【1977年サーカス誌】ビージーズ・インタビュー『流れは変わった』

マン島の海辺に立つギブ三兄弟(記事より)
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1976年末に行われた駆け足の全米公演(ライブアルバム『Here At Last』はこのときのロサンジェルス公演で録音されました)を大成功に終わらせたビージーズ。特にアメリカでR&Bバンドとしての評価が高まるなか、ギブ兄弟が自宅取材に応えた色刷4ページにわたる長文インタビューです。アメリカのロック誌『サーカス』の1977年1月後半号に掲載されました 。

”Children of the World”ツアー(俗にいう”Here At Last”ツアー)終了後、特にアメリカの雑誌を中心にどっと記事があふれましたが、これもそのひとつ。『Fever』直前のまさに歴史的なタイミングでギブ兄弟に直接取材して書かれています。以下に簡単に内容をまとめてご紹介します。

流れは変わった

『サーカス』誌(1977年1月31日号)

 20組の目がじっと見守るなか、灰色の大きなワイマラナー犬が芝生を走ってくる。あちこちの生垣をのぞきまわって何週間、最新の英国製ドッグフードのCM会社が「イングランドでもっとも美しい裏庭」をついに発見、オーナーを説得して3日間の撮影許可をとりつけた。家の中では裏庭のオーナーことロビン・ギブがチーズトーストをぱくつきながら、「電話がかかってくると、みんな撮影クルー宛てなんだよね」とうんざりした口調。これはもちろん冗談で、ビージーズのリードボーカリストであるロビンだから、注目なら浴びすぎるぐらい浴びている。ややキャリアにかげりの見えた数年を経て、この2年ほど、ビージーズは5枚のヒットシングル、2枚のプラチナ・アルバムを引っさげて、またトップシーンに返り咲いた。この1977年も20年におよぶビージーズのキャリア中でももっとも熱い年になりそうな勢いだ。ベストアルバム『Bee Gees Gold Vol. 1』(RSO)は高位でチャートイン。ビージーズ人気がまた上り調子なのは明らかすぎるほど明らかだ。 1月には待望の映画『サージェント・ペッパー』のサントラをレコーディング。2月と3月には『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』(1976年、RSO)に続く新作のレコーディング。4、5、6月は映画『サージェント・ペッパー』の撮影に俳優として参加。続く7、8月は秋にアメリカで実施される大ツアーのリハーサル。という多忙なロビンなので、いまは自宅の居間でごろごろしたり、コマーシャルの撮影現場をのぞいたりしてのんびりしていても、あたりまえというところだろう。

1967年にビージーズが国際的なスターの座についたとき、ビージーズ・サウンドを特徴づけたあの独特のビブラート・ボイス、それがロビンだ。兄バリーや弟モーリスとはちがって、ロビンはステージでは楽器を演奏しないが、ソングライターとしてはグループに大きく貢献している。ふたごのモーリス(ともに27歳)と兄バリーとともに、1955年以来歌ってきた。当時はすでに生まれ故郷のマン島を離れてイングランドに住んでいた。

マンチェスターの映画館でデビューした三兄弟はオーストラリアに移住。1963年にレコード・デビューを果たすが、イギリスに戻って世界のステージに進出できたのは、いわゆるイギリス音楽ブーム(第一次ブリティッシュ・インベイジョン)にはるかに遅れた1967年のことだった。しかしマネージャー、ロバート・スティグウッドとの出会いが、ビージーズに名声と富をもたらすことになる。

「オーストラリアからの船を降りたとき、ぼくたちは知らなかったけど、もうそのことがロバートに把握されていた。ヘンドンの家に落ち着いたら、電話が鳴りっぱなしなんだけど、一体誰からなのかわからなかった。とうとうぼくが電話に出てみると、これがロバートの秘書からだった。その秘書がぼくのいまのワイフなんだけどね。彼女が『ロバートが会いたがっていますが、そちらはいかがですか?』っていうので、ぼくは『こっちは誰でもいいから会いたいです』って答えたよ!

当時のロバートはブライアン・エプスタインと一緒に、エプスタインの手にはあまるビートルズのあれこれの面倒をみてこじんまりとやっていた。ブライアンが亡くなると、ロバートはそれを機に独立し自分の会社を設立した。ぼくたちはブライアンが亡くなった日にロバートと一緒にいたけど、すべてがあのときに起こったといえる。あの日以来、何もかも一緒にやってきた」  続くわずか2年の間にビージーズは「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「ラヴ・サムバディ」「ホリデイ」「ワーズ」「マサチューセッツ」などのヒットを連発し、ロビンは現在の高級住宅地に引っ越してきた。やがて1969年にロビンは突如ビージーズを脱退してソロとなり、アルバム『Robin’s Reign』を発表する。一方、バリーとモーリスはロビンなしで活動を続けた。「グループが解散したのは国際デビューしてからほんの2年後だった。みんな若くて勝手で、うぬぼれてたからね。音楽的にはグループを離れる理由なんかまったくなかった」

2年間のソロ活動はロビンにとっては長すぎる月日だった。「ぼくたちの誰ひとり幸せじゃなかった。みじめだったよ。で、ある日、電話して、『また一緒にスタジオ入りしようよ』って言ったんだ。それでできたのが『Lonely Days』」

「Lonely Days」は大ヒットし、さらにヒットが続いた。けれども昔ながらのビージーズのスタイルは勢いを失ってもいた。「1975年のはじめにマイアミにあるクライテリア・スタジオに座って、ラジオにかかっている曲をじっくりと聞いてみた。スティービー・ワンダーには影響を受けた」 ここから生まれたのがアルバム『メイン・コース』に結実したブルーアイド・ディスコ・サウンドである。プラチナセールスを記録したこのアルバムには、「ブロードウェイの夜」「ジャイヴ・トーキン」「ファニー」などの曲が入っている。

「初期には今ほどいろいろなサウンドを試してなかったと思う。その必要もなかったしね」 そういってロビンはコマーシャル撮影のクライマックスを見ようと立ちあがった。「今の方が音楽をやっててずうっと楽しいよ」

ロビンの兄バリーと弟のモーリスはイギリスの超高額の税金を逃れてマン島に住んでいる。三兄弟とも生まれ故郷のこの島を「神の厠」と呼ぶのだが、神のトイレに行こうと思ったら、リヴァプールに飛んで、そこから薄緑色に淀んだアイリッシュ海を越える。実際にはマン島は夏にはリゾートとしてにぎわっており、ヨーロッパ屈指のオートレースの開催地としても有名である。ところが冬になるとマン島という名前の由来となったキリスト教以前のケルトの支配者マナナーンの幽霊が、侵略者から守るために島を魔法の霧で覆ってしまう。これは冬になると天候が陰鬱になり、ビジネスは落ち込むというのを詩的に表現した現地の言い方だ。 「確かに住んで楽しい場所じゃないけど」と、モーリス邸の居間にあぐらをかいた態勢でバリーも認める。「でもロビンみたいに83%も税金をとられるよりは貯金をしたいよね。もし税金の状況が改善したらイギリスに住みたいから、今はここにいる」

「親戚もいるし」とモーリス。「妻の家族もその気になれば気軽に訪ねてこられる距離だしね。バリーはイビザにも住んでみたんだけど、3週間しか持たなかった。テレビが見られないんだよ。ぜんぶスペイン語なんだもん」  モーリスは気さくでひょうきん、アメリカ人だったらノンストップでグル―チョ・マルクスの真似とかしてそうなタイプである。ビージーズが最後にイギリスで公演できたのはいつかと聞けば、考え深げにこう答える。「そうだねえ、1912年の夏だったかねえ」 バリーの記憶の方がたしかだ。「5年ぐらい前にロンドン・シンフォニー・オーケストラと一緒にロイヤル・フェスティヴァル・ホール。アン王女に、王族のために公演してくれと頼まれたこともあるよ。ぼくたちと一晩一緒に出かけたいとか言って。あの晩、夫君のマークさんはぺしゃんこだったかも。実現はしなかったけどね」

高い税金を避けて国外移住しているせいか、イギリスでのビージーズ人気復活はアメリカより遅い。それでも彼らはそうくさる様子もなく耐えているようだ。何しろ世界各国での人気ぶりがすごいのだから。モーリスが記憶をたぐる。「南米公演の依頼は6回もあって、すごく大きな市場なんだけど、信頼できるプロモーターがいないのでまだ実現してない。『Los Mejores de los Bee Gees』のベネズエラ盤のゴールドディスクがちょうどここにあるけどね。コスイギン一族を前にクレムリン・オペラ・ハウスで演奏してくれっていう依頼もあった。スティーブン・フォードにはホワイトハウスに招待された…もちろん、フォード氏はもうあそこにはいないわけだけど」  この大復活の鍵は、マイアミでアリフ・マーディンとアルバム作りをしていたときに見つけたソウルフルなグルーブ感だ。「すでに4曲ぐらいやってから、『ブロードウェイの夜』になって、アリフが『これこれ、まさにこれだよ!』っていったので、それまでのやつは止めた。次にできたのが『Jive Talkin’』。あとはもう、どんどんできてきた」

「ぼくたちはR&Bバンドにならなくてはならなかった」とバリー。「ぼくたちの過去の歴史を見てもらうと、違う形式の音楽に移行している。ぼくたちはほとんどあらゆる種類の音楽が好きなバンドなので、これから5年後にはもう今のような音楽はやってないかもしれない。『Children of the World』はいろいろな音楽を合わせたものだったし、『Main Course』もそうだ。B面の方は昔のビージーズ風だからあまりかけてもらえなかった。  現在はバンドとしてすごく勢いがあって、曲があふれ出てきている。昔はアルバム1枚を作るのに3~4週間かけてたけど、今では3ヶ月かけている。ものすごく違うよ、特にちゃんとした人材と一緒にやってるとね。バンドのみんな、デニス・ブライオン、アラン・ケンドール、ブルー・ウィーヴァーはサイド・ミュージシャンというよりビージーズのメンバーに近い。もう何年も一緒にやってきている。『Children of the World』では単に賃金じゃなくて、全員が配当を受け取った」

次のアルバムをレコーディングするほか、いまビージーズにとって大きなプロジェクトは映画『サージェント・ペッパー』だ。バリーは語る。「一度、ロビンがいないときに『Cucumber Castle』のアルバムをタイトルにしたテレビ・スペシャルをやったことがある。あれはひどかった。でも今度のは素晴らしい経験になると思う。ずっとやりたかったことなんだ。最初から最後までほとんど出ずっぱりになる。ふたつの役を演じる。ピーター・フランプトンと一緒にロンリー・ハーツ・クラブ・バンドを演じるほか、年とったバンドのメンバーも演じる。なにしろビートルズの歌を歌うんだから楽しいと思う。フィナーレが最高の場面になるだろうね。世界中のメジャーなロック・アーティストのほぼ全員をひとつのステージに集めるんだよ。とにかく思いつくかぎりのアーティストが全員そろうんだ」

ロビン同様に、バリーとモーリスのふたりも、解散後また一緒にやっていること、さらにはまたヒットメーカーの仲間入りをしたことを喜んでいる。「ソロ・アーティストは大変だろうと思うよ」とバリー。「誰にも気持ちをわかってもらえない。でもぼくたち三人は一緒に成功を喜びあえる

From: "The Tide Has Turned – From Their Home on the Isle of Man, the Bee Gees Return by Stephen Demorest" (Circus, January 31, 1977)

数十年の時を経て、改めてこの記事を読んで思うところがいくつかありました。

バンドとの問題ーバリーが「単なる賃金制でなく、歩合制にした」と発言していますが、バンドのメンバーは週給などのパターンからこの少し前あたりから「(巨大な)売り上げのパーセンテージ」を受け取るようになっていたようです。最近出たデニス・ブライオンの手記『 You Should Be Dancing: My Life With the Bee Gees』にも書かれているように、これがのちにバンド・メンバーとビージーズの間にさまざまな軋轢を生むことにもなりました。

ビージーズの音楽性ービージーズは「時代とともに変わった」ことで”商売人”(売れ筋を追求した)と見なされることがあるバンドですが、バリーがここで「自分たちはいろいろな音楽が好きだ」と発言しているのがそのポイントではないかと思います。要するに彼らは”音楽”が好きだったのだ、ということはオーストラリア時代からの彼らの足取りを聞いているとおのずとわかります。
個人的にビージーズはボブ・ディランによく似たバンドだと思っています(とっても個人的に(^^;)。ディランも60年代半ばにフォークからロックに転向したときに批判にさらされました。当時のディランについて、「他のフォーク・ミュージシャンが元通りの音にとどまって、ディランが時代の先端を行く音楽に転向したときに、ディランの人間性を疑うといった論調がとくに純粋フォーク主義者から多く出たが、新しい道に移行できるかできないかは、単に持っている音楽性の幅が狭いか広いかによる違いにすぎない」というしごくもっともな意見がありました。(今はこっちの意見が定着しているはず) この「フォーク」を「ポップス」に「ディラン」を「ビージーズ」に置き換えても、同じことがいえるような気がします。

・「未来は予測できない」とよく言いますが、この時点での彼らの予定の大半は(毎度のことながら)実現していません。この次に彼らがツアーをしたのは1979年のスピリッツ・ツアーになります。ここで彼らがキャリアの山になるととらえていた映画『サージェント・ペッパー』は興業的にも評価的にも惨敗して、彼らの黒歴史となります。公開当初の悪評が今ではある意味で360度転換してカルト的な人気もある作品ですが、ビートルズの楽曲とビージーズの魅力を生かしきれたとはいえないという点ではおそらく異論はないでしょう。

・三兄弟の中では特にモーリスが「話を面白く”作る”」名人だったのは有名で、彼のインタビューなどでの発言は資料としては信頼できない部分があると言われていますが、「イギリスにわたったギブ兄弟にスティグウッドが連絡してきたとき」のエピソードについても、そのときどきで三人や関係者がいろいろ違う形で発言しています。このロビンの「自分が電話に出たら電話の主は今の妻だった」バージョンもそのひとつですが、ちょっと話ができすぎ?

ところでCM撮影班お墨付きというこのロビンの庭(の一部)は「Lonely Days」のプロモーション・フィルムでも見ることができますが、このコマーシャルがイギリスで放映されたとき、視聴者はそれがロビンの家だと気づいたのでしょうかね。

(冒頭の写真は記事のトップページで、おそらくマン島のピール海岸に立つギブ兄弟ですが、2ページ見開きだったためにちょうど真ん中に立っていたモーリスの顔が綴じ目”被害”にあっていて残念です)

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