【2023年11月】バリー・ギブ/ロング・インタビュー「想像力があっただけ」(ワシントン・ポスト紙)
“ビー・ジーズ(バリー(中央)、ロビン(左)、モーリス)は1997年にクリーブランドでロックの殿堂入りしました” (Amy Sancetta/AP)(画像はワシントンポスト紙記事より)
ケネディ・センター栄誉賞の受賞にさきがけて、ワシントン・ポスト紙(2023年11月27日付)にマイアミでバリーに取材したロング・インタビューが掲載されました。昨日・今日・明日についてバリーが語っています。
どこにもかしこにも音楽があふれていた。ターンテーブルはまわり、クラブではストロボがひらめき、全盛期だったラジオから音楽が流れ、無視しようにも頭の中にいすわり続け、ディスコのビートが耳について離れなかった。
2枚組アルバム『サタデー・ナイト・フィーバー』は、単なる映画のサウンドトラックを超えた存在だった。他のアーティストの曲も入っていたがメインはビー・ジーズ。豊かなスリーパート・ハーモニーが駆使されたこのアルバムは「ステイン・アライヴ」「愛はきらめきの中に」「恋のナイト・フィーヴァー」「モア・ザン・ア・ウーマン」などの大ヒットを満載して、1970年代という時代そのもののサウンドトラックとなった。ビートルズの記録に匹敵する6曲連続ナンバーワンという偉業を達成し、5曲同時にトップ10入りを果たし、2年間にわたってチャートのトップに君臨し、70年代が終わるころには2500万枚を売り上げていた。
ライオンのたてがみのような髪をなびかせ、タイトなズボンをはき、へそ出しルックのシャツを着たビー・ジーズは名声の法則のもっとも過酷な症例となったといえる。これほどの高みに達したものは必ず引きずりおろされる。ディスコ戦争の犠牲者である。ギブ兄弟は長くつらいこの時期を「逆風」と呼んだ。
今年の秋、77歳となったバリー・ギブは、南フロリダの豪邸に座って、ギフトショップ風のコーヒーカップからレンジであたためた日本酒を飲んでいた。「成功しすぎた人間はいやがられる」。バリーは、悲しんでいるというより、単に事実を述べているという調子でそういった。午後に行われたこのロング・インタビューの間、バリーはリラックスして、率直で、謙虚だった。オーストラリアにある「高くつき出したケシの花症候群」という表現のせいかもしれない。あまり突出すると他と高さがそろうように短く切られてしまう、という考え方だ。
けれども時の経過とともにやがて尊敬されるようになる、という流れが存在する。バリーは2018年にサーの称号を授与された。英国生まれ、オーストラリア育ちのギブ兄弟の長兄にして最後に生き残ったひとりであるバリーは、あの忘れられないファルセット・ヴォイスの持ち主であり、独特のサウンドの主な作り手として活躍してきた。ふたごのモーリスとロビンは、それぞれ2003年と2012年に亡くなっている。
単に”フィーバー”の時代だけでビー・ジーズを見るのは間違っている。あのアルバムは巨大なディスコ会場のようにすべての上のそびえたつ傾向があるのはたしかだが。しかも救命効果まであるときている。「ステイン・アライヴ」のビートはCPR(心肺蘇生)実施にリズムがあう曲のひとつとされている。
けれどもディスコはビー・ジーズのほんの一面に過ぎない。「ぼくたちはいろいろなスタイルで仕事をする傾向があったから」とバリーは言う。ギブ兄弟、特にバリーはティーンエージャーだった1960年代初頭にはじまって、素晴らしい音楽的創造性を3幕にわたって発揮してみせた。
9歳からパフォーマーとして活動を開始したバリーは5年後には学校をあとにして、当時の文化の波に乗り、史上最も成功したソングライターのひとりとして、アルバム2億2000万枚を売り上げた。ギネスによればポール・マッカートニーに継ぐ偉業である。
「ぼくたちにとってはカテゴリーなんて存在しなかった。何かが良いなと思えば、それを曲にしました」 こう語るバリーの一番最近のアルバム『グリーンフィールズ:ザ・ギブ・ブラザーズ・ソングブック Vol. 1』(2021年)では、カントリーやアメリカーナの偉大なスターたちがバリーと共演した。バリーの名前と芸術はビー・ジーズの名曲のほぼすべてにゆきわたっている。胸をかきむしるような「傷心の日々」はアル・グリーンの不滅の名唱を得て不滅のものとなり、「ラヴ・サムバディ」はニーナ・シモン、ジャニス・ジョプリン(ウッドストック)をはじめ、あらゆるアーティストにカバーされた。”ひとすじの光/決して僕を/照らすことのないあの光”。
素晴らしいギタリストでもあるバリーは、常に前を向いて進んできた。「ぼくたちは、他のアーティストに曲を提供することによって成功を狙いました。そこにぼくたちの未来があったからです」 バリーは”フィーバー”問題後に、ラジオ局からボイコットされたときに、モーリスとロビンにこう告げた。
バリー、ティーン・アイドルとして若い女性でコンサート会場をいっぱいにする経験は楽しかったですか?「もちろん、決まってますよ。まじめに聞いてるんですか?」と、バリーはため息をつく。
「金の卵を売る人間にすればバリーは金の卵を産むガチョウだとわかってますからね」と、ビー・ジーズのプロデューサーだったアルビー・ガルートンは電話インタビューで話してくれた。「バリーのすることやソングライターとしての技量を5分も見ていれば、あ、この人がグループのリーダーなんだってはっきりわかりました」
バリーとガルートンとリチャードソンが『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドを生み出したと言われている。「バリーはいつも礼儀正しくて、穏やかな話し方をしていました」とリチャードソンはいう。厳しい状況の時でもそうだった、と。『フィーバー』の仕事にとりかかったフランスのシャトー(エルトン・ジョンの『ホンキー・シャトー』)は「ひどい場所」だったそうだが。「ものすごくひどいレコーディング・スタジオでしたねえ」
曲作りについては、バリーは「アイディアが詰まった樽」みたいなものだと言っている。「中をかきまわして、次の曲を探す」のだそうだ。まずはメロディ。次にビート。最後にサウンドにあわせた歌詞、という順番だ。「ぼくには、ただ想像力があっただけ。心をからっぽにして、あっちから流れ込んでくるに任せるんです」
バリーは単独の作者あるいは共作者として、1000曲を超える曲を書いたと目されているが、本人は数えたことがないそうだ。金の卵を何十個も生んだのだから、数える必要もないわけだ。
「グリース」は? バリーの曲だ。「ラヴ・サムバディ」は?それも。「ギルティ」は? バリー。「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」「傷心の日々」「ブロードウェイの夜」「恋のときめき」…。「恋のときめき」はティーン・アイドルだった弟のアンディのために書かれた。アンディは1988年に30歳の若さで亡くなった。どの曲もバリーが書いた。あるいはバリーが参加して書いた。
「ぼくの夢は憧れの歌手たちにぼくたちの曲を歌ってもらうことでした」とバリーは言う。みんな喜んで歌ってくれた。バリーはとりわけ女性歌手のための作品を書く才能があったようだ。歌姫たちが続々とバリーの門をたたいた。ディオンヌ(「ハートブレイカー」)、ダイアナ(「チェイン・リアクション」)、バーブラ(「ギルティ」「ウーマン・イン・ラヴ」)、ドリー(ケニー・ロジャースとデュエットした「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」)、セリーヌ(「イモ―タリティ」)。
今回、バリーとともにケネディ・センター名誉賞に輝くひとりであるディオンヌ・ワーウィックは、5ヶ月にわたってチャートインを果たした「ハートブレイカー」に最初は乗り気でなかったそうだ。「私好みの曲とは思えなかった。個人的にしっくりこなかったの。バリー(とレコード・プロデューサーのクライヴ・デイヴィス)たちふたりに押し負けて、しかたなく引き受けたのよね」とディオンヌは電話で話してくれた。「もっとも押すっていっても、バリーはとってもものやわらかで紳士的だったけれどね」。
仕切りたがることで有名なバーブラ・ストライサンド(「通常、レコーディングしているときは、私は100%実地型です」とメールで書いてきた)もバリーには降参した。「今までで一番楽にできたアルバムだったのに、いちばん売れたアルバムでもあるから、びっくりです」と彼女のメールにあった。「ギルティ」と「ウーマン・イン・ラヴ」も5ヶ月にわたってチャートインし、バーブラの5大ヒットのうち2曲までをバリーが手がけている。
「バリーはバーブラと共鳴するだけでなく、共感してバーブラとつながることができた」というのがガルートンの思い出だ。「直感的にわかってたんですね。バリーは感情面で共感することができる人でした。歌い手の気持ちを動かすものは何かとうことを直感できていた」。スタジオでのバリーは、”人と対立するのを好まないけれども、屈服もしない」
ある意味で、誰が歌うかは問題ではなかった。「大体の曲ではバッキング・ヴォーカルからして、ビー・ジーズの曲であることがはっきりしていた。”アイランズ・イン・ザ・ストリーム”を書いたのはだれか、疑問の余地はない。ビー・ジーズ色に染まっていますよね」 バリーと一緒に仕事をしてきたエンジニアのジョン・マーチャントは言う。
ジョンは『フィーバー』を、美術館にあるモナリザのような名画にたとえてみせる。「同じ建物の中に他にも名作がたくさん飾られているけれど、そこは通り過ぎてしまう。ある意味で『フィーバー』より興味深い作品があっても『フィーバー』に引っ張られてしまう」
いまバリーが座っているのは『フィーバー』の成功で購入した大邸宅だ。ここで彼は、1967年のミス・エジンバラだったリンダ夫人とともに5人の子供たち(4人の息子とひとりの娘)を育てあげた。ふたりが出合ったのは、リンダがプレゼンターを務めていたBBCの音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』だったというから、まさに60年代ロンドンらしいエピソードといえる。「私はミス・スコットランド・コンテストに出場するはずだったんだけど、バリーに会ってしまったんです」とリンダ夫人。モーリスとロビンも長い間、同じ通りに住んでいて、南フロリダに”ギブ領”が形成されていた。
どの部屋も広々として豪華にしつらえられ、マントルピースには飾りがずらりと並んでいる。犬用のプラスチック・ゲートで仕切られたダイニングは、1980年代半ばから使われていないようだ。
バリーは最近足指を骨折したため、靴下姿でひょこひょこ歩いている。だが家にあるエレベーターは使おうとしない。ほとんどの時間を過ごしているのは、以前はフォーマルだったリビングルームで、そこで巣ごもりするようにのんびり過ごしている。壁にはギターが並び、本が積まれ、サンルームなるものが隣にあるが自然光はまったく入らない。
いつか住みたいとにわか成金たちをあこがれさせるビスケーン湾の100万ドルの眺望は緋色のカーテンで隠されて見えないこの場所で、バリーはYouTubeのミュージックビデオを見てのんびりと過ごしている。
バリーのオフィスは、額装されたゴールド・アルバムやプラチナ・アルバムで天井まで埋め尽くされているが、実は壁のスペースが足りなくなってしまったのだ。グラミー・レジェンド賞やライフタイム・アチーブメント賞を含む数々のグラミー賞をはじめ、あらゆる栄誉の数々があり、床に積み上げられているものも多い。かつてビング・クロスビーのものだったというバリーのデスクには、リドリー・スコットの映画に登場したグラディエーターのマスクが3つ並んでいる。
「ぼくと弟たちを思い出すんです」とアスレジャー・ウェアに野球帽といういでたちのバリーは話してくれた。「夢のような時もあったけれど、つらい時もあったし、口げんかもした。兄弟ってそんなものですよね」1969年、ロビンがソロ活動を望んだために、グループは一時解散してもいる。
バリー・ギブは第二次世界大戦後の厳しい時代環境の中で、バンドリーダーだった父と複数の仕事を掛け持ちして働いていた母親の間に生まれた。一家は、戦後、人口増加を目した国ぐるみの移住キャンペーンにのって陽光降り注ぐオーストラリアにそろって移り住んだ。バリーとふたごの弟たちはそこで演奏と曲作りを開始した。
父親のヒュー・ギブはめったに褒めようとしない人物だった。「父ははっきりと言ってくれることがなかったし、攻撃的でもありました。ぼくたちが素晴らしい演奏をしても、父は”今日は観客が素晴らしかった”というんです。『よくやった』とは決して言わなかった。つまり、慣れっこになるな、ということですね」。
バリーは裕福な現状に対して居心地が悪そうで、つつましい印象さえ受ける。ビジネスセンスに長けて、版権がらみの金の鉱脈を握っているにもかかわらず、豊かとはいえない環境で育ったことの影響がこんなところにも出ているのだろう。「あれほど成功した人にしては、表に出ない暮らしぶりですよ」と長男でミュージシャンのスティーヴンは言う。「誇大に騒がれたくないんでしょう。これからもやっていこうという気持ちをそがれてしまうんじゃないかと思っているんだろうと思います」
イギリスでの兄弟の最初の成功は、伝記映画ばりのとほうもない成功ではじまった。そしていま、クイーンを題材に『ボヘミアン・ラプソディ』をプロデュースしたグレアム・キングとの共同制作による伝記映画の企画がまさに進行中だ。バリーは回顧録を執筆する一方で、この映画のために何年ぶりかで新曲を書いた。
若き日のバリー・ギブ役はどんな人が演じるべきだと思いますか? 「そうねえ、とにかくハンサムな人にしてほしいかな」とバリー。
この点は疑問の余地がない。バリーは非常なイケメンで、ビー・ジーズ最強だった。
1967年2月7日、ギブ一家は9年間暮らしたオーストラリアから船で5週間かけて母国イギリスに戻った。バリーが最初に聴いたレコードは、ビートルズのシングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」で、B面は「ペニー・レイン」だった。「ひえー、オーストラリアに帰った方がいいかな。こんなのにどうやって対抗できるんだ?と思いましたよね」
それから2週間ちょっと経ってから、ビージーズはP.T.バーナムのような興行師ロバート・スティグウッドと出会って契約を交わした。翌月、彼らはスタジオ入りし、3月末には最初のロンドン・コンサートに出演している。5月には、彼らはイギリスでの第一弾ヒット曲 「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を飛ばしていた。
7月、ギブ兄弟は初のインターナショナル・アルバム 『Bee Gees’ 1st』 をリリース。1967年と1968年の間にグループは「獄中の手紙」「ラヴ・サムバディ」「ワーズ」「マサチューセッツ 」などの名曲をレコーディングした。
「1年の間にアルバムを3枚作りましたよ。いったん勢いがついたら、止まれない」 ヒットは続いた。スティグウッドはヒュー・ギブと同じく誉め言葉を言うタイプではなかった。「5曲ほどヒットを飛ばしたところで、”これで成功したと言えるかな?”といったら、スティグウッドの答えは『成功したと言える時が来たら教えてやるよ』というものでした。で、とうとう、そうは言ってもらえませんでしたね」
かの有名なファルセットをバリーが披露したのは「ブロードウェイの夜」(1975)だ。レコード・プロデューサーのアリフ・マーディンが、曲の”最後の仕上げ “としてやってみようと提案したのだ。その震えるような効果をジミー・ファロンとジャスティン・ティンバーレイクが『サタデー・ナイト・ライブ』でパロディにしてみせたが、気さくなタイプのバリーは一度このコンビに加わったこともある。あれだけの高音で歌うと「いつでも本当にパワフルな気分になれる」というのがバリーの言葉だ。
ガルートンによれば、「バリーは声のコントロールが抜群でしたよ。音域が広くて、決して音をはずさない。測ったみたいに正確でしたね」。
バリーは、スタジオでも、暗闇の中でも、即興で、子供たちやアニメの音がうるさい中でも、ほんの数時間のうちに、ちょっと催促されるだけで、曲を書くことができた。『サタデー・ナイト・フィーバー』の曲を作ったときには、映画の台本も見ていなかったし、映画の元になった雑誌のストーリーも読んでいなかった。
1978年、バリーの電話が鳴った。スティグウッドが、今度、製作する映画のために曲が欲しい、というのだ。脚本はない。漠然としたアイデアがあるだけだった。最初にあったのは言葉だけで、その言葉は “グリース “だった。
「さて、”グリース “という曲はどうやって書いたものか?」と、バリーは考えたそうだ。「スローガンとして書くしかない」 ”Grease is the word/ It’s got a groove, it’s got a meaning/ Grease is the time, is the place, is the motion/ Grease is the way we are feeling(その言葉はグリース/グルーヴィーで/意味がある言葉/グリースは時/場所/動き/いま感じているこの気持ち/それがグリース)”
バリーは自宅で子供たちを見ていた。「父があの曲を書いているところをリアルタイムで見ました。ぼくがバッグス・バニーを見ている間に、ギターを手に取ってね」と息子のスティーヴン。父親のバリーは午後の数時間でその曲を書き上げてしまった。「父はね、まるでアンテナみたいなんです。どこにああいうものがそろっているのか、その特定の周波数を知っているんですね」
ダンスフロアで勝利する以前に1970年代半ばには低迷期があり、勝利の後には逆風が吹き荒れた。そしてその結果として、こうした現在がやってくることになっていたとは、長い間、バリーにはわかっていなかった。だが、バリーは1997年に弟たちとともにロックの殿堂入りを果たしている。そして弟たちを亡くなって何年も経ったいま、こうしてケネディ・センター名誉賞に輝いている。
「でもそういうもんだなと思えるようになりました、失敗しなければ成功することはできないと思うからです」とバリーは言った。辛抱強く待つ。そうすれば観客は戻ってくる。「人生で最高の夜だった」とバリーが言うのは、2017年のグラストンベリー・フェスティバルの “レジェンド “枠で10万人を超える観客の前で歌った75分のセットのことだ。
バリーが弟たちに言っていた通りだ。「ただのグループとしてレコードを作るだけだったら、生き残ることはできない。いい時もあるだろうが、やがて終わりが来る」 たとえどんなに大物であったとしても、たとえビージーズであったとしても、だ。
「ソングライターとしての名を成すこと」というのがバリーのアドバイスだった。「それがきちんとできれば、永遠に生き残れる」
”ケネディ・センター栄誉賞”は(2024年)12月27日午後9時からCBSで放送され、パラマウント・プラスでストリーム配信される。
なかなか力の入ったインタビューですが、音楽誌ではなく一般紙なので、ファンが読むと大半が「ビー・ジーズの歴史ABC」みたいで初級編の印象は免れません。それから、これはあくまでバリーの記事なので、ロビンとモーリスのグループにおける役割の大きさがあまり出てこないのはしかたないことかもしれません。でも最近のバリーの様子が垣間見られるのは興味深いですね。
特に印象的なのは、今回の映画のために新曲を書いたということと、リドリー・スコット監督作品への思いが感じられること(スコット監督を指名したのはバリーかも?)、それに執筆中という自叙伝も楽しみですね!
足の怪我はもう治っていますように!
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