【1978年2月】サーカス誌インタビュー「熱(フィーバー)を出したビー・ジーズ」

Circus誌(1978年2月2日号)表紙を飾ったビー・ジーズ

Circus誌(1978年2月2日号)の表紙を飾ったビー・ジーズ

気づいたらもう6月も下旬。なかなか平常の更新ペースに戻れないのですが、今日は「フィーバー」時代に突入したばかりのころの彼らのインタビューをざっとまとめてご紹介します。1978年2月2日ということは、まさに映画『サタデー・ナイト・フィーバー』封切り直後の歴史的瞬間を切り取っていることになります。

当時、Circus誌には頻繁にビー・ジーズが取り上げられていましたが、この記事以降、頻度はさらにあがり、1978年だけで何度も表紙に登場しています。

1975年当時、ビー・ジーズはトラブルの真っ最中だった。かつて世界有数の人気グループだった彼らだが、当時は3年ほどの間にぽつりぽつりとヒットを出せる程度。しかもそのヒット曲も、彼らを有名にした60年代のヒットに比べて、明らかにパワーが落ちていた。グループとしてはあいもかわらず時代遅れのフルオーケストラを従えてツアーをし、ラスベガスのショーのように退屈でルーティン化したステージを展開して、年を重ねても忠実だったファン層も客席であくびを嚙みころす始末。長男バリーにいわせれば、ビー・ジーズ自身にはこうしたことへの自覚がなかったそうだ。「ずっと同じことをやってきたから、現状がどうなっているかということが見えなくなっていた。あ、これじゃまずい、と気づいたころには、”あの人はいま”街道をまっしぐらだった」

ところがそこに登場したのがディスコ旋風だ。ロックの純粋主義者は、ビー・ジーズなんかラスベガスにでも出てりゃいいんだ、と言いたかっただろうか、ディスコは、勢いをなくしていた彼らのキャリアにカツを入れ、新しく若い客層をコンサートに呼び寄せた。ラジオのプレイリストでもビー・ジーズはトップに返り咲いた。古典的なポップスタイルでせつないビー・ジーズのサウンドはエモーショナルなダンスミュージックの対極にあるように思われたが、1976年以来、ビー・ジーズは「ジャイヴ・トーキン」「ブロードウェイの夜」「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」をはじめとするミリオンセラーのディスコ・ヒット6曲に加えて、キャリア最大のプラチナ・アルバム2枚(『メイン・コース』『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』)も発表している。

いまやディスコ・ミュージックの黄金時代といって良いこの時代に、ビー・ジーズが、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(RSO)のために新曲を何曲か書いてくれ、と依頼されたのも当然だ。しかも、ジョン・トラボルタ主演のこの新作映画は、ロック界のやり手ロバート・スティグウッドがプロデュースしているとあっては、なおさらである。スティグウッドはRSOレーベルでギブ兄弟のマネージメントを務め、彼らのレコードを出している存在なのだ。

「最初、僕たちはこの映画に関わることにためらいがあった」とバリー・ギブは本誌サーカスの取材に応えて語った。「特に、僕たちにディスコ・グループというレッテルを貼りたがっているジャーナリストが多いから。僕たちの方はこの10年ほどの間にいろいろなジャンルの音楽に取り組んできたというのに。『FM局を狙わないのはどうして?」と聞かれることが多い。何が違うんだ? 僕たちはもうお金のためにやっているわけではない。僕らは最大多数の人たちのために、楽しんでもらえる音楽を書いている。AM局でかかろうか、FM局でかかろうが、問題ではない」

読んでくれ、と脚本が届いたが、彼らは予備知識なしに映画のための音楽を書きたいとか考えた。「ロバート・スティグウッドが言ったのはただひとつ、『土曜の夜にお祭り騒ぎする連中についての映画だ』ということだけ。それから、映画はラヴストーリーで、5曲ばかり欲しいんだ、とも言われた。だから1週間半ほどで5曲を書き上げた。4週間かけてもダメな曲はダメだし、10分ほどでヒット曲が書けたりもする。中でも”ステイン・アライヴ”という曲がいちばん短時間で書けたんだけれど、この曲が一番強力なんだ」

もちろん、ビー・ジーズはこれまでずっと作曲をしてきたのであり、ティーンエージャーになるころにはすでに1ダースばかりのヒット曲を創り上げていた。イギリス生まれのギブ兄弟、長兄のバリーとふたごのロビンとモーリスは子どものころに家族そろってオーストラリアへ移住。ふたごが7歳、バリーが9歳のときに演奏活動を始めている。60年代初頭、ビートルズがロンドンで注目されるようになる前に、ビー・ジーズは一連のトップヒットを持つオーストラリア最大のグループになっていた。イギリス音楽人気の波がオーストラリアにも押し寄せ、三兄弟は1967年にイギリスに戻り、スティグウッドと契約を結んでいる。

なんでもスティグウッドの事務所の階段に座って彼を待っている間に、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という曲を書きあげたのだとか。あとは誰もが知る通りだ。それから1969年までの間、彼らは「ホリデイ」「誰も見えない」「マサチューセッツ」「ジョーク」「ワーズ」など百万単位で売れた大ヒットを連発した。

けれどもどんなに仲の良い家族にも内輪もめはつきもので、名声と権力、成功がグループ内の不和を呼び、彼らは1970年に成功の頂点で解散している。ロビン・ギブはソロ活動を試みたがパッとしなかった。しばらくのあいだ、ギブ兄弟たち本人でさえ、これからどうなるかわからない、という時代だった。1971年に彼らは再結成して、2枚のシングル「ロンリー・デイ」と「傷心の日々」を発表、まだまだ力は衰えていないというところを見せた。ところが、1972年には「ラン・トゥ・ミー」をヒットさせたものの、ビー・ジーズに陰りが見えることは明らかになってきていた。

「1975年に、アリフ・マーディンと組んで仕事をした時に、事態が好転した」とモーリス・ギブは話してくれた。「プロデューサーとしてのアリフは僕たちにとって、新しい耳であり、グループ全体の流れを変えてくれた」

マーディンはアトランティック・レコードのお抱えプロデューサーであり、ベット・ミドラー、マンハッタン・トランスファー、アヴェレージ・ホワイト・バンドなど、ヒットアルバムを何十枚も手がけていた。マーディンは、ビー・ジーズを、ストレートでオシャレでコマーシャルなサウンドに転身させた。だが、その後で大事件が勃発した。ロバート・スティグウッドがビー・ジーズの配給先をポリドールに変えたのだ。これは海外亡命にも似た行為だった。アトランティックとビー・ジーズの間の外交関係は断絶こそしなかったが、ミラクルを起こしてくれたマーディンとの作業は続行不可となった。そこで、続く新作アルバムの仕事にかかったビー・ジーズは、マーディンのサウンドを我と我が手で作り出すことに成功したのである。

ビー・ジーズが『サタデー・ナイト・フィーバー』のために書いた曲は全部で5曲。そのうち3曲はフランスのシャトーというレコーディング・スタジオで録音された。その直後に、バリーとモーリスは、「世界一好きなスタジオ」であるクライテリアに近いフロリダ州マイアミに移住した。ロビンだけはまだイギリスに住んでいる。バリーによれば、ウィンストン・チャーチルの肖像画を居間の壁に飾って暮らしているのだとか。映画のためにビー・ジーズが書いたあとの2曲「アイ・キャント・ハヴ・ユー」と「モア・ザン・ア・ウーマン」は、映画では、今年人気の”新人”アーティストであるイヴォンヌ・エリマン(前者)とボストンの兄弟バンドであるタバレス(後者)が歌っている。

この2枚組のサウンドトラック・アルバムは、RSOレコードのビル・オークス社長がパッケージとしてプロデュースしたもので、ビー・ジーズの5曲以外にもK.C.とサンシャイン・バンドの「ブギー・シューズ」などが入っていて、ビー・ジーズの占める割合は小さい。

当然ながら、ギブ兄弟がささっと書き上げてレコーディングした3曲が、アルバム中の最高傑作であり、音楽環境が変化するなか、国際デビュー後10年経ってもいまだにビー・ジーズがポップ・ビジネス最大の才能のひとつであることを示している。

「今の僕たちが出しているヒットの素地は50%アリフが固めてくれたものだ。それは決して否定できない」と、モーリスは率直に認めてくれた。「アリフがどんなに優れたプロデューサーであるかは、誰でも知っている。今の僕たちにアリフのようにプロデュースすることができるはずもない。ただ、僕たちは、アリフだったらこうプロデュースするだろうなという方向で曲が書けるようにはなったんだ」

このあたりの経緯はDVD/ブルーレイで海外盤が発売されている最新ドキュメンタリー『How Can You Mend A Broken Heart』にも詳しく取り上げられています。バリーが「ステイン・アライヴ」のことを、「”ステイン・アライヴ”という曲」と紹介していることからも、この段階ではまだ「ステイン・アライヴ」が広く知られていなかったことがわかります。

彼らの若き日の経歴は、まあご愛敬というか、実際には1967年以前のビー・ジーズはそれほど成功していたわけではありません。

{Bee Gees Days}

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