【2017年2月】ピアース・モーガンズ・ライフ・ストーリーズ【詳細記録】
●バリーは子どもの時に大やけどをして死にかけた!
●ふたごの弟たちとの子ども時代のエピソード―川から赤ちゃんを救出?! 悪名高い(?)放火魔事件の真相は?
●輝かしいキャリアの中で「あの瞬間をもう一度」と願うのはどの瞬間?
●リンダ夫人、子どもたち、孫たちが語る夫、父、祖父としてのバリー
●死別の悲しみ、複雑なライバル関係etc.
バリーが出演した英ITVの『ピアース・モーガンズ・ライフ・ストーリーズ』(既報)の詳細を以下にご紹介します。
ピアース・モーガン(以下P) まさに伝説の天才ソングライター、バリー・ギブ。
バリー(以下B) 自分の人生については、いつもあれこれと考えます。素晴らしい冒険でした。
【ナレーション】 バリー・ギブと弟たちは、バーブラ・ストライサンドをはじめ、思いつけるかぎりのビッグ・アーティストのために大ヒットを提供してきました。
B 何もかも包み隠さず、できるだけオープンでいるようにしています。
P バリーは、今やギブ兄弟の中で生き残った最後のひとりとなりました。この事実は彼に深く大きな影響を及ぼしていると思います。今夜、バリーにそうしたことについてまさに初めて、話してもらおうと思います。
B スポットライトが僕たち三人から僕ひとりだけにあたるようになり、きついなあと思っています。
P バリーにはギターを持ってきてもらうので、今晩ぼくのファルセットのバックを務めてもらうことになっています。
B ピアース、楽しみにしています。じゃあ、後ほど!
******
P これまでもゲストが喝采を浴びたことはありますが、これほど温かなフ拍手喝采は初めてです。
B 素晴らしい! (観客を見て) 知った顔がたくさんいる。なーんか“やらせ”じゃないのかな(笑)。昔なじみの人たちが大勢いるんですよ。
P 信じられないような記録ですよね。バリー、あなたたちの曲が世界のどこかで20秒ごとにかかっているんですよ!
B えー! (観客拍手)それはすごいなあ。僕自身、ずっといろんなスターのファンでしたからね、自分をそういう風にイメージできないんですよ。その事実は嬉しいですけどね。自分たちの曲を愛していますから。
P チャートのトップを走ってほぼ半世紀ですよ~。おかげで大金持ちだ。ご自分の資産価値をご存じですか?
B いいえ。ローンの残高なら知ってますけど(笑)。でも僕にとって金は一番大切なものじゃないですね。楽しくやれること…それが一番大切だと思っています。ビー・ジーズの版権には想像できないぐらい価値があるんだろうなとは思っていますが。見当もつかないですね。
P もし、明日にでも僕が版権を買いたいと申し出たら…?
B 他の人たちにも言ってきたのと、答えは同じです。ビー・ジーズの曲は売り物じゃないんです。売る気はありません。(観客拍手)
P あなたのユニークな点のひとつはファルセット・ボイスですね。その話ばかりされるのはいやかもしれませんが…。
B(ファルセットで) いいですよ~。ぜんぜん気にしてません!(喝)
P ファルセットで歌えるということに初めて気づいたのはいつですか?
B 「ブロードウェイの夜」という曲で、当時スタジオで一緒に仕事をしていたアリフ・マーディンが…。
P プロデューサーですね?
B そうです。その彼が「誰か金切り声を出してくれ」と言ったんです。それで僕が手をあげて、「やってみます」と言ったんですよ。(ファルセットで歌う)Blaming it all…という感じでね。それが決まったので、みんなに「もっともっと」といわれたんです。でもね、実は、どっちにしても毎日、ファルセットで話してるんです。ジョークでね。寝室で自分にファルセットで話しかけるの。
P ほんとに?
B(ファルセット) そう!(笑)
P (ファルセットで)そんなことを?
B(ファルセットで) パーッパラッパー。これで、「よし、いける」と思える。他の人にとってはどうかわかりませんけどね(笑)。
P どのぐらい高い音が出るんですか?
B さあ、どうかな。お待ちください(と、ギターを手にする)。ほんとはGね。マーマママー♪ それともA。マーマママー♪ もうちょい、いけるな。(笑)
P すごいですね~。(観客喝采)他の人にファルセットをコーチすることはできますか? ぼくにもやり方を教えてくださいよ。
B わかりました。まずどのぐらい高音まで出るのか、やってみてください。
P どうですかねえ。じゃ、聴いてもらいます。
B どうぞ。
P(ファルセット?で)トラジディ~♪ (喝采)
B (笑)
P どうしたらいいですか?
B やめとくのがいいです。(喝采)ぞぞうっとしましたよ。(喝采)
P あなたはソングライティングの天才だ。その能力はどこから来たのでしょう? 意識的に努力しているのですか?
B 努力とか、仕事とは考えていません。好きでやっているからです。ぼく、ラヴソングが好きなんです。ロマンチックな曲はみんな好きです。努力の対象とは考えていません。曲はあちらから訪れてくる。だからぼくは、「熟成させなさい」っていう言い方をしています。すると曲の方から自然にできあがってくる。
P 一度、半日でナンバーワン・シングルになった曲を3つも書いたことがあったそうですね? 時は1979年、「哀愁のトラジディ」「失われた愛の世界」、それに弟さんのアンディのナンバー・ワンになった「シャドウ・ダンシング」です。
B そう、共作したナンバーです。
P ほんの数時間で、これだけの大ヒットをどんどん書けたのはなぜ?
B 要因はいくつかありますね。
P (鋭く)ひとつはドラッグですね?
B あ~、イエス!(笑)それが一番の理由です(笑)。
P 全員、アンフェタミンを服用して書いていたとか?
B そう、一粒飲むとハイな状態が8~10時間続くので。
P あの日、何があったのか教えてください。
B みんなでラウンジに座っていて…。えーと…それから…あ、ちょっと失礼(と、ギターを手にとる)。そのときの気持ちなんですよね。(と、歌いはじめる)It’s hard to bear when no one to love you/You’re going nowhere♪ まず、このサビが浮かんで、次にそれをどう展開しようかな、と。まず、コーラス、曲の中心部ですね。さて、次に「これは何についての歌かな」と。
P まるでその場にいたような気がしてきました。アンフェタミンは抜きで。(笑)
B バラードですからね。ぼくはバラードを書くので。で、(ギターを手に歌いはじめる)Nobody gets too much love anymore/ It’s as high as a mountain and harder to climb/ Oh… (喝采)(観客に向かって) やあ、ありがとう!
P バリー、初めてギターを手にした瞬間からあなたは世界のビッグ・スターになることが運命づけられていたのですね。
【ナレーション】 バリー・ギブは、ポップス世界のレジェンドであり、50年以上のものあいだ、ダンスホールを満員にし、人々の心の琴線をふるわせてきました。
ビョルン・ウルヴァース(ABBA) バリーは巨匠のひとりです。史上最高のポップ・ソング・カタログのひとつを創造しました。
オリヴィア・ニュートン・ジョン バリーのメロディは本当に美しいんです。人の心に本当に触れるような形で表現することができる人なんです。
【ナレーション】ビー・ジーズとして、バリー、ロビン、モーリスのギブ兄弟は2億枚を超えるレコードを売り上げました。
サー・ティム・ライス バリーは偉大な歌手ですが、何よりも、彼はソングライターです。
【ナレーション】バリーたちギブ兄弟は世界中の大スターにヒット曲を提供しました。(「ギルティ」を歌うバリーとバーブラ・ストライサンド、「ハートブレイカー」を歌うディオンヌ・ワーウィックの映像)
ディオンヌ・ワーウィック バリーはヒット・メイカーよ。誰だってヒットがほしいもの。わたしだって。(「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」を歌うケニー・ロジャースとドリー・パートン)
【ナレーション】バリーはわずか8歳の時にソングライティングを開始しました。3年後、一家はそろってオーストラリアに移住し、バリーと弟たちはパブやクラブで演奏するようになります。
アシュリー・ギブ 女性ダンサーがいるような場所で歌い始めたんです。楽屋裏では女性が裸になって着替え中だったりするような環境に、まだ小さな三人はいたんです。
スティーヴン・ギブ 学校に行く時間もほとんどなかったみたいですね。
【ナレーション】バリーの才能はすぐにテレビ局のプロデューサーたちの目にとまりました。
(若いころのビー・ジーズの映像。司会者が「自分で曲を書いているんだって?」と訊くと、若いバリーが「Time Is Passing By」を歌う、と宣言。)
スティーヴン・ギブ 笑っちゃいますよ。このころの親父は、なんかグリースみたいな髪型だしね。ロビンとモーリスはふたりともかわいくて、素晴らしい声だ。
ブルー・ウィーバー(ビー・ジーズのキーボード・プレイヤー) まだ13歳だったのに、すでにバリーには存在感がありますよね。
【ナレーション】ビー・ジーズはバリーの曲をシングルとして発表しはじめます。
(最初のシングル「三つのキス」を歌う三人)
ビル・ゲイツ(レコード・プロデューサー) 4曲録音して、バリーに「6曲ぐらいは必要だ」といったら、バリーが「ちょっと待ってて。いま2曲書くよ」といったんです。そういう、信じられないような才能の持ち主だったんです。
【ナレーション】イギリスに戻ったビー・ジーズは半年もしないうちにナンバー・ワン・ヒットを飛ばします。
(「マサチューセッツ」「獄中の手紙」「トゥモロウ・トゥモロウ」を歌う1960年後半のビー・ジーズ)
【ナレーション】ビー・ジーズはヒットを連発しました。
リンダ・ギブ(バリー夫人) 一緒にテレビを見ていると、急に、「あ、思いついた」とかいうんです。夜中のこともあります。ギターを取り出して、曲を書きはじめるの。まるで空中から曲を取り出しているみたいです。
【ナレーション】1970年代半ば、ビー・ジーズのソングライティングは新たな高みに達しようとしていました。(ビデオクリップ「ジャイヴ・トーキン」)
ビル・オークス(レコード・レーベルのマネージメント)彼ら独特のメロディとディスコのビートを組み合わせたところに、ビー・ジーズのすごさはありました。
【ナレーション】『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックの発表と同時に、ビー・ジーズはスーパー・スターの領域に達します。
ビョルン(ABBA) 最初に『サタデー・ナイト・フィーバー』を聴いたときには、うらやましくて血の気が引きましたよ。どの曲もどの曲もどの曲も、とにかくすごかったものなあ。
【ナレーション】『フィーバー』はサウンドトラックとして史上最高の売上を記録。
オリヴィア 彼らは音楽の何たるかを変えてしまったんです。
ディオンヌ 『サタデー・ナイト・フィーバー』は今も当時と同じで少しも色あせません。
ビョルン あのファルセットを使った歌い方はとにかく素晴らしかった。
ピート・ウォーターマン(レコード・プロデューサー) バリー・ギブのファルセットこそ、ひとつの世代を代表する声です。
デヴィッド・イングリッシュ(友人) 70年代末には彼らは世界最大のポップ・グループになっていました。
ブルー プライベートジェットで飛んで、巨大なスタジアムで演奏しました。観客は大ノリでした。
アシュリー・ギブ 父は楽しんだと思います。どの瞬間も満喫していたことでしょう。
リンダ夫人 素晴らしい時代でした。夢みたいだったわ。
【ビデオが終わってスタジオ映像に】
P 『サタデー・ナイト・フィーバー』は一大現象でした。個人的に、あるいはご家族にとって、どんな影響がありましたか?
B ぼくにとって変わったのは、電話に出なくなったことかな。何が変わったって、うちの塀によじのぼる人が出てきたり、FBIが来て、「射殺予告が来ています」と言われたりしましたね。
P ほんとですか?
B ディスコ好きな人ばかりじゃありませんからね。(笑) いい面の方は、満喫しました。嬉しかったですよ。誰だって認めてもらえればうれしい。
P 大スターになって一番良い点というのは何でしょうか?
B 欲しいものが手に入ることかな。
P なんでも?
B なんでもですね。
P あれは一番アホだったという買い物はありますか?
B ランボルギーニですね。2週間で返品しました(笑)。
P なぜ? 色が気に入らなかったとか?
B すてきな色だったんですよ~。ところがなんと、乗る時は最高なんですが、降りにくい!(笑) 車から出ようともがいている自分の姿をショーウィンドウで見ちゃったんです。横向きにすべりおりなくちゃいけなかったの。マヌケでしたね~。
P 当時のあなたたちのルックスが時代のアイコンでした。
B あいやあ。
P チェストウィッグを使っていたという声もありますが?
B いやいや。(笑) いやいや、ぼくたちの誰ひとり、それはありませんでした。
P すると胸毛は本物?
B ロビンはかなり胸毛が濃かったんです。ぼくは子どもの時に胸に大やけどをしたんです。だから僕は胸毛じゃなくて、すごい傷があるんです。
P 写真を見ましょう。ふたごのロビンとモーリス、下の弟のアンディ。そして…胸元…。
B (怒るふり)(笑)
P 髪の毛もすごいですね。
B 風が強かったんです。(笑) この緑のパンツですけど、当時、ロビンはいつもこの緑のジーンズをはいていて。この話はステージでよくするんですけど、ロビンって変わってたんです。髪の毛を飼っていた犬の色に染めたんです。(笑) レッドセッターを飼っていたので、髪を赤く染めたんです。
P あなたは4人兄弟の一番上でしたが、いま下の3人はみんな亡くなって、あなたひとりが残りました。現在のお気持ちはどうでしょう?
B 大きなショックです。グループとして45年間一緒にやって来て、離れがたい関係でした。ぼくが考えていることは、すぐにふたりに通じたし、ふたりが考えていることも、ぼくには手にとるようにわかりました。アンディはわずか30歳で亡くなりました。とてもつらい経験で、家族全員が苦しみました。家族を失うのは、あれが初めての経験だったからです。次にモーリスが亡くなりました。亡くなった弟たちの性格を、いつも考えてしまうんです。ロビンはすごく面白いやつだったし、モーリスはすごくオープンで、そのぼくたちが一緒になったからこそ、うまく機能していました。大切なのは、曲作りとか、ハーモニーで歌うとか、そういうことだけではなかったんです。
P インタビューで、弟さんたちの死後、不思議な、超自然的な体験をされた、と話していましたね?
B そうですね。ロビンを見ました。マイアミにあるぼくの家で、玄関のドアからバーに向かって歩いていったんです。行って見たら誰もいませんでしたけど。ひょっとして、幻覚だったのかもしれません。でもあれはロブだった。
P ネガティヴな経験でしたか、それとも嬉しかった?
B 嬉しかったです。怖いとか、そういうのはなかったですね。ああ、ロブだ、と思いました。
P バリー・アラン・クロンプトン・ギブとして1946年9月1日にマン島で誕生。ご両親はヒューとバーバラ。レズリーというお姉さんがいますね。生後18ヶ月の時にティーポットを倒して、煮えたぎるお茶を浴びてしまったとか?
B お茶をこぼした記憶はあるのですが、そのあとのことは何も覚えていないんです。母の話では、その後2年間、ぼくは口がきけなかったそうです。だからかなり長いあいだ入院していたのだと思います。
P しばらくこん睡状態だったそうですね?
B そうですね。自分では覚えていないのですが。
P あと20分遅ければ死んでいたとか?
B 母がそう話してくれました。
P 大やけどをおったわけですが…?
B 学校ではちょっと気まずい思いをしました。スイミングの時とかに傷が目立ちますからね。
P かなり大きな傷なんですよね?
B そう、胸全体に広がっています。こっちの腕も、ほら(と右腕をまくって見せる)。
P うわあ。
B 大けがでした。
P ふたごの弟ロビンとモーリスは1949年12月に生まれました。ふたりについての一番最初の記憶は何ですか?
B 三人で箱に入った赤ちゃんが川に流れてるのを発見しました。
P ほんとに?
B で、三人でその赤ちゃんが流れて行くところををつかまえました。
P 生きた赤ちゃん?
B 生きてました。
P 生きた赤ちゃんが箱に入って流れてきた?
B はい。
P なんかすごいことが次々に起こる人生を生きてきたんですねえ(笑)。
B そのまま流すわけにはいきませんでしたからね(笑)。弟たちと何かしていたという最初の記憶がそれなんです。赤ちゃんを川からひろい上げて…。
P 命を救ったんだ?
B と思います。でも赤ちゃんがどこの誰だったか、いまだに知りません。三人で赤ちゃんを近くの家に連れていったら、赤ちゃんを受け取ってくれて、「さあ、あんたたち、もう家に帰りなさい」と言われました。その後、何の連絡もありませんでした。
P 実は、今日はびっくりを準備してまして…。(笑) あれ、ぼくだったんです。(笑)
B 無事だったんだ!(笑)
P 国民を代表して、感謝申し上げます。(笑) 弟さんたちとは、かなりグレたとか?
B もう少しで犯罪者予備軍になるところでしたね。
P 予備軍ですかあ?
B 2年間の保護観察処分を受けました。
P 何をしたんです?
B よその子の家の前に停めてあったミニカーを盗んだ罪です。
P 放火もしたとか?
B ぼくたち、小ちゃいたき火をするのが好きだったんです。
P 放火ですね?
B 違いますよ(笑)。
P たまたま引火したと?
B それだ!(笑) みんなで小さなたき火をして、まわりに煉瓦を並べたんですが、それが看板がずらっと並んでるところのうしろだったんです。それから消さずに、そのままその場を離れてしまったんです。泳ぎに行こうやということになって、家にもどってタオルとか持ってね。それで通りに出てみたら、車がいっぱいで、煙は出ているわ、看板は倒れてるわ、そこで、「おい、おれたち、火を消さなかったよ」とか言ってたんです。すぐ角のところにおまわりさんが立っていて、タオルをかかえたぼくたちが通りかかると、こっちを見て、「いや、必ず犯人をつかまえるからね」とか言うんです。ぼくたちは、「うん、うん」って通り過ぎました。(笑)
P お父様はドラマーでバンドリーダー、お母様は歌手でした。ギブ・ファミリーは音楽一家だったんですね。
B 父は戦争中に13人編成のバンドをやっていました。ぼくが8歳か9歳ぐらいで、ぼくたちが初めて演奏しはじめたころ、ぼくたちが一緒に歌ったり、ハモったりしはじめたころ、父はドラマーをしていて、あちこちでドラムスをたたいていました。
P お父様はどんな方でしたか。
B そうですねえ。とても独善的な人ではありました。怒るときもあったし、とても押しが強い面も持っていました。でも最終的に、ぼくたちがみんなティーンエージャーになるころには、父もぼくたちの夢を共有してくれていました。息子たちに将来性があると感じてくれたんです。
P それから一家そろって移住して、オーストラリアで有名になりましたね。バリー、ティーンエージャー時代のあなたは、すごくかっこよくて、成功していて、素晴らしい声の持ち主でした。あなた自身が女性に関しては「ワル」だったと言っていますが、その点をもう少し詳しく話していただけますか?
B えー、「ワル」だったかなあ。ぼく、そんなこと言いましたっけ?
P あなた自身の言葉ですよ。ぼくじゃない。
B いつも恋してました。13歳とか14歳ぐらいのときからそうでした。で、実をいえば、想像もできないぐらいいつもいつもフラれてばかりいたんです。
P 一時、15歳か16歳のころに、恋人が6人もいたそうですね。(笑) 6人というのは同時進行形で、ということですよ、バリー。どの恋人にも、結婚の約束をしていたとか?(笑)なんと、ポケットの中に指輪をいっぱい持ち歩いていて、必要とあればすぐに取り出せるようにしていたとか?(喝采)どうですか、否定できませんね?
B 指輪はひとつだけですよ! (笑)
P さあ白状なさい。
B そ、そうですね(笑)。
P 当時、何回ぐらいプロポーズしたんですか?
B (笑) 毎回です。(笑)
P 60年代後半に、あなたたち兄弟はスターになりますが、歌以外の点でもファンを熱狂させました。
【ナレーション】1960年代に、ビー・ジーズはヒットを連発しましたが、バリーは時代のアイコンにもなりました。
ブルー 60年代末のビー・ジーズは大スターでした。
ビル・オークス バリーは完璧なポップスターでした。
ブルー 当時の音楽雑誌を見ると、いつもバリーが載っていました。衣装もすごくキマってて、ほとんどの男性はちょっとばかり彼をねたんでたと思いますよ。
【ナレーション】ねたまれて当然。
ディオンヌ 若いころのバリーは信じられないぐらいイケメンでした。世界中の女性が彼に恋してましたね。
デイヴィッド・リーフ(ビー・ジーズの伝記作者)バリーはまるで“白馬の王子様”みたいでした。バリーが立っているだけで、観客は興奮してキャーキャーいったものです。
アシュリー・ギブ 父は、世界一セクシーな男性といわれて、嬉しかったと思います。モーリスとロビンも嬉しかったでしょうが。
【ナレーション】実はバリーにはファンに隠していた秘密がありました。当時すでに結婚していたのです。イギリスに渡る前、19歳で若い恋のお相手モーリーンとオーストラリアで結婚していました。
スティーヴン・ギブ 彼女はオーストラリア時代の父の最初の本当の恋の相手でした。父は、当時は結婚すべきだと思った、と話してくれました。当時は、若いうちに恋をして結婚する人が多かったそうです。
【ナレーション】けれどもバリーの仕事に対する情熱が、ふたりの恋に影を投げかけました。
スティーヴン 当時の父の人生で音楽はほとんどすべてだったので、相手ときちんとした関係性を築けるような状態ではなかったんです。ものすごく若かったわけですから。
【ナレーション】バリーはモーリーンと別居しました。
スティーヴン 父としては、まだまだこれからやらなければならないことが山のようにある、という気持ちだったんだと思います。
【ナレーション】1967年9月21日、ビー・ジーズはテレビ出演して彼らにとっての最初のナンバー・ワン・ヒットを演奏していました。その夜、いろいろな意味でバリーの人生は変わったのでした。
スティーヴン ビー・ジーズが“トップ・オブ・ザ・ポップス”に初出演した夜でした。
リンダ夫人 女の子がみんな「見て~、あの人すごーくハンサムよ!」って言ってました。
アシュリー・ギブ 母はミス・エジンバラで、とてもきれいでした。
スティーヴン 二人の目が出合いました。
リンダ夫人 他の女の子たちが、「ねえ、あの人、あなたのこと見てるわよ」っていうんです。わたしは、「そんなことないわよ」って言いました。そしたら、「あ、彼、こっちに来るわよ」って。
アシュリー・ギブ 父はいつも言ってます。「あれは一目ぼれだった」って。
リンダ夫人 彼は「お茶でもどうかな」って言ったんです。
スティーヴン・ギブ その日のうちにふたりは「ドクター・フー」の電話ボックスの中であいびきしてたんです。
リンダ夫人 ほんと、バリーは魅力的でした。
【ナレーション】バリーとリンダはつきあいはじめましたが、恋に邪魔はつきもの。
リンダ夫人 とにかくモテモテでした。女の子が四方八方から降り注ぐ感じ。いろいろあったことも2-3度あって、わたしもそのときには喜んだとは言えません。いまだに、なぜわたしなのかしら、って思うんですけど、選んでくれて嬉しいです。
【ナレーション】バリーのお母さんもバリーの評判を知っていました。
リンダ夫人 ご両親に、「父さん、母さん、リンダを紹介するよ。ぼくたち結婚するんだ」と紹介されたけれど、お母様にはキッチンで、「信じちゃダメよ。バリーは誰にでもそういうんだから」って言われました。
【ナレーション】お母さんさえ信じなかったというのに、バリーは本当にリンダと結婚し、以来50年近く幸せに暮らしています。
スティーヴン・ギブ 父はまさに「献身的な夫」を絵に描いたようです。
アシュリー・ギブ 今でも当時と同じぐらい愛し合っていますね。すごーくロマンチックです。
リンダ夫人 わたしだから彼みたいな人で我慢できるのかもね。
【ビデオ終了―スタジオ映像にもどる】
B 今日は眠れそうにないな。
P 首を振ったり、もじもじしたり、どうも大変に動揺されたようですが。びっくりでしたか?
B びっくりです。
P 一目ぼれだったんですか?
B だと思います。心の中で、「ああ、この人がこれから生涯を共にする人だ」と思いました。
P リンダさんのどんなところに惹かれたのですか?
B とても特別な人なんです。外見の問題じゃなくて、彼女は愛情深い、楽しい、ユーモアのセンスにあふれた人です。一緒にいて、愚痴を言うより、良かったねって笑いあうことの方が多い関係です。
P リンダさんはそこに座ってますけど(と、観客席を指さす)、この番組のために彼女がビデオで取材に応じてくれたことは知らなかったんですよね?
B 知りませんでした。娘もそこにいます。素晴らしい子です。ふたりとも素晴らしい。
P あなたとリンダさんと「ドクター・フー」のターディスで何があったか、詳しく話してもらえますか?
B えーと(笑)、ぼくたち、寄りそっていたんです。
P 寄りそっていた? オーストラリア時代の話から考えて、それだけとは思えませんが?
B リンダはしっかりしてますからね、ぼくなんか相手にしてくれませんでしたよ。
P プロポーズはいつ? どんなプロポーズだったか覚えていますか?
B プロポーズしたのは…イートン・スクエアだったっけ?(観客席で首を振るリンダ夫人) 違う?(笑)
P なんと!
B (リンダ夫人に)教えて。
リンダ夫人 アダムズ・ローよ。それからあなたはロビンとモーリスと一緒にアメリカに行ったの。
B そうだった。
P(ふたりのやりとりを見て) どうぞ、勝手にインタビューしあっててください。
B(リンダ夫人に) ありがとう。
P どんなプロポーズだったか覚えていますか?
B いえ。(笑)
P(リンダ夫人に) どんなプロポーズでしたか?
リンダ夫人 (バリーに)ちゃんと片膝をついてのプロポーズだったわよね。
B そうだ、跪いたんだ。今じゃ無理だけど。(笑) 立てなくなっちゃう。
P リンダ夫人の談話の中にありましたが、何か問題も起こしたとか?
B いやあ、当時のぼくはまだ落ち着いていなかったんです。まだ、「いやあ、この女性は素晴らしいなあ」「あ、あの娘もかわいい」っていうような時期だったんですよ。
P それは結婚前ですか、それとも後?
B いやいや、結婚前ですよ。リンダはこわいですからね~。(客席では夫人がびっくり)
P わーお。とにかく素晴らしい関係なんですね。5人の子どもたち、8人のお孫さん。リンダ夫人に言いたいことは?
B 愛してるよ。
リンダ夫人 わたしも。(喝采)
****
P 長年の間に知り合った有名人の中でも特に親しい友だちだったのがマイケル・ジャクソンでしたね。
B そうです。電話してきて、「ちょっとだけ『傷心の日々』を歌ってよ。ちょっとでいいから」とか言うんです。
P マイケル・ジャクソンが電話で「傷心の日々」をリクエスト?
B そうです。
P で、どうしたんです? 歌った?
B はい(笑)。
P マイケルとは飲み友達でもあったそうですね? ふたりで酔っ払ったんですか?
B そうです。おもに日本酒ですね。
P ふたりで日本酒で酔っ払った? で、どんなことをしたんですか?
B 別に何も。歌ったりとか。演奏したり。
P 息子さんの話では、一度、息子さんの学校の学芸会をマイケルが一緒に見に来たいっていったとか?
B はい。でも目立たないかっこうをするんじゃなくて、マイケルの方はまさにフル装備で来たんですよ。サングラスとか肩章とかをつけて。で、車から降りたら、マイケルが「サングラスをかけないの?」って言うから、ぼくは「サングラスなんかかけられないよ。うちの子の学校だもん」と言ったんです。(笑) ぼくたちは後ろの方に座って見てたんですが、舞台に立っている子どもたちの方が、(口を動かして)「マイケル・ジャクソンだ!」状態なんですよ(笑)。声は出さないけど、口の動きでね。
P そりゃすごい。
ところで、あなたたちはパフォーマーとしてソングライターとして大成功を収めて、いつも兄弟そろって活動していましたね。
【ナレーション】1970年代後半、バリー、ロビン、モーリスのギブ三兄弟はまさにピークに達していました。
オリヴィア・ニュートン・ジョン 彼らのサウンドは独特でした。三人がそろって歌うと、他では得られないようなハーモニーが生れたんです。
アシュリー・ギブ ステージを見ていると、彼らのお互いに対する愛情がひしひしと感じられました。
リンダ夫人 いつも一緒にいて、笑いあっていました。
【ビデオ:1979年のテレビ・スペシャルから、バリーが「哀愁のトラジディ」の最初の破裂音を出す場面】
スティーヴン・ギブ 父とロビンはふたりとも強烈な個性の持ち主で、お互いに激しいライバル意識を抱いていました。モーリスは仲介役で、みんなを結びつける役割をしていたんです。
【ナレーション】ちょうどこのころ、ギブ・ファミリーからもうひとり新しいスターが生れました。
【ビデオ:三人と一緒にステージに立つアンディの映像】
【ナレーション】バリーより12歳年下のアンディは、ビー・ジーズに加わるには若すぎました。19歳になったアンディはソロ歌手としてスター街道を驀進、バリーが共作してプロデュースしたシングルを発表して、連続3曲全米ナンバー・ワン・ヒットの快挙を成し遂げました。
ブルー ルックスも声もバリーそっくりでしたね。
スティーヴン・ギブ 父とアンディはまるでふたごみたいで、ほんとにそっくりでした。
【ナレーション】バリーは弟たちと一緒に成功を収めるだけでなく、ギブ・ファミリー以外の他のアーティストとも一緒に仕事をするようになっていきました。
ビョルン・ウルヴァース(ABBA) ライターとしてプロデューサーとして、他のアーティストは競ってバリー・ギブと一緒に仕事をしたがりました。
【ナレーション】ケニー・ロジャースとドリー・パートンが歌った「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」はカントリー音楽のシングルとしては史上最高の売上を記録しました。
スティーヴン 父は大の大のカントリーファンだったので、これはおそらく、父がもっとも誇りに思っていることの一つではないかと思います。
【ナレーション】一方でアンディの人生は曲折をたどり、何年もの間、鬱とコカイン中毒に苦しむようになりました。
スティーヴン 祖父のジョージに「アンディが亡くなった」と聞かされたときには、「えっ、何の話? “なくなった”って何のこと?」って言ったぐらいです。すると祖父は、「死んだんだよ」と言いました。
【ナレーション】長年の薬物濫用で体が弱っていたアンディは、30歳になったばかりの若さで心臓感染症で亡くなりました。
スティーヴン 誰にとってもすべてが変わってしまいました。底知れない苦しみでした。
アシュリー 父が泣くのを初めて見ました。アンディの葬儀の時でした。
スティーヴン あれほどの苦しみ、悲しみは見たことがありませんでした。
アシュリー でもあれで三人とも、「前を向こう、音楽をやり続けよう」という気持ちに切り替えられたのだと思います。
【ナレーション】ビー・ジーズは1990年代を通じて活躍し続けました。三兄弟は40年以上も一緒に仕事をし続けたことになります。2003年1月、モーリスが、腸閉そくの手術直前に心不全で急死しました。
スティーヴン モーリスはとても幸せで積極的に人生を謳歌していたので、まさかそんなことになるとは誰も夢にも思っていませんでした。
アシュリー あれよあれよという間に、入院したかと思ったら、こん睡状態になって…。
【ナレーション】モーリスは3日後に亡くなりました。享年53歳。
リンダ夫人 モーリスはいつもバリーとロビンの間に立って、「マン・イン・ザ・ミドル」役を務めていました。
スティーヴン モーリスの死は家族にとって最大の衝撃でした。
リンダ夫人 バリーはまるでブラックホールに落ち込んだようで、何もしたがらなくなってしまったんです。とても悲しい時期でした。
*******
P モーリスの死は、本当に大きな衝撃で、あなたを打ちのめしたのですね。
B そうです。あまりにもあっという間のできごとでした。アンディが亡くなったあと、家族の誰もがつらい思いをしました。どうしてもわからなかったんです。いまここにいた人が、2日後にはもう亡くなっているなんて。
P モーリスには病気の兆候もなく、突然の出来事だったのですか?
B そうです。たぶん、モーリス自身は、ちょっと変だなあとその数週間ぐらい前から感じていたんじゃないかと思うのですが、その後は本当に急でした。そう、何と言ったらいいのか…ほんとに言いようがありません。
P モーリスはどんな人でした?
B 家族思いで、とても外向的で、子どもが大好きで、手品が好きで、冗談好きで、すごく面白かった。目に見えてユーモラスだったんです。ロビンのユーモアは内向きでしたが、モーリスは外向きのユーモアでした。
P モーリスは難しい兄弟関係をつなぐ橋のような役割を果たしていたんですね?
B そう、ぼくたちの兄弟関係は一筋縄ではいきませんでした。ロビンは常にとてもクリエーティヴで、ぼくもロビンも認められたかった。思うように認められないと、二人の間で自分の方が認められたいと競争が生れました。お互いにとても愛し合っていたけれど、最後までライバルだったと思います。他の人間や他のアーティストではなく、お互いがライバルでした。
P アンディは30歳、本当に若い死でした。
B 三人兄弟としてのぼくたちはアンディの死を経て、二度と元には戻れませんでした。アンディはあんなに若くて、いい子だったのに。アンディとぼくはよく似ていました。好きなものが似ていたんです。モーリスとロビンはふたごだったけれど、似てはいませんでした。でもやっぱりふたりはほんとに仲が良くて、その点、アンディとぼくが仲が良かったんです。一緒にいる時間も長かった。
P お父様にとってアンディの死は…?
B 父は打ちのめされました。母もです。末っ子の死は悲しいです。父はそれから数年後に亡くなりました。悲しみのあまり亡くなったのだと思います。アンディは父にとって光のような存在だったんです。
P そうした悲劇のさなかで、演奏やレコーディングを続ける力は、どこから生まれたのでしょうか?
B 演奏そのものが力だったのです。演奏することで力が生れてきた。ある曲を演奏すると、聞いている人の顔がぱっと輝いたりする。ぼくにとっては、それかな。ぼくがすることはすべて家族を喜ばせるためにやっています。他の人を喜ばせるためにやっているんじゃありません。ぼくの人生で一番大切なのはそのことです。
P バリー、そこに座っているあなたは、世界有数のソングライターであり、パフォーマーであり…。
B(誰か他の人の話かな、という感じに振り向く)
P(わざとバリーのうしろを指さして) その人ね。
「哀愁のトラジディ」の爆発音はあなたがやったそうですね? 説明せよ!
B 当時はまだ今みたいなテクノロジーがなかったので、効果音なんかも自分で作らないとダメだったんです。
P ここでその爆発音を再生してもらえますか? マイクを準備しました。どうぞ。(笑)
B えー!!(「哀愁のトラジディ」の前奏に合わせてマイクを持ってうなる)(笑)
【喝采】
P あれが例の爆発音だったんですね。
お母さんのバーバラさんは残念ながら8月に亡くなられました(訳注 放送は2017年2月ですが収録は2016年12月に行われました)が、93歳でしたね。
B 母は精神的な支えでした。コンサートには来なかったけれど、ぼくたちがきちんとコンサートに出られるように何もかもを整えてくれたのは母でした。「わたしがあなたたちを発見したのよ」って、いつも言っていました。もちろん、その通りなんです。「あなたたち、わたしがいなかったら、存在しなかったんだからね」って(笑)。その通りですよね。
P 音楽に携わってほぼ半世紀、まだまだ活躍が続いていますね。
【ナレーション】2009年にロビンとバリーはテレビ・スペシャルを収録しました。ふたりが一緒に演奏したのはそれが最後です。(訳注 これは制作者側の思い違いで、その後何度か彼らはテレビで共演したりしています)
アシュリー ふたりはお互いに深く愛しあっていましたが、あまり話したりはしていませんでした。
【ナレーション】ふたりは太平洋を隔てて住んでいましたが、ロビンには兄に隠している秘密がありました。
スティーヴン 父はイギリスの新聞か何かでロビンの写真を見たんです。で、「病気みたいだ」って言って…。
アシュリー その写真を医者に見せたら、「弟さんに会いに行きなさい。非常に悪いと思います」と言われたんです。
リンダ夫人 「すぐに行きなさい。もう長くない」と言われました。寝耳に水でした。
【ナレーション】その時になってバリーはロビンがガンの宣告を受けていたことを知ります。
リンダ夫人 目の前でロビンが衰弱していく姿を見るのは本当に悲しかった。
スティーヴン 父は別れを告げに行きました。ロビンは病床についていて、ほとんど口もきけなかった。
アシュリー 「だいじょうぶ。何もかも聞いたよ」と父は言っていました。それからロビンは、父の深い愛情を知って穏やかに行ったのです。
スティーヴン 父にとっては信じられないような大きな喪失でした。信じられないぐらいに大きな。
【ナレーション】ロビンが亡くなってバリーはギブ兄弟最後のひとりになりました。
スティーヴン 父は、とにかく何かしなくては、と思ったようです。
リンダ夫人 わたしは、「あなたには神に与えられた才能があるんだから、立ち上がりなさい」って言ったんです。「音楽をやりなさい」って。
【ナレーション】バリーは立ち上がり、ツアーに出ました。
アシュリー 父はツアーでの日々から魂の慰めを得ました。立ち上がる必要があったのです。
【ビデオ-ツアー中のバリーのインタビュー映像】 「ぼくにはこれしかない。ほかには何もやったことがない。新しい仕事を見つけるのは無理」と語るバリー。
【ナレーション】このツアーは、また、ファミリーとしての仕事でもありました。モーリスの愛娘サマンサがボーカルで、長男のスティーヴンがギターで参加しました。
スティーヴン 父の隣りに立つのは、ぼくにとって素晴らしい経験でした。
【ナレーション】バリーは活動を再開し、15年ぶりのニュー・アルバムのために新曲作りにかかりました。長男スティーヴンと次男アシュリーとの共作でした。
リンダ夫人 ソングライティングにかかった姿を見ていると、まるで兄弟三人を見ているような気がしました。隣の部屋で笑っているのが聞こえて、嬉しくなりました。
【ナレーション】ソロ・アルバム『イン・ザ・ナウ』は好評で、バリーは70歳でチャート2位を記録しました。
サー・ティム・ライス 素晴らしい声で、まったくパワーが衰えていませんでした。
アリ・ギブ(バリーの長女) 父はずうっと頑張り続けると思います。
カール・リチャードソン(友人) 前進し続けるバリーには感激ですよ。子どもがいて、孫もいるのになあ。
テイラー、ルーカス、レイラ、ペイトン(バリーの孫たち) すごいよね。元気でがんばってる。素敵だと思う。
アリ 父とは一緒にバカをやってます。ぱっと顔を見合わせて、変顔をしたりとか。
トラヴィス&マイケル・ギブ(バリーの三男、四男)お父さん、誇りに思っています。大好きだよ。最高のお父さんだと思ってる。
リンダ夫人 彼はわたしの人生最高の喜びです。素晴らしい人生でした。
マイケル&トラヴィス 愛してまーす。
孫たち 愛してます、パパ!
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P 最高ですね。もしお孫さんたちが、バンドを結成してポップスをやりたい、と言ったら、どうですか? 賛成しますか?
B そうですね。自分の気持ちに正直に、これが自分の道だ、と感じたものを追求しなさい、と言いますね。そして信念を持て、と。生半可な信念では通用しません。
P ロビンの死後、ビー・ジーズが三人でマイクを囲んだアイコニックな写真を見て、「首筋にかかるお互いの息遣いを感じられるぐらいだった」と発言されていますね。
B 何を食べたかとか、飲んでるかどうかとか、よくわかるんですよ。人間としての存在がまるごと、一本のマイクを囲んでいると伝わってくるんです。一緒に歌い、一緒に演奏して、ほんとにうまくいったとき、うまくいって、最高の、深い状態に持っていけたとき、あの瞬間をぼくはいつも生きなおしています。ぼくがステージに立つとき、ふたりはいつも一緒です。ぼくは決してふたりなしに歌うことはありません。いつもいつも、ロビンならどう思うかなあ、モーリスならどうだろう、と思っています。ふたりともそこにいます。アンディも。決して失われることはありません。いつまでも。
P どういう形で人の記憶に残りたいですか?
B ビー・ジーズのひとりとして思い出してもらいたいです。いまだにぼくはサポート役です。サポート役を楽しんでいます。
P どういう意味ですか?
B ぼくは決してビー・ジーズというブランドを超えることはないということです。二度と再びあれだけのことはできません。考えてみれば、ぼくは今でもソングライティングを愛しているし、今の仕事を愛している。でも誰でも、どんなに成功していても、必ず終わりは来る、永遠に続くわけではない、ということに気がついたんです。
P キャリアを振り返って、あの瞬間をもう一度、というのはいつですか?
B 出会った日、リンダと出会った日です。リンダと会った日こそ、ぼくの人生でもっともスピリチュアルな瞬間でした。「ああ、もう探さなくていいんだ。この人だ」と思いました。お互い、それまでもつきあった相手はいたけれど、あのときに確信したんです。もう探さなくていいんだ、って。
P これまで書いた曲の中で、どれかひとつ選んで歌ってください、と言ったらどの曲を選びますか?
B 「ラヴ・サムバディ」ですね。はっきりと思いのこもった歌なので、いつも楽しく歌えるんです。
P いま歌うとしたら、思い浮かべる人は誰ですか?
B(リンダ夫人の方を見て)僕が思い浮かべる人はいつもただひとりです。
P あなたの驚くべき人生をこうして振り返るのは、素晴らしい体験でした。
B ありがとう。
P 「ラヴ・サムバディ」はこのインタビューを締めくくるにふさわしい曲だと思います。
B じゃ、ちょっと歌ってみますね。(とギターを手に取って歌いはじめる)
P 素晴らしい。バリー・ギブ!
バリーは子どもたちには「ダディ」、お孫さんたちには「パパ」と呼ばれているんですね(「お祖父ちゃん」じゃないんだ)。家族とのやりとりがとてもほほえましいインタビューでした。メディアの前で語ることの少なかったリンダ夫人の言葉にはたくさんの重みを感じます。
{2017.2 - Bee Gees Days}
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