【Rave1968年2月号】バリー・ギブが表紙の英雑誌から《ビー・ジーズのライフストーリー》
イギリスの月刊ティーン雑誌『Rave』1968年2月号。バリーは何度かこの雑誌の表紙を飾っています。当時のティーンアイドルとしての人気の高さがよくわかりますね。ちょうど2月なので、この号のカバーストーリーをご紹介しようと思います。
カバーストーリーは「バリーが語るビー・ジーズのライフストーリー」。こういうティーン雑誌というのはどこまで本人に取材しているのかわかりにくいのですが、これはイギリスの雑誌で、当時彼らをイギリスのティーンアイドルにしようという戦略だったことを思うと、これはかなりバリー本人に取材している可能性が高い記事だと思います。当時のアメリカの雑誌は、「アメリカ滞在中のビー・ジーズに突撃取材」とでも書いてないかぎりイギリスの雑誌からの引用が主でした。
ギブ兄弟と話していると、まるでひとりの人間と話しているようだ。三つ子だっていえそうなぐらい、気持ちの上では三人が一緒で、三人でひとり、ひとりで三人、である。バリーが一番上だけれど、ふたごの弟ロビンとモーリスに「ああしろ、こうしろ」と言ったりしない。ビー・ジーズの物語が始まるのは1947年9月1日(訳注 実際にはバリーは1946年生まれですが、当時マネージメントはバリーにひとつサバを読ませたかったみたいです。ただ、マネージメントが出した当時の資料でも「46年生まれ」と「47年生まれ」が混在していたり、意外とのどかだった当時の雰囲気が感じられます)、マン島ダグラスでバリー・ギブが誕生したときだ。2年後にロビンとモーリスが生れた。モーリスは、その時のことをよく覚えてる、なんて言ってる。
ギブ・ファミリーはダグラスからマンチェスターのさほど裕福でないエリアに引っ越した。30マイルも離れていないところにはビートルズがいた。そしてこのマンチェスターでギブ兄弟は音楽に関心を持つようになった。これからバリーが(元気な二人の弟の手を借りつつ)お話しするのは……苦難の中から身を起こして成功をつかむまでの物語のはじまりはじまり。
「すべてのはじまりは1956年。ぼくはマンチェスター(チョールトン・カム・ハーディ)のバッキンガム通りを自転車で走ってました。ポール・フロストとケニー・ホロックス、もうひとりニコラスという子もふたごと一緒にぼくの後ろから走ってきていました。ぼくたちが冗談みたいに話していたのが、土曜日の午前中、午後の上映が始まる前に、地元の映画館で子どもたちがレコードをかけて口パクで歌うふりをするんだって、という話題。子どもたちがプラスチック製のギターをもってエルビス・プレスリーのレコードに合わせて歌うふりをしたりしてたんです。で、ぼくが、おれたちはエヴァリー・ブラザーズのレコードをかけてやろうよ、って言ったんです。クリスマスが近いころでした。映画館のマネージャーに話したら、いいよって言われたので、クリスマスの次の週にやろうということになりました。クリスマス・プレゼントにふたごはバンジョーをもらって、ぼくは本物のスパニッシュ・ギターをもらって、妹のレズリーはエヴァリー・ブラザーズの「Wake Up Little Susie」のレコードをもらったんです。
いよいよ当日、ケニーやポールとぼくたちは朝10時に映画館に行きました。ぼくはしっかりとレコードを持っていました。ところが外階段を上っていたときに、そのレコードを落としちゃって、そうしたら割れちゃったんです。「どうしよう~? レコードなしじゃ、歌ってるふりもできないよ!」ってなったときに、誰かから「レコードがないなら、本当に歌おう!」という意見が出ました。夢にも思わなかったような意見でした。
とにかく、ぼくたちは本当に歌ったんですが、これがまたひどかった。マネージャーはぼくたちひとりひとりに1シリングくれて、来週またおいで、って言ってくれました。で、その次にはぼくたちももう少し準備ができていました。ぼくたち三人の兄弟がうたって、あとのふたりは動き回りながら手拍子をとる、という編成でした。歌ったのは「I Love You Baby」「Diana」「That’ll Be The Day」とかの曲だったんですが、ぼくたちは自然にハモれるってことがそのときにわかったんです。その翌週にはマンチェスター・イヴニング・ニューズ紙にぼくたちの写真が出たんですよ! ウィー・ジョニー・ヘイズとブルーキャッツとしてね(その前はラトルスネークスと名乗っていました)。
ささやかな名声
その後一年ばかりは、マンチェスターの内外で歌ってました。そのあたりでは名前が売れたけど、一歩外に出れば無名。そのころから自分たちで曲も作り始めていました。最初の曲が「Turtle Dove」、次の曲が「Let Me Love You」って言いました。イギリスを出るころには50曲ぐらい書いてたかな。もう忘れちゃいましたけどね!
1958年末にオーストラリアのブリスベーンに移住しました。船の中で歌いながらの旅で、そのときはギブ・ブラザーズと名乗っていました。オーストラリアでは、レース場のスタジアムで歌って、観客の投げ銭を集めていました。そこでレースとレースの間に歌っているぼくたちに目を留めてくれたドライバーがいたのですが、彼が当時ブリスベーンでぴかいちのDJだったビル・ゲイツと親しかったんです。
このころ、名前をB-Gsに変えました。当時は「DJ」とかみたいにイニシャルで表記するのが流行ってたんです。その約一年後、今から9年ぐらい前に、今度はそれをBee Geesに変えました。バリー・ギブ(Barry Gibb)、ビル・ゲイツ(Bill Gates)、それにもうひとりビル・グッド(Bill Good)という人がいて、全員イニシャルがBGだったんですよ。
ビル・ゲイツはぼくたちの歌を気に入ってくれて、「Let Me Love You」をレコードにして、ブリスベーンのラジオで流してくれたので、とても人気が出ました。リクエストが集まって、「どこでレコードが買えますか」という質問も来たんですが、笑っちゃいますけど、実はビルが自分で作ったあのレコード1枚があるだけだったんです。ビルは毎日番組であの曲をかけてくれました。
苦難の時代
ぼくたちはとにかく歌いたかった。他の仕事にはついたことがありません。友だちのために小規模なコンサート形式のパーティを開いたりしていました。かなり苦しい時代でした。父は写真家で国中をまわって仕事をしていたんです。
その間じゅう、レコーディングしたものがラジオで流れて、かなりの需要が出てきていました。で、ほどなく、地元のテレビ曲から電話で、「いい曲ですね。番組に出て歌ってくれませんか」という依頼が入るようになりました。
ぼくたちは地元のテレビ番組にすべて出演して、『The Bee Gees’ Half Hour』という三十分番組を持つまでになりました。その後、これは毎週1時間の番組に昇格したんですよ! モンキーズみたいな感じのコメディで、毎週特別ゲストが出ていました。番組のアイディアを出していたのは父です(当時、僕たちのマネージャーをしてくれていて、これはオーストラリアを出るまで続きました)。僕たちは人気があったんですが、1年ぐらいしたら児童福祉関係の人が介入してきて、僕たちの番組は月に1度に減らされました。それで勢いが衰えて、最終的にはなくなってしまいました。
最初のブレイク
それからサーファーズ・パラダイスというオーストラリアのホノルルみたいな場所に引っ越しました。一年じゅう暑くて、素晴らしい場所です。そこで18ヵ月ばかりナイトクラブの仕事をしました。ぼくが14歳ぐらい、ふたごが12歳でした。あるとき、演奏していたら、シドニーから来たという人物が接近してきて、「君たち、素晴らしいから、シドニーのクラブで働けば大金が稼げるよ」と言われたんです。で、ぼくたちはシドニーに引っ越しました。
シドニーで、コール・ジョイという人物に出会いました。当時、ティーンのアイドルとして有名だった人です。ぼくたちがサーファーズ・パラダイスで出演していたのを見ていたらしく、こっちは彼みたいな大スターを前にぶるぶるふるえているのに、フェスティヴァル・レコードに紹介してくれたんです。その日のうちに5年契約を結んで、最初のレコードを出すことができました!
コールの兄でマネージャーだったケヴィン・ジェイコブソンがぼくたちのマネージャーになりました。ぼくたちはテレビ番組やクラブ、それにパントマイムにまで出演していました。最初のレコードは「バトル・オブ・ザ・ブルー・アンド・ザ・グレイ」でしたが、B面の「三つのキス」の方が流れることが多くて、チャートで3位ぐらいまでのぼりました。いつもナンバーワンはコール! ところがあるとき、突然、ジャーン!とビートルズが登場しました。おかげで僕たちのショー・ビジネスについての考え方もがらりと変わりました。コールはすっかり勢いを失いました。ビートルズ以降はコールはヒットを出せなくなったんです。
「ラヴ・ミー・ドゥ」が出たとき、ぼくたちはタスマニアにいました。ラジオにはかかりませんでしたが、僕たちは夢中になりました。B面の「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」はラジオでいっぱい流れていました。ぼくたちは、「ビートルズだって! へーんな名前!」って思ってました。
ビートルズのレコードと僕たちのレコードが両方かかるようになると、似ているという声があがって、その結果、ぼくたちは放送から締め出されたんです! オーストラリアに外部から優れたアーティストが登場すると、オーストラリアの人は地元のアーティストの方を冷遇するんですよ。ぼくたちは行く先々で、「オーストラリアのビートルズ!」呼ばわりされたものです。
ひとりだけ、ジョン・ローズというDJが、僕たちの味方でいてくれて、僕たちのレコードをかけてくれました。たしかに僕たちのサウンドは「ビートルズ風」だけど、ぼくたちの方がビートルズより昔からいたじゃないか、って言ってくれたんです。でも大衆の方はそんなこと知ろうともしてくれませんでした。つらい時代でした。コンサートをするたびに、「帰れ、ビートルズの真似野郎!」って言われたんです。ぼくたちはイギリスに帰りたくてたまらなくなりました! こんな風に鼻先でドアをピシャリと閉められるぐらいなら、オーストラリアから出た方がいい、と思ったんです。
オーストラリアを出る前に、ぼくたちのレコード「スピックス・アンド・スペックス」がナンバーワンになったので、いよいよイギリスに帰る時が来た、と思うようになりました。誰にも言わずに、ひっそりと出たかった。こうして僕たちはオーストラリアを後にしました。戻ってきてくれ、という手紙をたくさんもらいましたが、もし失敗するにしてもオーストラリアよりイギリスで、というのがぼくたちの気持ちでした。
いざイギリスへ!
出発前に、ぼくたちはレコードをブライアン・エプスタインのところに送っていました。ブライアンはそうした側面は扱っていなかったのですが、当時のぼくたちはそんなこと知らなかったんです。そこでレコードはロバート・スティグウッドのところにまわっていました。ロバートはぼくたちのレコードを聴いて気に入ってくれていました。ぼくたちがイギリスに到着する日を知って、何日もぼくたちにコンタクトしようとしてくれていたのですが、ぼくたちはつかまらなかった。ぼくたちは本に載っていたエージェントめぐりをしていたのですが、どこでも門前払いでした。それからついにロバートから連絡が来て、イギリス到着後第一週の金曜日にぼくたちはNEMSと契約を結び、ロバート・スティグウッドが僕たちのマネージャーになったのです。ロバートはオーストラリア人でしたが、ぼくたちはオーストラリアでは彼の名前を聞いたこともありませんでした。偶然の出会いだったんです。「オーストラリアのどちらの出身ですか」とロバートに聞いたら、「アデレード」というので、「アデレードは素晴らしいところですね!」と言ったぼくたちですが、契約を交わしてしまってシャンペンを飲んじゃうと「アデレードなんてダサっ!」なんて言ってましたね。
ロバート・スティグウッドとのパートナーシップが始まったその日から、ビー・ジーズは順風満帆。長らく三人組だった彼らは古い仲間うちから、『Smiley』や『Cry from the Streets』の子役スター、コリン・ピーターセンとギタリストのヴィンス・メローニーをグループに入れて、サウンドの幅を広げた。コリンもヴィンスも別々にイギリスに来ており、なんとか芽を出したいと苦闘中だった。ふたりとも、ビー・ジーズからグループに入らないかと誘いの電話を受けて、とても喜んだのである。
こうして彼らの物語は続く。発表するレコードや曲の一つ一つが彼らにとっての新しい勝利だ。ビー・ジーズはトップ10入りしている大半のアーティストよりもショー・ビジネス界での長い芸歴を誇っている。テレビ番組からパントマイムまで、ありとあらゆることをしてきて、いまだにさらに大きな成功を視野に入れて努力、努力、努力の毎日だ。
「現状ではまだ成功したとはいえない」と、ビー・ジーズは言う。「トップの座に就くための唯一の方法、それは日夜努力すること」だというビー・ジーズ、きっとトップの座をきわめることだろう!
『Rave』は当時としては比較的入手しやすい洋雑誌で、私が住んでいた地方都市でも少し大きな書店には置かれていました。とはいえ、一冊買うと子どもの一ヵ月のお小遣いの大半が飛んでしまう(といっても数百円…)値段だったので、この号の記事を、洋楽ファンだった友だちのお姉さんからいただいた時には、とても嬉しかったのを覚えています。
いまこれだけの時間が過ぎて振り返ると、実はこの段階でビー・ジーズにとってのオーストラリア時代は「けっこう最近」だったんですね。だからバリーの記憶も細かい。同時に、意図的なものかどうかはわかりませんが、微妙に記憶の修正も入っています。バリーの誕生年が違うのはマネージメント補正が入っていたためでしょうか。
近くもっと丁寧にご紹介したいのですが、実はこのオーストラリア時代を丁寧に検証した研究書(ファン必携!)が最近英米豪の研究者チームによって発表されました。そこに書かれている内容とこのバリーが語る(少なくとも「バリーが語った」と言われている)内容とのずれもなかなか興味深いです。
もうひとつ面白いのは、ここでも彼らは「ロック・バンド」でも「ポップ・グループ」でもなく、「ショー・ビジネスのベテラン」と紹介されていることです。以前にも書きましたが、後のフィーバー時代に書かれたローリング・ストーン誌の検証記事の中で、ビー・ジーズに心酔していた(とはいえ、客観的な視点も持ち合わせていた)ジャーナリストのティモシイ・ホワイトがこの点に言及しています。この抜きがたいプロフェッショナリズム(音楽で食べているという意識、と言い換えましょうか)はビー・ジーズという複雑なグループの核にあるような気がします。
もうひとつちょっと注目したいのは、ここでバリーがビートルズの「I Saw Her Standing There」に言及していること。ごく最近のインタビューで、バリー自身が、実は「ブロードウェイの夜」で発動したといわれる彼のファルセットは、「I Saw Her Standing There」のエンディングでのポールのシャウトを念頭に置いたものだった、と発言しているのです。なるほど!
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