ロビン・ギブ、ライブCDについて語る
「Strictly Come Dancing」出演(2009年10月31日)を前にしたロビンに取材した記事が、英国Daily Mail紙のデジタル版Mail Online(2009年11月1日付け)に掲載されました。
この記事の中でロビンはモーリスの死、バリーとの再結成について語ったほか、「Ultimate」発売を記念してDaily Mail紙2009年11月8日付け日曜版の附録となった「特別版ライブCD」の収録曲についてもコメントを寄せています。このCDは「One Night Only」と「Here At Last」の収録曲の中から12曲を選んで特別に作成されたものです。
まず、ファンが一番気になるバリーとのグループ再結成について、またひさしぶりの一緒のテレビ出演について、ロビンは次のように語っています。
「グループとして全国ネットの番組に出るのは8年ぶりだけれど、バリーと一緒なので緊張はしていません。バリーと一緒だと楽な気持で仕事ができます。素晴らしい時間になると思うし、本来の形に戻った、という気持ちになれると思います。バリーにとってもそうであってほしいです。
モーリスが死んだとはいまだに信じられないようなところがあります。悲しみへの向き合い方がバリーとぼくでは違っていて、バリーはビージーズの一員であることにも、音楽作りを続けることにも耐えられない状態だったので、ぼくとしてはそれを尊重してきました。何年もかかったけれど、ようやくここまで来られたと思います。モーリスを思わない日は一日もないし、いまだに現実とは思えないときもあるけれど、バリーとぼくは兄弟として、お互いにいっそう仲良くなれました。ふたりとも今の自分たちが持っているものを大切にしなくては、ということに気がついたのです。またバリーと一緒にやれるなんて素晴らしい。これからも前を向いてやっていきたいです」
ロビンが一番悔やんでいるのは「アンディとモーリスを失ったこと」であり、「とにかく生きていくだけでせいいっぱいの状態」になったそうです。でも大成功した今もロビンに言わせれば、50年前マンチェスターで兄弟そろって歌い始めたときと気持ちの面ではなんら変わることがなく、「曲を作りはじめるとティーンエージャーだったときと同じ気持ち」に戻ってしまうということです。
「おまけのCD」収録曲についてのロビンのコメントの概略は次のようなものです。
「ジャイヴ・トーキン(JIVE TALKIN’)」
最初にできたのがタイトル。バリーとモーリスと一緒にビスケイン湾をわたって車でマイアミ入りするときにアスファルトにタイヤがこすれるチャカチャカいう音から曲想が浮かんで、その日のうちにクライテリアスタジオで書きあげた曲です。R&Bナンバーとしてアメリカで1位になり、ブラックミュージックのチャートでも好評でした。白人のバンドとしては新境地を開拓したと思います。
「ワーズ(WORDS)」
クリフ・リチャードのために書いた曲。当時クリフはアルバムを作っていなかったので、せっかくの曲を無駄にしたくなかったし、自分たちで歌いました。エルビスやボーイゾンのカバーがナンバーワンになったこともあります。エルビスとは会ったことがないけれど、ボーイゾンのリードシンガーのローナン・キーティングとは友だちです。
「獄中の手紙(I’VE GOTTA GET A MESSAGE TO YOU)」
刑の執行を前に死刑囚が牧師に託す妻へのメッセージという形でぎりぎりの心境を歌った曲。バリーとの共作で、脚本を書くような感覚がありました。
「ラヴ・サムバディ(TO LOVE SOMEBODY)」
ニューヨークのセント・レジス・ホテル滞在中にオーティス・レディングのために書いた曲。オーティスの死後、大ファンだったぼくらとしては自分たちでレコーディングすることにしました。レパートリー中でもカバーが多い曲だけれど、自分としてはひいき目かもしれないけれどビージーズのバージョンが一番好き。でもニナ・シモンのカバーも素晴らしいと思います。
「ジョーク(I STARTED A JOKE)」
とてもスピリチュアルな曲。説明しようとするとかえって曲の魅力を損なうと思うので、聴く人のひとりひとりに解釈してもらいたいと思います。全米で最高5位まであがったけれどイギリスではシングルになりませんでした。今ならアメリカでヒットした曲なら必ずイギリスでも出るけれど、当時はそうではなく、それが慣例になっていて誰も疑問にも思わない時代だったのです。
「ブロードウェイの夜(NIGHTS ON BROADWAY)」
アリフ・マーディンがプロデュースしてくれた曲。アメリカで大ヒットしてその後カバーもたくさん出ました。その後何年にもわたってビージーズサウンドの要となったバリーの名高いファルセットが初登場した曲でもあります。実験的な曲でした。書き手として特定のパターンにしがみつきたくなかったんです。
「傷心の日々(HOW CAN YOU MEND A BROKEN HEART)」
2年間の解散期を経て全米で2番目のナンバーワンヒットとなった曲。最初のナンバーワンは「Lonely Days」でした。どちらもケンジントンのアディソンロードにある地下のアパートである午後に書きあげたもの。幸せな時代でした。
バリーとぼくは解散していた時期については話しません。また一緒になれたということについて話し合います。それこそがぼくたちにとって大切なことですから。
「ラン・トゥ・ミー(RUN TO ME)」
ビバリーヒルズにあったマネージャーのロバート・スティグウッドの家で書いた曲。ロバートは慧眼の持ち主でぼくたちを信頼してくれました。
オーストラリアからイギリスへ戻った時点でロバートが連絡をくれていなかったら、ぼくたちのキャリアもずいぶん違ったものになっていたことでしょう。ロサンジェルスにはしょっちゅう行ったり来たりしています。あと二週間ぐらいしたらまたロスに行って「Dancing With The Stars」というテレビショーで歌う予定です。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇(NEW YORK MINING DISASTER 1941)」
暗くて炭鉱の中みたいな雰囲気のロンドンのIBCスタジオでレコーディングしました。だからこんなにものさびしい曲になったんです。ロバートと会った後の最初のイギリスとアメリカでのシングルで、大西洋の両側で出した最初のヒットでもあります。
オーストラリア時代からレコードは出していましたが、これはキャリアアップ。いい気分でした。
「マサチューセッツ(MASSACHUSETTS)」
この曲のヒットはほろ苦い勝利でした。この曲がナンバーワンに輝いたその夜、11月5日のガイ・フォークスデーに、ぼくはルイシャムでヘザーグリーンの列車事故に巻き込まれたのです。49人の死者を出した英国史上最大の列車事故のひとつです。ぼく自身は怪我をしないですみました。車両にすわって、どしゃぶりの雨を見ていたのを覚えています。花火があがって、救急車の青い灯がくるくる回っていました。まるでスピルバーグの映画の一場面みたいでした。「とにかく初の全英ナンバーワンだったんだから、よかったんだ」 そう考えて自分を慰めていました。
「クローサー・ザン・クロース(CLOSER THAN CLOSE)」
モーリスがメインボーカルをとっているので、ぼくたちにとってとても特別な、モーリスに捧げる曲です。モーリスが遺してくれたものはぼくたちの音楽の中に生き続けています。ラジオをつけてビージーズの音楽が聞こえたら、そこにモーリスがいるんです。
「愛はきらめきの中に(HOW DEEP IS YOUR LOVE)」
6曲連続全米ナンバーワンを記録したときの1曲目。それまで前人未到の快挙であり、以降もごくわずかの人しか成し遂げていない記録です。一時、『ビルボード』誌のトップ10のうち7曲までをぼくたち関係の曲が占めていたことがありました。ぼくたちが歌った曲、あるいは他の人に提供した曲です。これってけっこう最高じゃないかな。この半分程度でも大喜びっていうところじゃないかと思います。
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