【フリップ誌1968年11月号】ロビン・ギブが語る「僕と兄と弟とビー・ジーズと」
ロビン・ギブが語る「僕と兄弟たちとビー・ジーズ」
顔つきや体つきの特徴からいって、ロビン・ギブは天性のコメディアンになれたはずだ。大きな口と目立つ歯のせいで、ほんのわずかにほほえむだけで、青白くて細い顔がぱっととびきりの笑顔に変わるのだ。
ロビンはビー・ジーズのジョーカーである。
ビー・ジーズのインタビューでは、いつもバリーがギブ兄弟を代表して話す。ロビンはモーリスよりは話すことが多いけれど、ロビンもモーリスも主演のバリーに比べてわき役という感じだ……。けれどもそれも何か変わった意見やありふれたギャグが飛び出して、それまで整然と進行していたインタビューがシッチャカメッチャカになるまでの話! そうなるとがぜん、ロビンの存在が表に出てくるのである。
口の悪い人なら、これはふだんバリーの陰に隠れ気味のロビンが自分に注意を引こうとしてやっているんだ、というかもしれない……が、バリーや他のメンバーがいない静かなかたすみにロビンを連れていってインタビューしてみると、そんなロビンのもうひとつ別の顔を知ることができる。
ロビンは自分のことを話すのが好きだ、という印象を受ける。そんな彼は、ちょっとばかり、細君に不満があってバーのかたすみでひとりちびちびと飲みながら、だれかに話を聞いてもらいたがっている酔っ払い…みたいな感じもある。
「ビー・ジーズはどんなふうにスタートしたのか?」というような質問をすると、ロビンは話し始める。平坦な鼻にかかった声で…歯を見せて笑いながら、ほとんど息もつかずに事実をまくしてる。まるですでに頭の中に言葉が書かれているようだ。この件については、また後ほど。
ロビンの語るロビン像はこんな感じ。「とっても短気で、クリエーティブで、ちょっとヒポコンデリー気味。ちょっとニューロティックで、朝はかなりだらけていて、一風変わった皮肉なユーモアの持ち主」。
私はそこに「感じがよくて、フレンドリーで知的で、とても繊細だ」と付け加えたい。ロビンと彼女のモリー・ハリスが死傷者を出したロンドンの列車事故から無事に生還したとき、ロビンは両親の住む静かな田舎のコテージで静養した。この事故はロビンの心に忘れがたい傷を残している。
ビー・ジーズにおけるロビンの貢献度を過小評価してはならない。ボーカル面ではバリーと同じだけの仕事をし、私を含めて、ロビンのハスキーでブルージーなボーカルにはバリーのボーカル以上のものがあると考える人間も多い。
さらに、ロビンはギター、ピアノ、メロディカ、オートハープを演奏し、ビー・ジーズにとってもっとも重大な要素ともいえるギブ兄弟のソングライティングにおいても、ロビンはバリーとモーリスと同じだけ大きな役割を果たしている。
ロビンが書く曲には彼自身の気持ちが表現されている。「僕たちは作品に自分たちの気持ちが表現されるようにしている。自分の気持ちと無関係な内容について書いたりはしない。たとえば『マサチューセッツ』はマサチューセッツに帰っていく人の歌じゃない。どこかへ、何かのところへ帰りたいと願うすべての人のことを歌ったものだ。今いる場所ではない場所にいきたいという人の歌なんだ」
ロビンもそういう人のひとり? 「いや、今はちがう。元はそうだったけどね。でも、今はもうマサチューセッツに帰れちゃったから。まだ認められてないころの僕たちは、そこを脱して認められるようになりたかった。いつもいつもそう願っていた。認められたくてイギリスにもどってきたんだ。そして認められた。
で、『ワールド』はそこからさらに一歩踏み出した内容なんだ。『ワールド』は、この世界を知りつくしている人間の歌で、物語の流れとしては、『じゃあ、明日の僕はどこにいるんだろう?』となる。『なるほどわかった、世界は丸い。そして毎日雨が降る』って、つまりこの世界のことがすっかりわかってしまって、その現実とともに生き、現実を受け入れている。それこそ、今の僕たちだよ。心の平和を見つけて、今では幸せなんだ」
ロビンは兄と弟ととても親しい。特に一緒に曲を書くことの多いバリーと親しい。あまり親しいので、お互いの間に一種のテレパシーが働いているんじゃないかと思うほどだそうだ。「なんか、いつもテレパシーみたいなことが起こるんだよ。たぶん普通以上に、兄弟として距離が近いからじゃないかと思う。ときどきこわくなるぐらいだ。バリーと一緒に道を歩いていて、ふいにふたりとも同じ曲を同じキーで一緒に歌い始めたりするんだよ。僕たちの曲って心の中で書いてるようなところがあるんだよね。9割がテレパシーだと思う。心の中に同じコードが生まれるんだ。バリーがたまたまあるメロディを口ずさむと、僕の方でも同じことを考えていたりする。急にバリーが僕の方を見ると、ふたりとも、あ、いま波長が合ってるな、って思うんだ。どこにいてもそういうことが起こる。ちょっとこわいぐらいだけど、お互いにこの件について口には出さない。そうするとかえって何かストップがかかっちゃうかもしれないから。でも、僕たち、ありがたいと思っている。このままいきたいと思っているんだよ」
ギブ三兄弟が仲が良いのは間違いない。ロビンが「僕は」とか「僕の」と言わずに、いつも「僕たちは」「僕たちの」と話すところにも、それが表れている。
ロビンもあとのふたりと同じで、偶然のいたずらからマン島で生まれた。イングランドの北東海岸沖にある島である。生まれたのは1949年12月22日。ふたごの弟モーリスよりも1時間先に生まれた。「両親はマンチェスターに住んでいたんだけど、ダグラスで休暇を過ごしていて、いつもダグラスにいるときに母はおめでただった」というのがロビンの説明だ。
子どものころ通ったのは、チョールトンカム・ハーディのオズワルド・ロード・スクールとか、マンチェスターのキャベンディッシュ・ロード・スクールといったロマンチックな名称の学校で、当時のロビンは算数と音楽が苦手で、スペリングと歴史、化学、天文学が好きだった。
ビー・ジーズの歴史についてもとうとうと語ってくれた。「1956年11月に僕たちはマンチェスターのバッキンガム通りで自転車に乗ったバリーを追いかけて、土曜日のマチネーの時にゴーモント劇場で歌ってる子供たちの話をしていた。
『僕たちもああいうのをやってみないか?』って話になったんだよね。僕たちは全部で5人だった。当時、エヴァリー・ブラザースの『ウェイク・アップ・リトル・スージー』っていう曲があった。で、その曲に合わせて歌うフリをして、グループ名はラトルスネークスでいこう、ということになった。土曜の朝になって、ゴーモント劇場に向かって階段をのぼっているところで、バリーがレコードを落とした。そしたら割れちゃった。『どうしよう』って思ったよ。バリーが歌うフリをするのに使おうとギターを持ってきていた。それで、じゃあ、ステージに出て本当に歌おうぜ、ってバリーが提案した。僕たちは『ロリポップ』を歌ったんだけど大ウケだった。で、さらに5曲歌っちゃった。これがビー・ジーズのはじまり」
あとのふたりのメンバーとはその後別れて、三兄弟は二年後に両親がオーストラリアに移住するまでマチネー出演を続けた。ロビンは10歳だった。移住後1年して、また彼らはグループ活動を始めた。
まず、ブリスベーンのスピードウェイ・サーカスで歌い、続いてDJの友人が彼らの作ったテープを流してくれた。それがブレイクにつながった。ビー・ジーズはブリスベーンで「コッティのハッピー・アワー」というテレビ番組を持った。
それからオーストラリアの国内チャートでトップ10に入るヒットを飛ばし、音楽ディレクターのビル・シェファードやプロデューサーのオシー・バーンとの幸運な出会いがあり、イギリスへの帰還が、マネージャーのロバート・スティグウッドとの出会いがあった。
「今度は僕たちはロバートに世界を捧げたい」とロビン。「彼は僕たちのために素晴らしいことをしてくれたから」
アメリカのティーン雑誌Flipの1968年11月号に掲載されたロビン・ギブ像ですが、文中に「私を含め」というような表現がある割りには署名記事ではなく、この「私」という筆者は不明です。しかし「ハスキーでブルージーなボーカル」ってロビンのことじゃなくて、バリーのことじゃないか、と思った人は私以外にもいるはずです。ひょっとして「記事の筆者」は自分がインタビューしている相手(ロビン)が誰なのか、わかっていなかったのでは?
当時のアメリカのティーン雑誌はイギリスのアーティストに関してはイギリスの音楽雑誌の記事の内容を使用していたようなところもあるので、この記事も元はイギリスの音楽誌(の署名記事)であるかもしれません。
興味深いのはロビンがここで展開する「ワールド」論。「マサチューセッツ」は現状から脱出したい、つまり“今いる場所ではないどこか”に行きたいと願う人の歌であり、「ワールド」はその次の段階、つまり脱出した先での状態、“現状の受容と肯定、新しい希求(ここからどこへ行こうか)”を歌った曲である、というものです。
奇しくも、「マサチューセッツ」で初の全英ナンバーワンを達成したビー・ジーズのニュー・シングルということで、イギリスで「ワールド」が発売された時のキャッチコピーは、このインタビューの最後でロビンが口にした「ビー・ジーズは今度はあなたに世界(ワールド)を捧げます」というものでした。
それにしても「モーリスよりバリーと親しい」とあるのは、当時はバリーとロビンがメインのソングライター・コンビであったからとはいえ、ちょっと意外です。
しかし何はともあれ、忘れてはならないのは、この段階でビー・ジーズが大変に若かったということです。取材を受けたロビンは17~8歳だったはずです。そんな意味で若さの気負いも感じられるのですが、やはりその内容と作り手としての矜持には感銘を受けざるを得ません。
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