されるバリーのニューアルバムのタイトルトラックだ。「自分がこれまで経験してきたことを表現したかった」と70歳になったバリー・ギブは言う。「これは僕の人生です」
弟たちを失って初めて、さまざまな可能性の追求が可能になったという。「僕がソロ・アルバムを出すことを望まない人たちを相手にしてきましたからね」とバリーは笑う。「グループですからね、僕たちの単独活動は歓迎されなかった」
過去に制作されたバリーのソロ・アルバム2枚は未発表に終わっている。1970年にレコーディングされた『The Kid’s No Good』(マスターは紛失)tと80年代末に制作されたアルバムだ。これまでにバリーのソロ・アルバムとして発表されたのは1984年の『ナウ・ヴォイジャー』のみ。ある意味で、今回のニュー・アルバムもデフォルトで生まれた。「いつか、こんな時が来るとは思ってもみなかった。一緒に音楽を作る人間が誰もいないなんていう時が」
マイアミの自宅で電話取材に応じてくれたバリーは、ビージーズ最後のひとりになって生き残った者としての罪悪感、弟たちとの複雑な関係、その全体をとらえる試みとしてのニュー・アルバムについて話してくれた。以下に会話からの抜粋を編集した形でお届けする。
60年代初頭にティーンエージャーだったあなたたち兄弟がオーストラリアで演奏活動を開始したとき、初代マネージャーを務めたのが1992年に亡くなられたお父さんでしたね。当時はどのぐらい人気があったのですか?
子ども時代の僕たちはオーストラリアでよくテレビに出ていました。僕はオーストラリアを愛していたので、その国を後に運試しをしようとイギリスに戻るのは、勇気のいる大きな決断でした。イギリスに戻ったのはビートルズやホリーズが素晴らしいハーモニーをやっていて、あれなら自分たちだってできる、とわかっていたからです。1967年、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が出た月に、僕たちは契約をとろうとしました。まったく金がなくて、僕と父はエージェントめぐりをしたけれど、どこも契約するとは言ってくれませんでした。
ロバート・スティグウッドと契約後のビージーズには、成功した時期が大きく分けて二度ありますね。一度は60年代末、おもにロビンが歌う「マサチューセッツ」「ジョーク」などがヒットした時代。もう一度は70年代中期から後期にかけて、あなたがメインになってディスコのヒットを出した時代です。この極端なキャリアの変動からどんな影響を受けましたか?
僕たちのキャリアは上がって下がって、また上がってまた下がって、でした。大ヒットのあとは、ぽしゃる。慢心したり、自分たちの仕事に対して強い態度に出られるようになるだけの機会がなかった。いつもいつも、自分たちには力があるのだというところを見せようと、肩肘張っていました。
グループ内にもプレッシャーがあったのですよね?
いつも僕とロビンの間の競争がすごかったんです。ただ、時間が経つにつれて、おそらくドラッグの影響でか、ロビンは集中を欠くようになっていった。全員がマリファナやドラッグ、酒などの問題は抱えていたのですが、ロビンは、一時、もう少しで話が通じなくなるぐらいでした。「ライバルはアバだ、ジャクソンズだ」と人には言われましたが、実はお互いがライバルだった。フィル・コリンズとジェネシスの関係、僕たちはみんなあれが欲しかった。
ニュー・アルバムの中の曲「虹のおわりに」はロビンのために書いた曲です。ロビンはガンで死にかけているということを直接は教えてくれなかったそうですが、病気を隠していたことを責める気持ちはありましたか?
それは今でもありますね。でもロビンの立場に立って考えると、僕だってやっぱりロビンには言わなかったろうな、と思います。ロビンは病人扱いされたくなかったんでしょう。ほんとに目に見えて具合が悪くなるまで、病気だということさえ認めようとしなかった。ロビンが亡くなるという時に、僕はロンドンの病院に行って、この歌を彼に歌いました。その時にはもうこん睡状態だったので、聞こえたかどうかはわかりませんけれど、歌えてよかったです。
「虹のおわりに」はカントリー・ソングです。もともとアルバム全体がカントリーになる予定だったのですか?
まず、駆け出し時代の自分が特に好きだった音楽を中心にしてアルバム作りを開始しました。1958年のオーストラリアでは、カントリー・ミュージックこそロックンロールだったんです。今ではカントリーのスターということになっているロイ・オービソンとジョニー・キャッシュも、当時の僕たちにとってはロック・スターだったんです。僕はナッシュビルでかなりの時間を過ごしたのですが、レコード会社に、僕の曲をカントリーのラジオ局に出すのは難しいと言われました。たぶん、そうなんでしょう。ナッシュビルにぶらりと行って、「僕も入れて」というわけには行きませんからね。
アルバムの中に「涙がダイアモンドなら 僕は金持ちなのに」という一節があります。家族を次々に失って、生き残った者としての罪悪感を味わった、ということはありますか?
もちろん。まず、僕は兄弟の中でも一番年上です。一番上の人間は、弟たちが望まない時も、弟たちに目を配りたいという気持ちになる。僕が先に死ぬべきだったのに、という思いがありました。三人の弟を亡くすと、非常に深く学ぶところがあります。人生のこの段階で、僕は誕生と死を単に同じものの二つの要素に過ぎないと考えるようになりました。いずれ、誰もが死ぬ。だから僕は今この瞬間を大切にしたいのです。 (by Jim Farber)
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