ビー・ジーズのターニングポイントとなった名盤『メイン・コース』検証

『メイン・コース』(1975年)

1975年に発表されて、ビー・ジーズにとってはまさにキャリアの分岐点となったアルバム『メイン・コース』の曲ごとの解説を含む力作レビューがサイト【ベスト・クラシック・バンズ】bestclassicbands.comに掲載されました(2020年8月6日付)。筆者はローリング・ストーン誌などに寄稿してきた音楽評論家のマーク・レヴィトンさんです。以下に内容をご紹介します。

1975年1月早々にバリー、ロビン、モーリスのギブ三兄弟がマイアミにあるクライテリア・スタジオ入りしたとき、ビー・ジーズは1972年半ばの「ラン・トゥ・ミー」以来ヒットシングルに恵まれず、直近のアルバム何枚かはすべてぽしゃっている状態だった。ビー・ジーズにすれば、13枚目にあたるこの次回作でぜひとも態勢を立て直したいところだったが、そもそもこの13という数字からして縁起が悪そうなものではあった。「イーノだのアリスだのボウイだのという名前が跋扈する中で、ビー・ジーズという名前そのものがなんとなくまずかった」と、クリーム(Creem)誌でJaan Uhelskzkiは書いている。「それでもビー・ジーズはシリー・パティーのようにビョーンと業界に復帰しようと心に決めていた」

エンジニアはカール・リチャードソン、プロデューサー/アレンジャーはアリフ・マーディン。アリフはアヴェレージ・ホワイト・バンド、ダニー・ハサウェイ等々、アトランティック・レコードのアーティストと組んだ仕事で大成功をおさめ、ビー・ジーズとも前作『Mr. Natural』で一緒に仕事をしていた。しかし『Mr. Natural』はビルボード誌トップ200アルバムチャートで最高178位とさんざんだった。クライテリア入りした当初のビー・ジーズがそれまでと同じようなスタイルで作った「Was It All In Vain」と「Our Love Will Save the World」を聴くと、マネージャーのロバート・スティグウッドは、「こういうのはボツにして、やり直せ」という指示を出した。ギブ兄弟は絶望的に時代遅れになっている、いまどんな曲が流行っているのかよく聞いてみろ、というのだ。「コストは私が持つから気にしなくていい、とにかく耳の穴を掃除して“いま”の音を見つけるんだ、と私は彼らに命令したよ」 ロビンは、あれはひどい時代だった、と振り返る。「ぼくたちはもろにデッドゾーン入りしていた。誰もぼくたちの音楽を聴きたがらず、レコード会社も興味を持ってくれなかった」

もともとギブ兄弟はアル・グリーン、ジェームズ・ブラウン、オーティス・レディング、アレサ・フランクリン等R&B系アーティストの影響を受けていたが、マーディンが彼らに聞いてみろと言ったのは、ギャンブル&ハフなどのオーケストレーションされた「フィラデルフィア・サウンド」や、ヒューズ・コーポレーションの「愛の航海」ジョージ・マックレーの「ロック・ユア・ベイビー」などがヒットしていたニューヨークやマイアミのダンスクラブ・シーンだった。マーディンはビー・ジーズのサウンドにちょっと手を入れるというレベルではなく、徹底的な軌道修正をしようと考えていたのだった。

もうひとつ大きな影響力となったのが、キーボードのデレク・“ブルー”・ウィーヴァーである。『Mr. Natural』から続投していたドラマーのデニス・ブライオン、ギタリストのアラン・ケンドールとともにブルーもビー・ジーズのチームに加わった。もともと(ブライオンとともに)60年代イギリスで人気を博したグループ、エーメン・コーナーのメンバーだったブルーは、ちょうどフォークとプログレッシヴ・ロックのバンド、ストローブズを脱退したところだった。シンセサイザーと従来のキーボードを操るブルーは、豊かな音楽的知識の持ち主でもあった。これまでグループのピアノ担当だったモーリスが持ち場を減らされて気を悪くする恐れもあったのだが、ほどなく両者は、モーリスがベースに集中し、ブルーのスティーヴィー・ワンダー風のシンセ・ベースのパーツに合わせてオーバーダブしたりする形で、うまい落としどころを見つけた。

クライテリアは滞在型のスタジオだった。イギリスのジャーナリスト、ジョニー・ブラックがまとめた【『メイン・コース』の歴史を語る】の中で、ウィーヴァ―は「ぼくたちは全員でゴールデン・ビーチのオーシャン・ブールヴァード461番地に移り住んで、曲作りにとりかかった。基本的に、昼間はビーチに寝そべっていて、夕方にスタジオ入りして夜遅くまで仕事をした」と話している。あとになってバリーは、当時は常にデキセドリンとアルコールを友としていた、とも語っている。

アリフ・マーディンはもう一つ決定的な変化をもたらした。彼は、ビー・ジーズはボーカル・スタイルを変えて、曲のテンポを速くするべきだ、と主張したのである。マーディンは「ダンスアルバムを作るぞ」と声高に宣言したわけではなかったが、ここ最近のビー・ジーズを上回るようなエネルギーを彼らから引き出そうと狙っていた。レコーディング初期のあるとき、マーディンはバリーに「キャーっという声が出せるか」と訊いた。バリーが、できると思う、と答えると、アリフの質問は、「それじゃあ、その声で歌えるか?」というものだった。バリーがあるメロディの低音部を歌うのに苦労していると、1オクターブあげてファルセットで歌ってみてはどうだろう、というアイディアが出た。これが音楽業界史最大の商業的カムバックのひとつといわれる『メイン・コース』の成功のきっかけとなったのである。

アルバムは「ブロードウェイの夜」で華々しく始まる。ギブ三兄弟が書き、兄弟だけに出せる緊密なハーモニーを持つこの曲は、ピアノ、シンセサイザー、ベース、ドラムスがきっちりとからんだ出だしで聴き手を引き付けておいて、アップテンポで展開してゆく。冒頭の歌詞、「ぼくたちは ここ 見知らぬ人でいっぱいの部屋の中にいる/暗闇に立つ/君の目にはぼくが見えない」は、聴く者をぐっと引き込む。ブリッジ(つなぎ)部分はかつてのビー・ジーズ・スタイルの素晴らしいバラード風の間奏曲だ。最後の部分でファルセットによるバリーの叫びが歓喜に満ちて初登場する。アルバム『メイン・コース』からの第二弾シングルとしてこの曲はビルボード・ホット100で7位まで上昇した。

続く2曲目がチャート1位となったアルバム第一弾シングル「ジャイヴ・トーキン」だ。グループの車がビスケイン湾にかかった橋を渡るときにたてる音が着想のきっかけになって生まれた曲である。チャッチャチャッチャッと耳について離れない。即興で作られたこの「ドライヴ・トーキン」という曲はやがて「ジャイヴ・トーキン」となり、さらに黒人仲間の言葉で「ジャイヴ・トーク(嘘)」が何を意味するかをマーディンに説明されたギブ兄弟は歌詞の内容も変えた(ギブ兄弟は「ジャイヴ」というのはダンスの一種だと思っていたのである)。これもギブ三兄弟の共作で、歌詞はちょっとナンセンスだが、モーリスとブルー・ウィーヴァーのベースライン、さらにはブルーのARP 2600シンセサイザーの見事なつなぎ部分には否定しようのない勢いがある

続く「ウィンド・オブ・チェンジ」では、囁くようだったり、R&B式に声を振り絞って懇願したり、バリーのボーカルをさまざまに堪能できる。マーディンのアレンジは非常にフィラデルフィア風で、基本のバンドを補っているのはサックスのジョー・ファレルとパーカッションのレイ・バレットである(この部分はニューヨークのアトランティック・スタジオでオーバーダビングされた)。ギブ兄弟はシンプルで効果的なラブソングを書くのはうまいが、まじめなテーマに取り組むと紋切型に陥るきらいがある。「ウィンド・オブ・チェンジ」は「ぼくの物語をしよう」という(黒人の?)キャラクターによる語りという形式をとっているようだ。「ここには神が必要だ/子どもたちを率いて/ぼくたちを恐怖の谷間から連れ出し/ぼくたちにも光があたるようにしてくれる人が」

ウィーヴァーは「ソングバード」の共作者としてクレジットされている。明らかにエルトン・ジョン風の雰囲気を持ち、翌年クライテリア入りして『ホテル・カリフォルニア』をレコーディングするイーグルスのサウンドを予見させさえするような曲である。ハーモニカは後日ダニー・ブルックスがニューヨークで追加した。A面の最後は愛らしい「ファニー」。ウィーヴァーによればこの曲の演奏では、これもアトランティック・レーベルのフィラデルフィア派ホールとオーツの「She’s Gone」を意識したという。「ファニー」は『メイン・コース』の第三弾シングルとしてリリースされ、ビルボードで12位となっている。

1975年6月に『メイン・コース』が発売された当時、レビュワーや消費者のほとんどが、生き生きと革新的でヒットシングル満載のA面に比べて、B面にはやや失望したといっていいかと思う。アレンジとプロデュースはやはり素晴らしいものの、ここにはもっと「従来風の」ビー・ジーズがいる。(ビー・ジーズのアンチによくパロディにされる)ロビン・ギブのふるえるようなボーカルを好まない人にすれば、『メイン・コース』でロビンがリードをとる曲はどちらもB面の「カントリー・レーンズ」と「カム・オン・オーヴァー」の2曲しかない。前者は「ジョーク」風のオーケストレーションを施され、後者はもろカントリーで、ケンドールがスティールギターを弾いている。

B面トップのリズミカルな「メイキング・ラヴ」は、なかなか趣味の良いツインギターが入って、見事にブレンドしたボーカルが聴ける。トッド・ラングレンの「I Saw The Light」やギルバート・オサリヴァンの「Get Down」とDNA的に近いかもしれない。「宇宙の片隅」はボーカル・アレンジに優れ、流れるようなシンセサイザーのラインは当時ジェフ・リンがELOで展開していた仕事を思わせる。「I thought that I was going home/And all the way I kept on praying」という個所を聴くと、ウィーヴァ―がギブ兄弟の世界にストローブズのプログレ・ロックの片りんをもたらしたことがわかる。

アルバムを締めくくる「ベイビー・アズ・ユー・ターン・アウェイ」ではアコースティック・ギターをバックにバリーが全力のファルセットを響かせる。カントリー色のあるミッドテンポの佳曲で、サビの部分のメロディが美しく歌われている。マーディンのオーケストレーションは抑え気味だが、長いフェイドアウトがピシっと決まっている。

ビー・ジーズが帰ってきた。批評家たちは酷評しながらも、まあ、たしかにこれは大衆受けする質の高い音楽ではあるな、と不承不承に認めた。Robert Christgauは「売りたくて必死で」「まがいもののソウルフルさ」に行き着いたのだと述べ、Ken Barnesは『メイン・コース』は「確固たる合成の既製品」だといった。続くアルバム『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』には「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」「偽りの愛」「ブギー・チャイルド」などのヒットが入っており、それに続いたのがかの『サタデー・ナイト・フィーバー』である。何百万という人が、もっともっととビー・ジーズの音楽に熱狂する一方で、「ディスコなんてくだらん」という輩はビー・ジーズを社会の敵ナンバーワンにした。長い目で見れば、否定派の負けである。なぜならビー・ジーズの仕事ぶりはあまりにも素晴らしすぎたのだから。

これはなかなか力の入った論考で、当時のレビューをはじめ、いろいろなデータを調べて書かれている点も好印象です。面白かったのは、「ウィンド・オブ・チェンジ」の歌詞が紋切型であるという指摘です。ニューヨークのストリートで生き延びようとしている底辺の少年(?)という設定は、その後生まれる名曲「ステイン・アライヴ」を思わせますが、この段階では歌詞がいまひとつ借り物のようで説得力にかける気がします。しかしそれを補ってこの曲を魅力的にしているのが、彼らのボーカルの力でしょう。ビー・ジーズにそれまでの数作にはなかったエネルギーの発揮を求めた、というマーディンの戦略は成功したと、この曲ひとつとってもいえるのではないでしょうか。1977年の『Here At Last (グレイテスト・ライヴ)』に収められたライヴ・バージョンの輝きにはハッとさせられます。

また、『メイン・コース』をリアルタイムで体験した世代としては、「ジャイヴ・トーキン」は発表当初60年代からのファンにはウケが悪かったことなどが思い出されます。しかししばらく経つと、「気がつくとつい口ずさんでいる!」としだいにオールドファンの間でも評価が変わっていきました。反対に、最初から“古いファン”に人気だったのが、この論考では「A面に劣る」と示唆されているB面の「カム・オン・オーヴァー」と「カントリー・レーンズ」でした。この2曲は彼らの従来の勝ちパターンを踏襲していますから、まあ古くからのファンに最初から人気だったのは当然といえるかもしれません。それからアンチにパロディにされることが多かったのはロビンのヴィブラートよりむしろバリーのファルセットじゃないかと思いますが、「模倣は賛辞の一種」ということにしておきましょうか。

ともかく『メイン・コース』は、従来の勝ちパターンを踏襲した曲も新機軸の曲も、好き嫌いは別としてどれもみごとに仕上がっており、アルバムとして数をそろえるための弱い曲、いわゆる捨て曲がないといわれています。また、バリーのファルセットが発動した曲として有名な「ブロードウェイの夜」でもロビンの声は響いている、ということも付け加えておきたいと思います。

「コストは俺が持ってやるから、もっと勉強していいものを作れ」という感じの薫陶を垂れたというロバート・スティグウッドもさすがです。スティグウッドに関してはいろいろと問題がなかったわけではないと思いますが、やはりスティグウッドの中にビー・ジーズの才能に対する揺るがぬ信頼があったことは間違いないでしょう。

ちなみにシリー・パティ―というのはゴム粘土みたいに変形するスーパーボールのようなおもちゃです。ビー・ジーズの並々ならぬ復帰力、カムバック能力を表すのになかなか楽しい表現ですね。

{Bee Gees Days}

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