アルバム『フィフティ・セント・キャサリンズ・ドライヴ』について/RJ・ギブ、ハフィントンポスト・インタビュー
ロビン・ギブのソロアルバム『フィフティ・セント・キャサリンズ・ドライヴ』は英国、ヨーロッパで9月29日(月)、アメリカでは30日に発売されました。ドゥイーナ夫人と子息RJ・ギブは月曜日をメディア対応日として英デイリー・エクスプレス紙とマンチェスター・イヴニング・ニューズ紙の取材を受けましたので、今週中に記事が掲載される予定です。また、BBCラジオ2のニュースでもふたりの短いインタビューが放送されたほか、BBCラジオの地方局11局で生放送によるインタビューも行われました。
中で一番力が入っていたもののひとつが、ハフィントン・ポストに掲載されたRJ・ギブのロングインタビューでしょう。現在はオフィシャルサイト RobinGibb.comのニュースセクションでConversation with RJ Gibb(RJ・ギブとの対話)として読むことができます。この中でいろいろとこれまでの発表と違う”衝撃の事実”(<週刊誌の見出し風に)が語られています。
全文翻訳・掲載の許可がおりましたので、近く全文をご紹介しますが、とりあえず、これまでの発表とは違う部分について簡単にご紹介しておきます。
ソロアルバム『フィフティ・セント・キャサリンズ・ドライヴ』について
ピート・ヴェテッシと(ロビン・ギブが)一緒に2008年に制作を開始しました。その後、2年ほど前にぼくも作業に入り、完成したのは去年です。セント・キャサリン通り50番地というのはマン島で父が最初に住んだ家の住所です。病院で生まれて、その家に連れ帰られたわけです。これは父がバリーとの共同作業を望んで始めたプロジェクトでした。当時、バリーは体調が悪かったのですが、バリーの体調が回復したら一緒に仕事をすることになっていたので、父はこのアルバムの発表を見合わせました。その結果、ほぼ4年のあいだアルバムは眠っていたわけですが、ワーナーから発売したいという話が持ち上がったので、スタジオ入りしてプロダクション作業を仕上げたのです。
『タイタニック・レクイエム』でのロビンとの共同作業について
父は前からクラシック音楽のファンだったし、ぼくたちはふたりともモーツァルトとシューベルトが大好きだったので、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラと組むことにしました。タイタニック号が沈没してからちょうど100年の節目ということもあり、犠牲者に捧げるレクイエムにすることを考えました。
ロビンの闘病の経過についてはこれまでかなり混乱した情報が発表されてきており、ドゥイーナ・ギブ夫人はその段階ではまだ発生していなかった地震が原因で治療が遅れたと発言したこともあります(注)。今回はRJがまたびっくりするような発表をしています。(注:ドゥイーナ夫人は、ロビンの治療が絶望的に遅れたのはニュージーランド地震のためのチャリティに出演する必要があったからだと発言したことがあります。けれどもこれは明らかに夫人の勘違いで、ロビンがツアーの一環としてニュージーランド公演をしたのは2010年11月であり、地震が起きたのは2011年2月です)
『タイタニック・レクイエム』はウエストミンスター・ホールで初演されましたが、父は昏睡状態に陥っていたため、オープニングに立ち会うことができませんでした。これは4度目の緩解であり、長期にわたる長い闘病の末のことでした。ですからぼくもある程度心の準備はできていましたし、父も自分の状態を十分に承知していました。父は諦めてはいませんでしたが、最後の数年であれほど精力的に仕事に取り組んだのはそのためだったろうと思います。父はその2年半前からがんであることを承知していました。.
RJ自身は以前(2011年7月)に ロビン自身が「診断を受けることを拒んだために、2011年9月に「すでに手遅れになるまで」ロビン本人を含めて誰も病気が命にかかわるものであることを知らなったという 声明文 を出しています。これまではただひとり兄のバリーだけが、2012年秋のニュージーランド・ラジオ局のインタビュー等で「(病気が発表される)2年半前から具合が悪いと知っていた」と発言してきました。
これに真っ向から反論したのが前回の声明文だったわけですが、今回の発表ではRJはロビンが「死を覚悟して最後にやっておきたい仕事に取り組んでいた」というバリーの意見に同調している形です。
ぼくたち(ロビンとRJ)はたくさん仕事をしました。レクイエムのあとにはポピュラー音楽の曲もたくさん書きました。これもいずれ発表したいと思っています。また、信じられないことに、父は庭で映画を撮ったりもしていました。コントを何本か撮影したのです。父はずっとグーンズ(ピーター・セラーズとスパイク・ミリガン)のファンでした。とてもさえた辛口のユーモアのセンスの持ち主でした。
ということは、完成形ではなく断片的(?)かもしれないけれど、まだまだロビンの音楽作品がこれから期待できるということでしょうか? 最近、電話で話したときに、ドゥイーナ夫人は「いずれロビンが化学療法を受けながら撮っていたコントの映像を公開したい」とも述べています。期待できる(?)でしょうか!
ビージーズ三兄弟の相互関係、役割についてはRJはちょっと変わったこんな分析をしています。
バリーは女性のアイドルというイメージ、父は少年のような天使のような声の持ち主、モーリスは音楽性の高いテクニシャンという感じでしょうか。
新しいソロアルバム中の曲についてもけっこうびっくりするような発言が見られます。
『デイズ・オブ・ワイン・アンド・ローゼズ』は実は曲が逆なんです。『ブロークン・ウィングズ』という曲を逆再生したものなんです。逆再生してできたのが『デイズ・オズ・ワイン・アンド・ローゼズ』なんです。これもシングルとしていける曲だと思います。
『ブロークン・ウィングズ』のライナー・ノーツの中でドゥイーナ夫人は次のように書いています。
曲の冒頭にまるでアイスランド音楽か何かのように聞こえる不可思議で実験的なサウンドが入っていますが、実はこれは『デイズ・オブ・ワイン・アンド・ローゼズ』という曲を逆再生したものです。
今度はRJが『デイズ・オブ・ワイン・アンド・ローゼズ』は『ブロークン・ウィングズ』を逆再生して発想されたと発言しています。ということはこの2曲は合わせ鏡のような存在なのかもしれませんね?!
『インスタント・ラヴ』について
第三弾シングルになりそうなのが、ぼくたちが共作した『インスタント・ラヴ』という曲です。これはかなりせつない話です。なぜかというと、実はこのときがぼくたちが一緒に歌った最後だったからです。親子で一緒に、一連ずつ歌ってリフレイン部分はふたりのデュエットになっています。
この発言もちょっとびっくりです。ここで話題になっているのはどのバージョンなのでしょうか。このアルバム・バージョン用のRJのボーカルは今年の一月にロンドンにあるレッド・バス・レコーディング・スタジオで録音されたと発表されていたわけですが、ここにきてRJからはロビンと一緒に歌ったという話が出ています。ということはこのアルバム・バージョンはこれまでのバージョンを編集してつないだものなのかもしれませんね。
自身の今後の計画についての質問に対して、RJは現在自分のポップアルバムを制作中であること、長年パフォーミングアートに関心があったので、10月にはサヴォイ・ホテルで開催される恵まれない子どもたちのためのチャリティでメンタリスト/イリュージョニストとしてデビューを飾る予定であること、などを述べています。
アルバムのオープニング・トラックである『デイズ・オブ・ワイン・アンド・ローゼズ』についてはRJは次のようなせつない観点を披露しています。
父はオスカー・ワイルドの機知を愛好していましたが、この言い回し(注:曲のタイトルになった「酒とバラの日々」)が亡くなった友人に捧げた言葉だったと知ったときにモーリスをはじめ亡くした人たちのことを思い出したのだろうと思います。ちょっとせつないのは、この曲は若くてこれからがんばろうという時代についての曲、楽しかった昔を思い出す曲でもあるからです。こうした要素が父の心に響いたのだと思います。
確かにこのアルバム全体には亡くした大切な人たちへの思い、過ぎ去った日々の涙や笑いへの思いが満ちています。同時に繰り返し歌われているのが「今からでもまだ遅くない、そうであってほしい」という願いです。いまこうしてロビンが亡くなって2年余の月日を経てこのアルバムが世に出る機会を得たわけですが、ちょうど金木犀が美しく香るなか、ふと気づくとこの曲の中の「まだ遅くないよね」という部分をハミングしている自分に気がつきます。
ふと気づくと思いは1974年へ飛び帰り、まだとても若かったロビンと一緒に飲んだときのことを思い出していました。当時のロビンは金色のロン毛の巻き毛姿(!)。まだ後年のようにベジタリアンでもなかったので、ハムサンドイッチとかポテトとかをもりもり食べて、健康そのものといった印象でした。当時のロビンはバリーとモーリスと一緒にビー・ジーズのキャリア最長の日本ツアーの真っ最中。何杯飲んだか数えててね、とか言って、飲み過ごさないようにきちんと数えながら飲んでいました。その金色の秋の午後、なぜか話題は「生と死」におよびました。今から思えば、1974年といえば、ロビンが1967年に体験したヒザー・グリーンの大列車事故からまだ数年しか経っていません。20代半ばの男性にしては人生に対してとても達観しているなあという印象でした。話していてふと考えこんだかと思うと、おもむろに人差し指を1本立てて「人生は一度しかないんだよね」と言っては、また物思いに沈んだりしていました。このアルバムを聴いたときに(実は苦しすぎて聞き通せるまでに数週間もかかってしまったのですが)なぜかこのときのことをしきりに思い出したのでした。
(Thanks: Robin Hurley, Dwina Gibb)
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