43 年前の今日:渋谷公会堂で沢田研二と一緒のビージーズ

渋谷公会堂のステージ終了後、
沢田研二から花束を受け取るビージーズ
(1972年3月23日)

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43 年前の今日、ビージーズは渋谷公会堂のステージに立ちました。曲目等についてはこちらをご覧ください。

右の写真は週刊「セブンティーン」誌に掲載されたもの。この記事がなかったら、当夜のステージに沢田研二が顔を見せたことを覚えていなかったかもしれません。彼の登場は他のロック誌などではあまり取り上げられていなかったような気がします。

当時の日本ではジュリーこと沢田研二の方が圧倒的に人気でしたし、有名だったことでしょう。またティーンエージャーを対象にした「セブンティーン」というメディアのせいもあるでしょう。写真の焦点は明らかにビージーズというより沢田研二、というか、沢田研二から花束を受け取るバリー、であって、ありゃー、ロビンの首が切れています。

しかし、私には沢田研二をステージで見たという記憶がまったくありません。何しろ、生まれて初めてビージーズのステージを見ていたわけですから視野に入っていなかったのでしょう(^^;)。

記事のタイトルは「ビー・ジーズ、ポール・アンカのコンサートは大入り満員なのダ!!」。内容の一部を以下にご紹介します。

「マサチューセッツ」「メロディ・フェア」などで知られるビー・ジーズが、3月20日来日。
第1回の公演を23日の6時半から、東京の渋谷公会堂でひらいたが、さすがに会場は超満員

「イン・ザ・モーニング」をはじめ、ヒット・ナンバーを18曲演奏して終わり近くには、客席もいっしょに拍手を送る熱狂ぶりだった。

この日は、岸部シローも出演したり、沢田研二が花束を贈呈したりして、ビー・ジーズを歓迎した。(中略)

 ビー・ジーズのメンバーも、日本のファンの歓迎ぶりに満足した表情。

「サンキュー」を連発して、ステージから客席にこたえていたビー・ジーズは東京で2回、大阪で2回の公演を終えて、3月28日、羽田空港くからグッドバイしていった。

この彼らの「サンキュー」はけっこう印象的で、別の雑誌に掲載された東京公演評にはこうあります。タイトルは「美しい情緒あふれるステージ ザ・ビー・ジーズ」

暗いステージに立った兄弟にスポットが当たったとたん、中学生、高校生の女子ファンが黄色い歓声をあげて手をふる。この三兄弟、まことに礼儀正しく、一曲終るごとに最敬礼。近ごろのヤング・スターのコンサートではとんとお目にかからなっくなったステージ・マナーである。オーケストラをバックに次々とくりだされるナンバーはすべて三兄弟の作品。「ラヴ・サムバディ」「ワーズ」「傷心の日々」「マサチューセッツ」。どれもメロディが美しく、歌詞もまたヤングの哀歓をリリカルに綴って快い。ベコーのように耳に手を当てて歌うロビン。ひげづらからは想像できぬロマンティックなムードのある歌をきかせるバリー。ベース・ギターとピアノで活躍し、コミカルなゼスチュアもみせるモーリス。けっしてうなるほどの技巧や声を持っている三人ではないが、彼らのリリシズムと、甘美なセンティメントは、とかく失われがちな情緒の尊さを示しているようで興味深いし、大いにうれしくもある。気持のよいコンサートであった。

 好意的な評ではありますが、当時の彼らが位置的には「ヤング・スター」であった関係か、ちょっと上から目線でもありますね。比較的対象年齢の高い音楽誌(たぶん「ステレオ」か「音響技術」? 嗚呼、当時、切り抜きにソースを書く習慣がなかったので今になって困っています)に掲載されたコンサート評です。(記事中に「ベコーのように」とあるのは、やはり耳に手をあてて歌うので知られていたフランスの歌手ジルベール・ベコーのことです)

このふたつのコンサート評に見るように、彼らのステージマナーはやや古風なぐらいに丁寧な印象でした。その後、フィーバーで全米を席巻した時代のローリング・ストーン誌あたりのインタビューで(おそらくティモシー・ホワイトに)彼らが自分たちの仕事を「音楽」ではなく「ショービジネス」と呼んでいる事実が指摘されていましたが、そういう「立ち位置の微妙さ」が彼らの”ヤング(死語?)ミュージシャンとしては珍しく丁寧な”ステージマナーにも表れていた気がします。また、最近のインタビューでバリーがバンドマンをしていた父親のヒューが彼らにステージマナーを教えたという話をしていますが、そのお父さんはこの時の公演にも同行していました。

{Bee Gees Days}

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