【2019年2月】全米1位「傷心の日々」を検証する
ビルボードHot 100でナンバーワンになった歴代のヒット曲をチャートが開始された1958年から開始して、順番にレビューしていくというStereogum.comの興味深いシリーズ「The Number Ones」、紹介の順番が前後してしまいましたが、今回は1971年のちょうど今ごろチャート1位だった「傷心の日々」についての記事をご紹介します。
ザ・ビー・ジーズ – 「傷心の日々(How Can You Mend A Broken Heart)」全米チャート1位になったのは — 1971 年8月7日
1位にとどまった期間 - 4週間
ザ・ビー・ジーズは70年代のチャートで活躍したポップ・グループだ。70年代のビートルズと呼ばれるにもっともふさわしい位置にいたといえる。今後どの時代にも、60年代のチャートにビートルズが占めたような巨大な地位を再現するほどのアーティストは出てこないだろうが、70年代におけるビー・ジーズの商業的成功はそれでもやはり驚異的なものだっだ。ナンバーワン9曲、1位だった期間は実に27週間、加えて、弟のアンディも3枚のナンバーワン・シングルを出し、バリー・ギブが他のアーティストに提供した大ヒットも何曲もある。もちろんビー・ジーズの大ヒットの大半は、70年代末、ビー・ジーズがディスコを主体とし、バリー・ギブのファルセットが文化の前面に躍り出た時期に出たものだ。けれどもこの3人組はそのサウンドに到達する以前にも、すでに2度の大ヒット期を経ている。少なくとも最初の全米ナンバーワン曲であるこの「傷心の日々」以前にもすでに大きく活躍していた時期があるのだ。
長兄バリーとふたごの弟ロビンとモーリスからなるビー・ジーズが一緒に音楽活動を開始したのは1955年。まず、ラトルスネークス、続いてはウィー・ジョニー・ヘイズ・アンド・ザ・ブルー・キャッツと名乗った。(その名前のままだったらどうだったろうか、とまあ想像してみてくれ)これはイングランド、マン島での話だ。ところが1958年には、ギブ一家はオーストラリアに移住。そこで3兄弟は初めて本格的なバンド活動に入る。ブリスベーンのレース場でレースとレースの間に歌い、観客の投げ銭を稼いでいた彼らは、やがてオーストラリアのテレビに出演し、地元のレーベルからシングルを出すようになる。(当時から、彼らの曲はすべて自作である)しかし成功はそう簡単には訪れず、彼らは1967年に帰英。
故国に帰ったビー・ジーズはいきなり大成功を収める。英国でナンバーワンになり、全米でも最高位11位までのぼった「マサチューセッツ(Massachusetts)」等の曲では、ストリングスを重ねた華麗なアレンジをバックにビートルズがすでにやらなくなっていたクロース・ハーモニーを披露。やがて、彼らはこのサウンドへの傾斜を強めてゆく。当時はロビン・ギブがリードボーカリストであり、奇妙な切迫感のある、震えを帯び、鼻にかかった彼のボーカルを中心にして、彼らが突き進んだのは甘ったるい感傷的なMOR風ストリングスを多用する方向だった。しかし兄弟仲は思わしくなく、ロビンは1969年に脱退、ソロキャリアへの挑戦を試みる。一方、残ったふたりは、ロビンなしで活動をつづけた。これが最初のビッグ時代だ。
1年後、ロビンはバリーに電話して、また一緒に活動しようと提案。ただちにロビンとバリーは合流して、2曲ばかりを書き上げた。(モーリスも貢献していたが、彼がソングライターとしてクレジットに加わるのはもっとずっと後のことである)この2曲の1曲目が大ヒットしたカムバック・シングル「ロンリー・デイ(Lonely Days)」、ストリングスを多用した華麗なバラードで1970年に最高位3位まで上昇した(この曲は10点満点の5点である)。ギブ兄弟によれば、彼らはその同じ日に「傷心の日々」も書いたのだという。
「傷心の日々」を書き上げたギブ兄弟は、当初、この曲を、MOR路線の歌手アンディ・ウィリアムスに提供したという。ところがウィリアムスはこれを却下。もっとも後になってカバー・バージョンをレコーディングしている。ギブ兄弟が、この曲はアンディ・ウィリアムス向けだ、と考えた理由はよくわかる。甘ったるいべたべたしたメロドラマみたいな曲だからだ。ところがギブ兄弟は、ロバート・スティグウッドとの共同プロデュースで、この曲をソウルフルで濃厚なフォークロックに仕上げようともくろみ、結果的に非常に不快な出来となった。
「傷心の日々」にはきちんとしたメロディの骨格があり、他の歌手なら素晴らしい曲に仕上げることが可能だと思う。ビー・ジーズも、ロビン・ギブの声の持つヒステリックな鋭さをもとに曲を組み立てていたら、名曲の仲間入りしていたのかもしれない。ところが、彼らはストリングスだのハープだの教会の鐘だので、彼の声を窒息させている。アコースティック・ギターのリズムは鉛のように重く、ストリングスはぐるーりぐるーりと上昇しながらひたすら荘厳さを追い求め、他のあらゆるものを駆逐してしまっている。気の毒に、しまいにはロビンは、そのただ中に埋もれまいと、ただただわめいているだけのように聞えてくるのだ。
このコラムの仕事をしていると、個人的には好きでない曲でも、どうしてその曲がチャート1位になるほど人びとの心の琴線に触れたのか、だいたいはなんとなくわかる。それがこの曲に関しては、さっぱりわからん。この種のしっとりみっちりしたプロダクションはたしかに1971年のトレンドではあった。この時代にナンバーワンになった曲はどれもこんなサウンドではある。ところがギブ兄弟の声は、そのサウンドに対抗してがなりまくっているように聞こえる。その様子は、よく言って「ぶざま」なのだ。やがて彼らは独自のスタイルを確立するのだが、ここにはまったくもってその片鱗もない。
評価: 10段階評価の3
ボーナス: 近くこのコラムに登場するアル・グリーンが、1972年のアルバム 『Let’s Stay Together』に収めたこの曲のカバーはまさに名曲だ。長さ6分の魂の遍歴ともいうべき、やさしく悲しい名唱である。
このアル・グリーン・バージョンは『ノッティングヒルの恋人』(アレック・ボールドウィンと一緒のジュリア・ロバーツと別れたあと、傷心のヒュー・グラントが街をさまよう場面)やデンゼル・ワシントンの『ザ・ウォーカー』など、さまざまな映画に印象的に使われている。
また、ビー・ジーズの「傷心の日々」が1位にいたためにナンバーワンになることを阻まれ、最高位2位にとどまった曲には、ジーン・ナイトの「ミスター・ビッグ・スタッフ」、ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」などがある。
このコラムをご紹介するのは、たぶん「ジャイヴ・トーキン」「愛はきらめきの中に」に続いて3度目ではないかと思います。筆者Tom Breihan氏が、ある種の信念を持って書いているので、良くも悪くも非常に面白いです。今回の記事などもなかなか辛口で、点数が「10点満点の3点」だし、どこがよくてナンバーワンになったかさっぱりわからん、とか「ぬわに~!」と叫びたいようなことがいろいろ書いてありますが、よく読むと、意外と(といって良いのかどうか)あたっているところもあり、最終的にはけっこう賛成できる着地点でした。
この曲については、当サイトの「ロニー・スペクター、『傷心の日々』を語る」という記事の中でご紹介したPopmatters掲載のSteve Horowitz氏のレビューが個人的にとても印象的です。
要するに、この曲はスペクター・サウンド(ウォール・オブ・サウンド)式で作られていて、バックが非常に濃密だけれど、ボーカルが今一つそれとしっくりあっていない、という点が今回の筆者の主な不満です。で、面白いのは、キーワードが、上記のPopmattersの記事(この場合は厳密にはロニー・スペクターのバージョンについてのレビューなのですが)と今回の記事では同じなのです。awkwardという単語がそれで、一般に、「ぎごちない、さまにならない、不器用、気まずい」などと訳される単語です。そして「ロニー・スペクター、『傷心の日々』を語る」の中では「不器用」、今回の記事では「ぶざま」と訳したのが、実は同じこのawkwardという単語です。
個人的には、ビー・ジーズを語るにあたってのキーワードのひとつが、この「awkward」だと思っています。ビー・ジーズを耳障りの良い、聞き流せるタイプの音楽にさせない「エッジ」の正体が、このどこまでいってもさまにならない彼らの個性にあるのではないかと思っているからです。
ロニー・スペクターの「傷心の日々」バージョンのレビュワーは上記の記事中で、「この場合の“不器用”というのは誉め言葉」であると書いています。そしてこの「不器用さ、ぶざまさ」を欠点ととるか、美点ととるかで、評価も変わってくるのだろうと思います。
AORだ、MORだ、イージー・リスニングだ、(あるいはラヴ・サウンズだ)、さらにはディスコだ(以下略…)と言われつつ、実はビー・ジーズは、ごく最近のエコノミスト誌のレビューでも取り上げられた通り、一つのジャンルで括りきれない、複雑な個性を内包した、人間の生き方を歌い続けたグループである、と私は思っています。
同時に、彼らの持つ複雑さのもうひとつの側面は、彼らが商業性をシビアに追究したバンドでもある、という事実です。アーティストとしての誠実さと高い商業性を両立させようとしたあたりに、ビー・ジーズの位置づけの難しさがあるように思います。前にも書きましたが、「こんなに売れているということはアホな音楽に違いない」という見方も存在するんですねえ…。これについては、またいずれ。
しかし、「傷心の日々」はたぶん発表された当時には、「またいつもの変わりばえのしない(時代遅れな)ビー・ジーズのバラード」と見られたのでしょう。当時の日本のポリドール・レーベルでは、本国でB面だったモーリスの「カントリー・ウーマン」をA面に、「傷心の日々」をB面にして発売しました。その後、「傷心の日々」が1ヵ月も全米チャートのトップに立つ大ヒットとなった時にはちょっと困ったのではないかと想像します。
もうひとつ、この曲については、ギブ兄弟自身が「兄弟が再会する物語」なのだと語っています。冒頭で歌われる「悲しみを知らなかった若い日々」とは、バリーが弟たちへの鎮魂歌ともいえる「虹のおわりに」で、ロビンが絶唱ともいえる「シドニー」で、それぞれ歌ったオーストラリア時代、つまりは少年の日のことでしょう。
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