【Mojo誌2001年5月号】 “フィーバーの遺産”―ビージーズ・インタビュー
イギリスの音楽誌「Mojo」の2001年5月号―『サタデー・ナイト・フィーバー』から20余年の歳月を経て、狂熱とそれに続いたバッシング、不屈の復活の日々をビージーズが語ります
ビージーズは、ディスコ時代の遺物とコケにされながらも、身近な死にもドラッグ問題にもアルコール問題にも負けず、海千山千の弁護士たちの嘲弄にも負けず、ポップスの究極のサバイバーになった。その驚異的な復活の秘密にジョニー・ブラックが迫る。
「どんなイメージ?」と聞くのはバリー・ギブ。「ぼくにはイメージなんてないよ」 イメージはなくても、ギターならあるバリー。その手にしっかりと握られているのは30分前に買ったばかりという中古のエピフォン。特注もので、ボディが空洞になっているタイプだ。ビージーズがマイアミでの仕事場にしているミドル・イヤー・スタジオで、バリーはこれをサウンド・エンジニアのジョン・マーチャントに得意そうに見せていた。「店のやつがぼくに売りたがらないんだよ」とバリー。ちょっと声が高くなってきた。「ぼくのイメージにあわないっていうんだ。ぼくを何だと思ってるんだろうね、図書館の司書かい? いまのぼくにはイメージなんてないと思うけどね。このギターで新しいイメージが作れるんじゃないかと思うけど。『ぼくは新しく生まれ変わるんだから、とっととギターを箱に入れてくれ!』って言ってやったよ」
マーチャントはボスであるバリーを見やった。ボス、本気なのかな? ギターのボディには、どぎついとはいわないまでも、かなり目立つ炎の絵が描いてある。フレットボードにそって、ところどころに四角いマザーオブパールがはめ込んであって、ボリュームとトーンの調整位置にもやはりものすごく大きな、赤と白の半透明のプラスティックが四角く埋め込まれている。
バリーはギターを持ち上げて、しげしげと見つめた。笑うまいとしても、口が笑ってしまう。「まあ、このでっかい四角はとっちゃうと思うけどね」
実は、バリー・ギブほど自分のイメージをきっちりと自覚しているアーティストも珍しい。70年代半ば、ビージーズは地球上でもっとも売れているアーティストだった。だが胸をはだけ、風に髪をなびかせたディスコの寵児としてのイメージは、彼らに大きな傷を負わせることになる。わずか数年で、ビージーズは流行遅れの烙印を押され、プラチナセールスを誇ったその輝かしい売り上げも悪趣味扱いされるようになった。「忘れさられたディスコ時代の遺物」としてロックの世界の暗いかたすみに押しやられ、その名声が完全復活するにはほぼ20年の歳月を要したのである。突如、世界中のティーンバンドがビージーズ作品のカタログを手に、「次はどれにしよう」と競争をはじめるにいたって、初めてビージーズが正当に認識されだしたのだ。
いやいや、バリー・ギブなら自分のイメージの何たるかを知っている。だからなのだろう、きっと。バリーはMojo誌のこのインタビューのために、だぼっとしたブルーのVネックと着古したブルージーンズの上にしわしわの青いシャツをひっかけ、ご丁寧にデニムの、それも青の野球帽をこれ見よがしにつばを前にしてかぶって現れた。くつろいで仕事中のロック・ミュージシャンを絵に描いたような姿ではないか。でもひょっとして、バリーってほんとに仕事中のロック・ミュージシャンなのかも。(まあ、たしかに億万長者ではあるのだが) そして、ほんとにくつろいだ気分でいるのかも。何しろ人目にさらされて40年というアーティストなので、本心がちょっと読めないのはたしかだ。
読書用眼鏡とサングラスをVネックのはしっこからぶらさげたバリーは、ペットボトルからエヴィアンをぐびぐび飲む。「二階でやろうか」というわけで、我々はスタジオを出て、アンディの遺品が飾られた小さなアルコーブの前を通って移動した。ギブ兄弟の末弟であるアンディは、スターであることの重荷に耐えられなかった。壁にかかったアンディのギターには一輪のバラが飾られ、数々の記念品がまわりに配置されている。「これまでの人生で一番つらかった経験は何ですか?」といったたぐいの質問が一番バカげてるとバリーならいうだろう。答ならあまりにもはっきりしている。悲しみはまだ癒えてはいない。
階段の吹き抜けには、ふつうの人間が持っているレコードの数をしのぎそうな枚数のプラチナレコードが飾られている。階段をのぼりつめたところ、ビージーズのパーソナルマネージャーであるディック・アシュビーの事務所と隣接する、大きな風通しのいい部屋がインタビュー場所になった。全体に木調で、豪華な革のソファセットがならんでいる。モーリスが現れた。よく日に焼けて、健康そのものといった感じ。高そうな黒の皮ジャンにおそろいの帽子。帽子は午後じゅう、かぶったままだった。モーリスは話しながらダンフィルを吹かし、鼻メガネごしにこっちをのぞく。最後に現れたのがモーリスのふたごの兄にあたるロビン。心配になるぐらいやせていて、三人の中で一番ピリピリした印象だが、話してみるといい感じ。
こんなにくつろいだ雰囲気でいいのかな。ビージーズといえば取材者泣かせで有名で、ディスコ時代の話には感じやすいとか、バリーは大物ぶりっこだとか、いろいろと言われているではないか。それになんといっても、1997年10月22日のクライブ・アンダーソンのトークショーでは、インタビューの最中に席を蹴ったことでも知られているビージーズなのである。
「もっとひどいことも経験してるからね」とモーリス。彼の話によれば、アンダーソンのやり方は知っていたので、出演を承諾するのに2年も迷っていたのだとか。結局、アンダーソンはビージーズの大ファンだといわれて出演を承諾したのだが、「その場になって、アンダーソンが話し始めたとたんに…いやまあ」。
そう、ショーが始まって間もなく、アンダーソンは言った。「君たち、ヒットライターっていわれてるんだよね?」 バリー・ギブがこれに応えて、「それは悪くない呼び名だね」と言ったのだが、これに対しアンダーソンの飛ばしたギャグは「一文字足りないんじゃない?」というものだった(訳注:「ヒット(hit)」に一文字(s)を加えるとshitになります)。
「ぼくたちが席を立つ直前にアンダーソンが『バカ野郎』というような言い方をしたんで、それが席を立った原因だと思われてるけど、実際は彼の第一声が問題だった」とバリー。「こちらもプロとして少しはがまんしてあの場にいたんだよ」
「会場にはぼくたちのファンの人たちも来てた」とモーリス。「みんな、『どうしてあんなこと言わせておくんだ』ってびっくりした顔をしてたよ。気がついたら、バリーが立ち上がってた。バリーがカッカしてるのがビンビン伝わってきてたね。バリーはほんとに怒ってた。でもいいこともあったよ。あの晩以来、ロビンが変わったと思う。やわらかくなったっていうか。平気になったっていうか。長いこと、いろいろと言われてきたからね。アンダーソンの言葉で堪忍袋の緒が切れたのさ。あれがぼくらにとってのターニングポイントになった」
血はヘアスプレイよりも濃しというべきか、ビージーズはもっと弱気な人間ならくじけそうな苦境を次々と乗り越えてきた。60年代の終わりにはドラッグとアルコールが原因で解散もしている。1974年に作った「A Kick In the Pants Is Worth Eight In the Head」というアルバムはビージーズのマネージャーであるロバート・スティグウッドのレーベル、RSOに拒否された。さらには映画『サージェント・ペッパー』出演という不運。批評家にも観客にも見放されたこの映画出演から2年後、今度はソングライター、ロン・セールが「How Deep Is Your Love」は彼の作品の盗作だという訴えを起こした。
ところが、まるでこうした災難の数々から逆に力を得ているかのように、これでいよいよビージーズも終わりかと思われるたびに、奇跡の復活劇が起こる。彼らが最初の大変身を遂げたのは1975年のことである。その前年、ビージーズはついにイギリスのナイトクラブでドサまわりをするまでに落ちぶれていた。「バトレー・バラエティ・クラブの楽屋で話していたのを覚えているよ。『もしこれがどん底なら、これ以上落ちることはないんだから、きっと上昇気流に転じるさ』って、ぼくが言ったんだ」とバリー。
かくして上昇気流に乗ってアリフ・マーディンが登場する。「A Kick In the Pants」を拒否したスティグウッドは、アレサ・フランクリン、ラスカルズ、ダスティ・スプリングフィールド、ホール&オーツなどと組んで仕事をしてきたアトランティックの敏腕プロデューサー兼アレンジャー、アリフ・マーディンとビージーズを引きあわせた。「組んでやった最初のアルバム『Mr. Natural』はあまりぱっとせず、ビージーズはずいぶん悲観してたけど、ぼくはまだまだこれからだって思ってた」とアリフ。「ぼくの方では彼らと組んでやっていくやり方がわかりはじめてたっていう段階だったからね。マイアミのクライテリア・スタジオで作った2枚目のアルバム『Main Course』で流れが変わった」
実は『Main Course』も最初はぱっとしなかった。ビージーズが、もはや通用しなくなった昔ながらのバラードに固執していたからだ。スティグウッドがイギリスから飛んできて、檄をとばした。「気に入らない曲ばかりだった。ほとんどの曲をオクラにして、もういっぺんやり直してみろ、ってビージーズに言った。金はオレが面倒みるから、心配するな、とにかく耳の穴をかっぽじって、いま、どんな曲が流行っているのか、よーく聞いてみろ、ってね」
幸い、当時のマイアミで流行っていたのはソウルとR&Bで、それがビージーズがもともと持っていたブラックミュージックへの情熱に火をつけた。アリフ・マーディンも、その方向はいい、と励まして、最新流行のシンセサイザーを取り入れてはどうかとアドバイスしてくれた。その結果、生まれた最初の曲が「Jive Talkin’」である。「いっておくが、最初から踊れる曲を作ろうとしてたわけじゃないんだ」とアリフ。「自分の好きな音楽を作ろうとしていただけでね。ロバート・スティグウッドと、アトランティックでぼくの上司にあたるアーメット・アーティガンに聞かせたときに、『これはまさにダンスのヒットだな』っていう話が初めて出たんだよ」
新生ビージーズにとって次の大きな一歩は「Nights On Broadway」のレコーディング中に起こった。キーボードのブルー・ウィーバーの証言によると「レコーディングしたときのキーがバリーには歌いにくかった。すごーく低い声を出さなきゃならなくて、大変そうだった」 そこでアリフ・マーディンが、1オクターブあげてみたら、と提案した。そのためにはバリーはファルセットで歌うしかない。「アリフがぼくに『キャーって声が出るかな?』っていうんで、『場合によってはね』って答えたら、『キャーっていう声で歌えるか?』っていうんだよ。だから、『やってみる』っていったんだけどね」 最初、バリーは半信半疑だったそうだが、アリフ・マーディンは、これで曲に必要な勢いと迫力が出たといって、大満足だった。
ダンサブルな曲に、ファンキーなシンセサイザーの音、それにファルセットのボーカル。これが新生ビージーズのトレードマークになり、続々とヒットが生まれた。1977年の12月には、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒットにも力を得て、「How Deep Is Your Love」がヒットチャートの1位に輝く。これは6曲続いたRSOの全米連続ナンバーワン・ヒットの皮きりともなった。1979年1月にはビージーズをメインにフィーチャーした『サタデー・ナイト・フィーバー』サントラの売り上げは2500万枚にも達していた。
「あれはおれたちが練りに練った戦略的な動きだったと思われてるみたいだけど、実は単なる成り行きだった」とモーリス。「ロバートが、ちょっと映画をプロデュースしてるんで、曲を書いてくれないかって言ってきてね。ペンキ屋で働いてる男が、土曜ごとにディスコに給料をつぎこんで、最後にはダンスのコンテストに優勝するっていう映画で、ぜんぜん大作なんかじゃない。そのサントラをやるのもいいな、って思ってさ。それだけのことだったんだ。ところが結果は大騒ぎ。供給が追いつかなくなって、他のレコード会社に頼んでプレスしてもらうほどの騒ぎだった」
皮肉にも、これが成功は失敗の母にもなるという稀有なケースになってしまった。ホワイトロックのメディアがディスコはティーンエージャー向けに作り出された子供だましのブームだと断じるにいたって、ビージーズは裏切り者の烙印を押されてしまう。互いのプライドが原因でビージーズが兄弟げんかを繰りかえしたのもマイナス・イメージになった。80年代初頭には、「二度目の解散はない」と繰り返すのがビージーズのおはこになっていた。「おれたちが『サタデー・ナイト・フィーバー』で出てきたと思ってる人が多かったのも重荷だった」とモーリス。「あの映画の前にはおれたちの音楽はブルー・アイド・ソウルと呼ばれていたのに、あの映画以降はディスコ・キングになっちゃったものな。『How Deep Is Your Love』だってR&Bのバラードだったのに、映画が出たらディスコ・バラードってことになっちゃった。
でもね、おれはどの曲も大好きなんだ。何はともあれ、あの時代を通り抜けていまのおれたちがいるんじゃないか。自分だってフィーバーのサントラみたいなヒットを出したいと思ってる人だって多いんだよ。だから、おれはその点を誇りに思ってる。もっともそのおかげで批判の時代だった80年代にはいろいろ言われたわけだけどね」
バリーはモーリスほど冷静ではない。「うーん、いまだにあの件につきまとわれてる気がする。フィーバーのことを人に聞かれると、なんといって言いかわからなくなるよ。ほんと、話すだけで吐き気がしそうな話題ってあるだろ、あれだね、まさに。この次のツアーではフィーバーの曲はあまりやらないつもりだ。とまあ、一方ではそう思ってる。でももう一方では、あれはあれでいい時代だった、問題はビージーズにあったわけじゃないんだから、心配いらないぞって気持ちもあるけどね。誰も彼もがパーティって気分の時代だったじゃないか。問題は別のところにあったんじゃないかな」
80年代は、ビージーズにとって、おおむね低調な時期だった。末弟のアンディを亡くした時期でもある。バリーは、バーブラ・ストライサンドの「Woman In Love」(アメリカとイギリスで1位)、ケニー・ロジャーズとドリー・パートンの「Islands In the Stream」(アメリカで1位)、ダイアナ・ロスの「Chain Reaction」(イギリスで1位)、ディオンヌ・ワーウィックのカムバックヒット「Heartbreaker」などの仕事をして、ソングライターとしてプロデューサーとして輝き続けた。それから、まるで失敗に対する条件反射のように、ビージーズは再びアリフ・マーディンと組んで、「You Win Again」で再度の復活を遂げる。この曲は1987年にイギリスでナンバーワンになった。こうして歩み続けるビージーズの原動力はいったい何なのだろう?
「ビージーズに関するよくある誤解のひとつが、あれはバリーのグループだ、という見方だ」とアリフ・マーディンは語る。「断じて違うね。たしかにロビンとモーリスは長兄としてバリーを尊敬してはいるけれど、三人が曲を作っているところを見れば、三人ともが貢献しているし、それぞれが自分の意見をしっかり持って主張しているということがわかる」
「You Win Again」がいい例だ。「おれたちがそろって曲を書くときは、別々の三人っていうよりひとりの人間みたいな感じになる」とモーリス。「たいていはタイトル候補がいくつもあって、その中から選ぶ。おれは『You Win Again』というタイトルは気に入ってたけど、曲そのものがどうなるかは見当もついてなかった。うちのガレージでデモを作って、足踏みとかも録音した。ドラムスが一台あっただけで、あとはただサウンドだけ。あとになってみんなに出だしのところの足踏みはとれって言われた。あれはいらないって。『あそこははずせ。うるさすぎる。イントロではいらない。音楽が入ってからにしたら』って。でもさ、ラジオからあのジャバドゥンバ、ジャバドゥンバっていうのが聞こえてくると、あ、ビージーズだってわかるだろ。一種の合図なんだよ。すぐに誰だかわかるようにする、これがちょっとした秘訣だな」
「そのときどきで、ぼくたちのひとりひとりがリーダーなんだ」とバリー。「他のみんながやろうっていうことにぼくだけ気乗りがしないと、妻のリンダが『さっさとしたくして行きなさい。やるのよ。ぐちぐち言ってちゃダメ』って言ってくれる。三人とも女房はそういう感じだね。ふてくされたりしてると叱られるよ。『ほら、また、変なプライドを持ってるんだから。ダメダメ、自分のトシを考えて大人になりなさい』ってね。ぼくらもお互いに対してそんな感じだ。お互いに励ましあって進んでる」
90年代には1位こそないが、1997年のアルバム『Still Waters』がイギリスで2位。トップ20に入ったシングルも多いし、誇り高いビージーズ節の数々も若手ポップミュージシャンに続々ととりあげられているし、ビージーズは満足気だ。Nトランスの「Stayin’ Alive」はカナダで1位になり、Take Thatは「How Deep Is Your Love」のカバーをイギリスで1位にして有終の美を飾った。ボーイゾンは「Words」ををカバーし(イギリスで1位)、ステップスは「Tragedy」をカバーした(イギリスで1位)。
「ああやってソングライターとしての自分を確認できたのはうれしかったけど、本当に状況が変わりだしたのは1997年だった」とモーリス。「3ヶ月の間に、ワールド・ミュージック・アワーズからロックの殿堂入りまで、功労賞を4つももらったからね。なんか変な感じだったね。流れが変わり出して、みんなに聞いてもらえるようになったっていうか。だから1998年にワン・ナイト・オンリーのツアーをはじめたら、信じられないくらい関心が集まった」
中年になったビージーズがツアーで疲弊しないようにと、ワン・ナイト・オンリーは天才的な構成になっていた。世界各国の大都市で、ただ1度ずつしかコンサートをしないというこのやり方は、それぞれのコンサートに希少価値を与えたばかりか、ビージーズ本人もコンサートとコンサートの間に充電できるというおまけがある。何しろ、ビージーズも年々若くなっているわけではなし、バリーなんか1994年には心臓を患って入院していたぐらいなのだ。
「ウェンブレー・スタジアムでのコンサートは長年の夢だった」とモーリス。「一番覚えてるのは、スタジアムの上にある部屋で、観客が流れ込んでくるのを見ていたら、バリーがおれをつついて、『なんとかごまかせたね。また、うまくやれたね』っていったことかな。おれたち三人とも、バカみたいにケラケラ笑っちゃったよ。それっておれたちにとっての長年の実感だったもん。ずうっとうまくごまかしてきてるんだけど、そのうちに誰かが気づくぞ、みたいなさ」
ニューアルバム『This Is Where I Came In』では各メンバーの個性がこれまで以上に強く打ち出されている。「それぞれ違うアプローチでやってみた」とロビン。「それぞれがクリエーターとして力を発揮できるように、ひとりが2曲ずつ受けもって、残りの曲を全員でやることにしたんだけど、その2曲ずつも結局お互いに手を貸しあってやったね。ぼくの2曲は、『One』で一緒に組んだピート・ヴェテッシを起用して、イギリスで作った。モーリスは、かなりの部分をソロとして、ここでやったし、バリーはビージーズのツアー・バンドを使ってやったから、また違うアプローチになってる」
結果として、アルバム全体はこれまでになく多彩なイメージになった。「ある意味、回顧的かな」とバリー。「この40年、50年、うーん、60年とかを振り返るっていう感じだよね。どの時代からも影響を受けてる。たとえば『Technicolor Dreams』はビージーズの曲っていうより、ノエル・カワードの曲だ。でもいまの時点で、ただ一種類の音楽だけを集めたアルバムを作るのは、ちょっと退屈なんだよ。時代は気にせずに、子供のころから影響を受けた音楽全部についてのレコードを作った」
「いわせて、いわせて」とモーリスがうれしさを隠し切れないという様子でいった。「おれがやった『Walking On Air』は、ほんと、夏―っ、ビーチボーイズーっていう、あのわくわく感を表現した曲だったんだけど、昨日の夜、ブライアン・ウィルソンから電話がきてさ、『Walking On Air』にはやられたって言うんだよ。やってよかったなって思ったよ。あれはブライアンへのオマージュみたいなものだったからね。ビーチボーイズのハーモニーに影響を受けた人は多いけど、中でもおれたちは影響を受けたもの」
プライドの問題は別にして、このニューアルバムがマルチプラチナにならなくても、別にビージーズにとってはたいした問題ではない。60年代の成功からは何も残らなかったというビージーズだが、いまやリッチそのものだからだ。「すっかり交渉しなおしたからね」とバリー。「最初に金銭がらみのごたごたが起きた67年の時点まで戻って、権利を主張し、それが通った。いまでは自分の作品とその出版権、それからレコードのマスター版に関する権利もぜんぶ取り返したよ。現在、状況は申しぶんない。自分で事態を掌握している。またヒットを出せるかどうかについては、わからないけどね。出したいという気持ちはあるし、できなければへこみもするだろう。もしヒットが出せれば、5歳の子供がアイスクリームを買ってもらったときみたいにうれしいだろうな。あれって最高の気持ちだから」
「第四のビージーズ」とも言われるロバート・スティグウッドとは、長い間にはいさかいもあったが、今のバリーは、現状に満足だという。「ロバートが判断ミスをしたことはないと思う。『サージェント・ペッパー』だって悪い映画じゃなかったと思うよ。結果論で見るとまずかったように見えるけれど、映画のアイディアとしては素晴らしかったと思う。ロバートの本能は正しかったと思うよ」
巨大なパワーと影響力を誇るロバート・スティグウッドはメディアからは遠ざかってきた。だがギブ兄弟の話では、彼は飽くなき権力欲にとりつかれて人心操作にあけくれる人物ではなく、ブライアン・エプスタインのような父親がわりの存在だそうだ。「ロバートが面倒を見てくれたのは幸せだったと思う。人を食い物にしようって連中がうようよしている世界だからね。ロバートとは最初から絶対的な協力関係が成り立っていた。レコード会社の社長とぼくらのマネージャーをまじえて会食をして、新曲を流し、最善策を練るっていう関係だったから」
だが、歳月が流れるにつれて、業界の細分化と秘密組織化が進行した。「ビジネスのトップレベルには、アーティストには見えない暗部が存在する。力を持った人間だけが、どこかの別荘ででも落ち合って、何か別種のやりかたで、アーティストのキャリアを計画し、お互いに協力を約束しあう。レコード会社の社長はみんなそうしてる。その結果、アーティストは孤立する。マネージャーがレコード会社の社長と話す。社長がマネージャーに折り返し電話する。そしてマネージャーがグループに決定事項を伝える。それが今のビジネスさ。コングロマリットだね。個々の特色が出ない」
その例としてバリーは、バックストリートボーイズのために曲を書いた経験について話してくれた。「ぼくはボーイバンドの中でバックストリートボーイズを一番買っている。彼らのために曲を書いて贈ってやり、気に入ったっていう返事ももらっていた。ところが後になって彼らのマネージャーから、『バックストリートボーイズがレコーディングする曲は私が決めます』って言ってきたんだよ。何だってんだろうね、まったく」
バリーにとっては、これは金の問題ではなく、プライドの問題だ。でもそれにこだわっている時間はない。インタビューを終えたバリーはスタジオに戻って、BBCのスペシャル番組のためにアレンジ、ミュージシャン、機器などの細かな点についてジョン・マーチャントと打ち合わせに入った。ニューアルバムのプロモーション用にワン・ナイト・オンリー・コンサート・ツアーの再現も計画されている。候補地は日本とブラジル(それからモーリスが「できれば」という)とイギリスだ。それ以外にも、Mojo誌に最近載った「埋もれた宝」特集にも影響されてか、ロビンにとってのひとつの頂点ともいえるコンセプト・アルバム『Odessa』を一連の特別ショーにしたてようという計画もある。
たしかに名前はダサい。キャリアのアップダウンも激しい。兄弟げんかもした。歯ならびも悪い。その他にもいろいろあるけれど、ビージーズはいまやビートルズ、ポール・マッカートニー、エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソンと並んで史上トップ5のレコーディングアーティストにランクされている。バリーはプロデューサーとして史上3位で、ナンバー1の数では最高だ(14曲)。たしかに90年代のティーン向けバンドがビージーズに憧れるのもよくわかる。だが、ブリティッシュポップの雄、ノエル・ギャラガーが「『To Love Somebody』のような曲が書けたらなあ」というとき、ゴスロックのゴッドファーザー、アリス・クーパーが「ビージーズは最高のソングライターさ。彼らの音楽が大好きだ」と語るとき、そのときこそ、イメージも流行も、売り上げグラフさえも乗り越えてビージーズが存在し続けてきたことがわかるのだ。この先、またまた何か、大顰蹙なことをビージーズがしでかすとは、ちょっと想像しにくい。でもなあ、ビージーズだからなあ、きっとまた何か思いつくんだろうなあ。
{Mojo誌2001年5月号―ジョニー・ブラック}
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