ポップ・ミュージックの歴史を書き換えるところだったロニー・バーンズの物語

アルバム「This Is Ronnie Burns」

This Is Ronnie Burnsはオーストラリアの人気歌手ロニー・バーンズが1965年から1971年の間に発表した曲を集めたコンピレーション・アルバムで、発売は2019年。

ビー・ジーズ・ファンにとって見逃せないのはビー・ジーズの曲が合計8曲も入っていることです。

オーストラリア時代のものを中心に、「Coalman」「Exit Stage Right」「All the King’s Horses」「Top Hat」「In The Morning」「Butterfly」「I’ll Know What To Do」それにバリーの「One Bad Thing」です。

メルボルン出身のロニー・バーンズは1946年9月8日生れ。1946年9月1日生れのバリーとは本当に年齢が近い……というか、わずか7日違いです。ビートルズの影響が色濃いバンド、ザ・フライズのメンバー(リードボーカル&リズムギター)として活躍しました。

「オーストラリア初のロングヘアーのバンド」と言われたというフライズは、1965年にはローリング・ストーンズ初のオーストラリア・ツアーで前座を務めたりした人気バンド。このときはブライアン・ジョーンズと楽屋が一緒で「すごくいい匂いがした」そうです。ブライアンはゲランの香水ミツコをつけていて、ロニーにボトルをくれたそうですが、「何年も経ってから、捨ててしまった。捨てなけりゃよかった」とか。(私は整理するときに、どうでもいいものより多少とも気になるものから捨ててしまう傾向があるので、あとで悔やむことも多く、この気持ちは共感します)

さて、1966年にソロになったロニー・バーンズは当時のビー・ジーズのレーベルだったスピンと契約、2枚目のシングルを出した後で、スピン・レーベルのレコーディング・マネージャーだったナット・キプナーからギブ兄弟の曲を取り上げるようにと言われたそうです。

これがきっかけになって、ギブ兄弟を訪ねていったときのことなどが、このアンソロジー版のライナーに収められていますが、これがなかなか面白いので、簡単にご紹介します。

ロニーは気乗りがしなかった。ビー・ジーズってロッカーのヘアスタイルをしたティーンエージャーのやつらだろ。彼らの曲にレコーディングしたいようなものとかあるのかな。そこでテープを聴いてみたら、『ビートルズかと思った! 素晴らしかった』。というわけで、ロニーはシドニーのギブ兄弟を訪ねた。2枚のシングル用に合計4曲をビージーズと一緒にレコーディングするためだ。バリー、ロビン、モーリスの3人がぼこぼこのステーションワゴンに乗って空港に出迎えてくれた。「僕たちの車にガソリンを入れてもらえるかな?」とバリーに訊かれた。ビー・ジーズの家についてみると、彼らがどのぐらい貧しいか初めて気づいた。3人はギターを1台しか持っていなかった。しかもそのギターには弦が2本しかついていなかった、AとEだ。その2本の弦だけを使って、バリーは名曲「スピックス・アンド・スペックス」を書いたのである。翌日、ロニーは4時間かけて4曲をレコーディングした。「Coalman」「All The King’s Horses」「Exit Stage Right」「In The Morning」である。総費用は300ドル。

「Coalman」は、ビートルズが「Taxman」なら、ビージーズは「Coalman」というので書かれた曲、とロニーは説明している。この曲はロニーにとって最初のトップ10ヒットになった。

ロニーはギブ兄弟と非常に親しくなり、後日、ロンドンのケンジントンにあったバリーの4階建ての家を訪ねている。到着したロニーにバリーは言った。「部屋に案内する前に、まずこれを見てくれよ」

バリーの家には武器類を集めた部屋があって、ライフル、ピストル、サーベル、短剣などのコレクションがしまってあった。ロニーがバリーに「この中でお気に入りはどれだい?」と質問。バリーはミニチュアのドイツ製ルガー・ピストルを見せてくれた。「気をつけてくれよ。触発引き金だから」と、バリーが言ったとたんに、銃から弾丸が飛び出した。まさか、射ちがねが起こしてあって、弾丸が入っていたとは。弾はバリーの顔をかすめて飛び、後ろの窓が粉々に割れた。その一瞬に、ロニーはもう少しでポップスの歴史を書き替えるところだったのである。(皮肉なことに、バリーがロニーに渡した新曲のデモは「One Bad Thing(まずいこと)」というタイトルだった。ロニーはこれをオーストラリアに持ち帰ってレコーディングした。

1970年のはじめにGo-Set誌は、ロニーが、まずアメリカにスクリーン・テストを受けに行ってから、モーリス・ギブと一緒にアルバムを作るために渡英すると報じたそうです。バリー・ギブも、ロニーがロンドンに移ればロニーのマネージャーの一人になることに同意。けれどもロニーは結局はオーストラリアにとどまることにして、1970年にはオーストラリアで結婚。ポップスターとしての成功より幸せな人生を送ることを選んだのでした。ちなみにロニーの娘さんは2000年のシドニー・オリンピックでテコンドーの選手としてオーストラリア初のゴールド・メダリストになったそうです。

ところで、後年、ロニーは建設業に乗り出したそうですが、その社名はなんとも「Ronnie Burns Houses」。ロニー・バーンズ・ハウジング社とでも訳せそうですが、Burnsという姓を動詞にとると「ロニーは家を燃やします」という意味になります。ハウジング会社としては、けっこう不吉…というかインパクトのある名前で、ビー・ジーズのオーストラリア時代を扱った新しい研究書『Decades』(これはさすがの執筆陣が満を持して発表した、マニアックのレベルに達しているといえるすごい労作ですので、近く詳しくご紹介したいと思っています)に「まずい名前の」と書かれていて思わず笑いました。

しかし弾道がもう少しそれていたら、ロニーは過失致死罪で人生を誤ったばかりか、今回のフランク・マーシャル監督のドキュメンタリー映画のタイトルにもなった「傷心の日々」とか、「ステイン・アライヴ」とか、数々の曲が、まったく存在しなかったかもしれません。あー、あたらなくて良かった! (しかしオーストラリア時代のギブ兄弟はガソリン代にも困っていたのですね~)

注目のオーストラリア時代のビー・ジーズ・ナンバー7曲では、メルボルンのバンド、ザ・ストレンジャーズとレコーディングされた「イン・ザ・モーニング」以外では、バリー、ロビン、モーリスが歌うバッキングトラックが使われています。「オーストラリアン・ポップのパイオニア」と呼ばれる通り、ロニーのボーカルには勢いがあり、彼の人柄なのか前向きなパワーが感じられます。

「One Bad Thing」は1969年にバリーとモーリスが書いた作品です。未発表に終わったバリーのソロアルバム『The Kid’s No Good』にバリーが歌うバージョンが収められており、バリーはこの曲を「I’ll Kiss Your Memory」に続くシングルとしても考えていたようです(Gibb Songs、1970年)。

ライナーには次のようなロニーのコメントが紹介されています。

僕の初期のレコードは、ビー・ジーズ、特にバリー・ギブが書いてくれた、ビートルズ・タイプのメランコリーな恋愛の歌(ボーイ・ミーツ・ガール)を集めたものでした。けれども60年代後期には、個人的に、「自分は何者なのだろう」「人生の目的って何だろう」と考える模索期に入りました。当時のレコードはそれを反映して、社会的なメッセージを打ち出したものにもなっています。

この「人生の模索期」の代表曲が、徴兵でベトナム戦争に送られるオーストラリアン・ポップのスター、ノーミ―・ロウに「もう君の笑顔は見られないんだね」と歌いかけ、ロニー初のゴールド・ディスクとなった1969年の「Smiley」(トラック18)です。

ちなみに、ビー・ジーズが1967年のあのタイミングで帰英を急いだ背景には、バリーがベトナムに徴兵される恐れがあったから、という説もあることをご紹介しておきます。

またロニーと同世代のバリー(何しろ7日違い)たちも同じころにこの模索期に入ったのでしょう。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」をはじめとするイギリス時代の作品には、人生観を反映した作品が増えていきます。

{Bee Gees Days}

 

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