【1967年12月】米ヒット・パレーダー誌「ビー・ジーズにフォーカス」

アメリカの音楽誌『ヒット・パレーダー』1967年12月号に掲載された記事をご紹介します。当時、もちろんインターネットなどありませんし、アメリカとイギリスの距離感は当然ながら今よりもずっと大きく、アメリカのマスコミがイギリスのアーティストに取材するのは彼らが現地アメリカ入りしたときにほぼ限られていました。この記事も実際に彼らに取材したものか、資料をもとにして書かれたものか、ちょっと文面からは判断できません。しかし60年代末に『ヒット・パレーダー』誌の編集に携わっていたフォトジャーナリストで、ビー・ジーズの写真なども撮影して発表しているドン・ポールセンの署名記事であることを考えると、信ぴょう性が高く、いずれにせよ、中身の濃い記事です。

 

ビー・ジーズのサウンドはザ・ビートルズに似ている。ビー・ジーズもザ・ビートルズのように自分で曲を書く。出版社も同じだ。と、くれば、論理的な説明は3つしかない。

1)  SF作家がいうところのパラレル・ワールド説。この地球とそっくり同じ地球がもうひとつあって、人も場所も物も同じだが、別の時間枠・次元にある。この説によれば、こちらの世界とあちらの世界の間で移動することもあるらしい。たぶん、ビー・ジーズはパラレル・ワールドからやってきたもうひとつのザ・ビートルズなのだ。

2)”旬”のポップグループには”もっともっと”という声があがる。でもザ・ビートルズだってそんなにあっちにもこっちにも出演するのは無理だし、毎週書ける良い曲の数にも限度がある。こんなとき、オリジナルのザ・ビートルズとほぼそっくりな新しいグループがいれば問題は解決だ。ビー・ジーズってひょっとしてザ・ビートルズの”コピー”として訓練されたグループなのだろうか?

3)最後の、いちばんシンプルな説明が、たぶんいちばん真実に近い。ザ・ビートルズとビー・ジーズの類似はまったくの偶然。結局のところ、ビー・ジーズの方がデビューが早かったのだ。

ビー・ジーズの主要メンバーであるバリー・ギブとふたごの弟ロビンとモーリスが故郷マンチェスターでグループを結成し、土曜の朝のアマチュア・コンサートに出演したのは1956年。バリーは8歳、ふたごは6歳だった。

1958年に、一家はオーストラリアへ移住。その後、数カ月のうちに、ビー・ジーズはラジオ番組「タレント・ゲスト」に出演し、2年後には自分たちのテレビ番組を持っていた。

そのころイギリスでは、短髪にレザージャケットといういでたちの4人組の若者がグループを結成しようとしていた。その名もシルバー・ビートルズ。

ビー・ジーズの最初のシングル「3つのキス」がオーストラリアで発売されたのは1963年1月。この曲はトップ20入りし、一連のヒットがこれに続いた。

しかし彼らも、ここで満足していてはいけない、と考えるようになる。

「オーストラリアの音楽シーンはとても小さい上に、かげであれこれ言われることが多い。オーストラリアには大手のマネージャーも3人ぐらいしかいなくて、みんな見掛け倒しだった」とバリー。

ギブ兄弟は父親にビジネス面を担当してもらうことで、そうしたマネージャーとのかかわりを回避した。

「ぼくたちの初期の曲はオーストラリアには良かったが、イギリスとアメリカの音楽シーンは比べものにならないぐらい規模が大きい。ぼくたちはものすごい浮き沈みを経験してきたので、笑いごとじゃない。オーストラリア相手だけではスターとはいえない。スターというのは世界中を相手にした人間のことだよ」とモーリス。

ビー・ジーズは、より大きな市場を求めて、1967年2月にイギリスへもどった。

「最悪の事態を覚悟していた」とロビン。「イギリスに着いたら飢え死にする覚悟だった

ところがビー・ジーズの評判は、彼ら自身より先にイギリス入りしていた。ビー・ジーズはブライアン・エプスタインのオフィスに自作曲が入ったデモ・アルバムを送っていたのである。1967年2月24日、ビー・ジーズはエプスタインのNEMSと契約、かつて映画の子役スターだったコリン・ピーターセンをドラマーとしてメンバーに加えた。

ビー・ジーズのバイオによれば「ニューヨーク炭鉱の悲劇」をレコーディングしたのはネムズと契約した後とある。ビー・ジーズ自身は、この曲はネムズに送ったデモにすでに入っていたという。「死をテーマにした変わった曲なのでレコーディングしたがるアーティストがいなかった」とバリー。

「”ニューヨーク炭鉱の悲劇”をレコーディングするためにスタジオ入りしたけど、まだ曲はできあがっていなかった。ぼくたちは曲は全部スタジオの中か外の階段で書くんだ。ロビンとぼくはイギリスのポリドール・レコードのオフィスの外にある階段に座っていた。夜だったので、他のオフィスは全部しまっていた。デモ用のレコードを作っていたんだけど、どうしようかなあと思っていた。その雰囲気から曲が生れた。暗い中で、ふたりでお互いに向かって歌って……こんな物語なんだ、っていうのが出来ていった…」

これだというバージョンができるまでに、6-7回レコーディングが繰り返された。ミュージカル・アレンジャーのビル・シェファードが彼らの指示に従ってストリングスを加えた。

NEMSの重役ロバート・スティグウッドは、「”ニューヨーク炭鉱”を第一弾シングルとして発表すればヒットする」と発言。ビー・ジーズはそんなことは信じなかったが、実際にこの曲は国際的なヒットとなる。そこで彼らもスティグウッドの言葉を傾聴するようになった。

ギブ3兄弟は非常に多作なソングライター・チームだ。最初のデモに入っていた曲の大半が、他のアーティストによってレコーディングされている。トレメローズ、ビリー・J・クレーマー、ユニット4+2などである。そのうちの1曲、ペースメイカーズから独立したばかりのジェリー・マースデンがカヴァーした「ギルバート・グリーン」という曲は、125年前のソングライターの物語だ。彼は美しいピアノ・コンチェルトを書いている最中に火事で死亡した。125年後、このコンチェルトが発見され、初めて演奏される。ジェリーのバージョンでは最後にこのコンチェルトが入っている。このコンチェルトのインストゥルメンタル・バージョンもビー・ジーズのアレンジャーであるビル・シェファードが発表している。

これでビー・ジーズのすごさが少しわかってもらえたかと思う。ビー・ジーズはいろいろな構想にトライしていて、特定の音楽スタイルのレッテルを嫌っている

「ひとつのサウンドに固執するグループが多すぎる。特定のサウンドをキープして、自分たちは”これでなくちゃ”と思い込んでいる。自分たちのアイデンティティをなくすのがこわいんだ。レコードごとに新しいサウンドに挑戦する、あるいは1枚のアルバムの中でも曲ごとに変化する方がいいと思うんだけど。その方が幅広い層に訴えることができる」とコリン。

「音楽シーン全体が複雑になってきている。数年前までは特定の流行みたいなものがあった。今は複数の方向性がある。これがどういうところに行きつくのか、ぼくにもわからないけれど確かに今の状況の方が面白い」

コリンによれば、ビー・ジーズの音楽への取り組みは「チームプレー…みんなの考えが統一されたものだ。まだグループとしてはほんの駆け出しだよね。独特な曲をたくさん生み出して、音楽全般に貢献できると思う」。

ドラマーのコリンはグループのレコーディング方式をこんな風に語る。「まず、ベース、ドラムス、それにリズム・ギターを1つのトラックに入れる。次のトラックにはたいていは、モーリスが演奏するリード・オルガンかリードピアノをつけ加える。3番目のトラックでバックアップ・ボーカル、つまりコーラスを入れる。それからこの3つのトラックを1つにまとめたものを作ると、あと3つのトラックが使えるようになる。そのうち2つはオーケストラ用だ。一番最後にボーカルを入れる。

”ニューヨーク炭鉱の悲劇”ではアシストを頼んだ楽器は3~4個だった。チェロと、ベース・クラリネットと、あと2-3のもの」

2番目のシングル❝ラヴ・サムバディ❞では楽器は26人に増えていた。これを習慣にするつもりだったとかじゃなくて、曲にとりかかったら、大規模なオーケストラが必要だという点で全員の意見が一致したんだ」

ビー・ジーズがこれまでにレコーディングした曲はオーケストラを使ったものが多く、繊細でソフィスティケートされているがダンス向きではないので、ビー・ジーズとしてはライヴ用にもっとダイナミックはサウンドが必要だった。そこで、シドニーでギブ兄弟とレコーディングしたことがあるオーストラリアを代表するギタリストのヴィンス・メローニーがグループに加わった。

「ステージではソフィスティケートされたサウンドはあまりウケない。エキサイトしないからね」とヴィンス。「若い観客が求めているのはそういう音楽じゃないんだ。コンサートでは大音響でやるし、フィードバック奏法やギター・ブレイクを多用する」

さて、ビー・ジーズの今後の計画だが、ソフィスティケートされたアルバムや大音響のコンサート以外にもいろいろとある。来年早々には最初の映画『Lord Kitchener’s Little Drummer Boys』を撮影するためにアフリカ行きが計画されている。ボーア戦争に徴兵された5人のヴォードヴィル芸人の物語で、音楽もビー・ジーズが書く予定だ。

この映画、『ハード・デイズ・ナイト』みたいなものになるんじゃないかと思われる。ううむ…。どうもパラレル・ワールド説に一抹の信ぴょう性が出てきたではないか。

――ドン・ポールセン

この記事で興味深いのは、

1.(時代的に)ザ・ビートルズ関連の話題が大きいこと。

まだザ・ビートルズが現役のグループで、チャートの常連だった時代です。

2.ビー・ジーズが当初ザ・ビートルズに非常に似ていると思われていたこと。

ベスト盤『アルティメイト・ベスト・オブ・ビー・ジーズ』の解説でティム・ライスが書いているように、バロックポップの継承者として、同じNEMSつながりで華々しく国際デビューしたこともあって、”似ている”と騒がれたビー・ジーズですが、いちばん違ったもののひとつは、やはりトレードマークでもあった彼らの「声」でしょう。ビー・ジーズには超個性派のリードヴォーカリストが2人いました。ザ・ビートルズの影響は間違いないところですが、バリーもロビンもかなり”変わった”声の持ち主であったことも確かです。

ギブ兄弟のヴォーカルが持つ独特のつきささるような切迫感と、楽曲(訳注 「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)のラスト近くで聴けるロビンの魅力的で不可思議なヴィブラートは、どう考えても、ジョンのものでもポールのものでもありえなかった。(ティム・ライス ”アルティメイト・ベスト・オブ・ビー・ジーズ”ブックレット所収の解説「ギブ兄弟の音楽」より)

3.コリン・ピーターセンとヴィンス・メローニーのコメントがしっかり入っていること。

最近、英語圏のTwitterでも話題になりましたが、5人組ビー・ジーズの時代が過ぎ、70年代に入ってビー・ジーズが再編成された後、コリンとヴィンスのふたりが60年代の活躍で果たした役割がロバート・スティグウッドによって(おそらく戦略的に)故意に過小評価されたきらいがある、とも言われています。そんな面からも、映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』でヴィンスが語る5人組時代のサウンド作りの”勢い”の話や、この記事でのコリンの”チームプレー”発言などは、非常に興味深いものがあります。

初期の曲が「ダンス向き」ではなかったという話も面白いですね。やがてビー・ジーズがダンス・ミュージックの殿堂入りすることになろうとは、この時点ではだれも予想していなかったかもしれません。そして彼らが常に型にはまりきらない存在であったことも、すでにこの記事中にあらわれています。「バラードのビー・ジーズ」「ディスコ・バンド」等々、さまざまなレッテルがこの規格外のグループには常についてまわり、行く手を阻みました。

当時シングル発売されたジェリー・マースデン版の「ギルバート・グリーン」(YouTube)は、ビー・ジーズの曲のカバー集”Maybe Someone Is Digging Underground”にも収められて入手しやすくなりました。ビー・ジーズ版は2006年発売の“Bee Gees 1st”のデラックス版でオフィシャル・リリースとして陽の目を見ています。

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