【アルバム・レヴュー】ビー・ジーズ『オデッサ』考

Elseshere.co.nzのサイトよりビー・ジーズのアルバム『オデッサ(Odessa)』1969年3月30日にイギリスで発売されました。発売51周年を記念して、ニュージーランドのライター、グレアム・リード氏によるこのアルバムの歴史的意義を探るレビューがElsewhere.co.nz (オンライン版2020年3月30日)に掲載されましたので、以下に内容を簡単にまとめてご紹介します。

ビー・ジーズの『オデッサ』を2020年に振り返るーーメンバーの全員がそれぞれ別々の救命ボートで海に出ていたころ

1967年初めにオーストラリアからイギリスに戻ったビー・ジーズは続く16か月の間にすごいヒットシングル6枚と3枚のアルバムを発表している。

ものすごい日程で曲を書いてレコーディングし、ツアーをしており、これに比肩できるものといえば、一時ビー・ジーズとチャート上のライバルでもあったビートルズの仕事ぶりぐらいじゃなかろうか。

しかしラジオ向けのタイトなポップスを作るグループだったビー・ジーズのまわりでも大きな変化が起ころうとしていた。中でも大きかったのがビートルズの『サージェント・ペッパー』の登場である。

すべてがテクニカラーを帯びる中(ビー・ジーズの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」は到底テクニカラーではない)、ホリーズ、アニマルズ、ストーンズ、ザ・ムーヴ等の同輩たち同様にビー・ジーズも音楽的な色彩を拡充する必要を感じた。

1968年7月、ビー・ジーズは、アルバム『オデッサ』をレコーディングするためにスタジオ入りした。以降、レコーディングには5か月を要したが、それはこのスプリンターたちにとってはマラソンに等しい長さだった。スタジオ入りするまでの莫大なエネルギーの消耗がやがて効いてくる。

「僕たちは若かったし、すっかり消耗してしまって、へとへとになっていた」と、バリー・ギブは後年になって回想している。

イギリスでは新しい音楽的気分が生まれていた。アルバムがシングルに優先されるようになったのだ。ビー・ジーズは、どの方向をとるべきか悩んでいた。

アルバム『オデッサ』は、ベルベット風の壁紙のようなジャケットに入った2枚組として1969年3月に発売され、批評面でも売り上げ面でも大勢の無関心をもって迎えられた。イギリスではチャート10位、アメリカでは20位を達成できたのも、それまでのグループの評価に負うところが大きかった。

オーケストラを使ったバロック・ポップは大衆と批評家を当惑させた。唯一のシングルはアルバムの中では毛色の変わった「若葉のころ」だった。

「『オデッサ』はロックオペラの試みだったと思う」とバリーは2009年に語った。「ちょっと寄せ集め風になってしまったけれど、理想は高かった」

が、マネージャーだったロバート・スティグウッドの理想も同様に高かった…ということはなさそうだ。

「金銭的な問題だったと思う」とバリー。「2枚組アルバムの方が全員にとって金になる。グループ本人はもうからないけどね。だから、僕たちはあまりやる気にならないことをやっていて、結果的に自分ではあまり良いとも思えないような曲がいっぱい入ってしまった」

それでもビー・ジーズは、ときにはビル・シェファードが素晴らしいオーケストラ・アレンジを加えた曲や、けだるく好感の持てるカントリー・ソング「日曜日のドライヴ」(バンジョーとスライドギターが入ってる)などで、くじけずに頑張り続けた。

これがコンセプト・アルバムだというなら、全体の構想がどういうものだったのかがいまひとつ聞こえてこなかった。タイトル・トラック「オデッサ」は、ポール・バックマスターのドラマチックなオーケストレーションとむせび泣くようなチェロで始まり、こう歌われる…「1899年2月14日、英国船ヴェロニカ号は跡形もなく姿を消した」。

あと、トーマス・エジソンの歌なんかもある。

事態が紛糾したのは、アルバムからの第一弾シングルを決めるときだった。ロビンは「ランプの明り」がいいと主張したのだが、結局のところ、やや感傷的なバラード「若葉のころ」(少なくともこちらはビー・ジーズのそれまでのシングルに近かった)がリリースされ、「ランプの明り」はB面になった。

ロビンが気を悪くしたのは、難解で7分半もあるタイトルトラック「オデッサ」が当初のシングル候補だったからでもあった。

「『オデッサ』という曲には心血を注いだ」とロビンは語った。「ロバート・スティグウッドから電話が来て、こんなすごいポップ・クラシックは聞いたことがない、最高だ、って言われたよ。『ほんとにすごい』って、朝の3時、4時、5時、6時に電話して何度も何度も同じことを言うんだよ」

「だから僕は『オデッサ』が次のシングルになるんだと思ってた」

だが、ほかの者たちは、「マッカーサー・パーク」「ヘイ・ジュード」など長いシングルが流行する風潮に便乗したと思われたくなかった

スティグウッドは「若葉のころ」を選んだ。

「これまで出したシングルでもグループ全員が気に入ったものはなかった」とスティグウッド。「必ず不満な人間が出てくる。今回はそれがロビンだったということだ」

それから8か月のうちにビー・ジーズは解散してしまった。まず『オデッサ』発売の10日前にロビンが抜けた。バリーとモーリスはふたりで活動していたが、今度はバリーが止めた。あとの二人のメンバー、ギターのヴィンス・メローニーとドラムスのコリン・ピーターセンもそれぞれに去っていった。

『オデッサ』は野心的なアルバムだったが、ビー・ジーズを解散させたアルバムにもなった。長い時間を経て、ギブ兄弟がそれぞれにソロでヒットを飛ばした後に、ビー・ジーズは再編され、それまでと大きく違う、驚くほどの成功に満ちたキャリアを歩み始める。

事情が事情だったので、出来の悪いアルバム扱いされた『オデッサ』だが、本当にそうだろうか?

答えはイエスであり、ノーである。イエスというのは、結局、彼らの狙いは実現されなかったから。ノーというのは、『オデッサ』は魅惑的なバロックポップのアルバムで、美しいストリングスが聴かれ、素晴らしい曲が入っているから(ものうげでポップなオーケストレーションの「You’ll Never See My Face Again」やマッカートニーとホリーズの中間あたりぴしゃりとはまるメランコリックでさりげない「メロディ・フェア」は最良の曲に数えられるだろう。ひとあじ違う「日曜日のドライブ」もある。ビー・ジーズのメロディ・メイカーとしての才能を疑う人は3曲入っているインストゥルメンタル曲を聴いてみればいい。たしかにMOR系で、ところどころ映画っぽく、『バウンティ号の反乱』風ではあるのだが、どれもドラマチックな魅力がある。

「I Laugh In Your Face」のサイケデリックなイメージの中には人間ビー・ジーズの苦渋がのぞいている。「Never Say Never Again」はビー・ジーズとレノンの合体といったところか(「君が別れを告げ、僕はスペインに宣戦布告する…」)。

続いて出したロビンのソロヒット「救いの鐘」やソロアルバム『Robin’s Reign』(訳注 筆者のリードさんはRobin’s Reinと書いていますが、正しくはReignなのはご存じの通りです。当然だけど、意味が違うもんね)が好きだった人なら、(シングルにはなりようがなかった)「ランプの明り」で彼の繊細なヴィブラートを楽しめる。

「深いアルバムだろうと思われたんだよね」とモーリスは語った。「あそこの歌詞はどういう意味なの、とか、あれは何のことだったの、とかね。たしかにいろいろな面があるアルバムだ。

各国でチャート入りしたり、落ちたりしたけど、あのアルバムが僕たちの『サージェント・ペッパー』だという人も多い。僕たちにしてみれば…僕はあれが僕らの最高傑作だとは思わないな」

たしかに。

ビー・ジーズの最高傑作は、『メイン・コース』(75 )と『失われた愛の世界(Spirits Having Flown)』(79)以外では、『グレーテスト・ヒッツ』だという人もいるだろう。

けれども『オデッサ』はたしかに奇妙で多様で、時に息を飲むほど美しいけれど、ごた混ぜ感も強い種々雑多な曲の寄せ集めであり、ビー・ジーズの初期キャリアの劇的な終わりを告げるアルバムだったのである。

これは特に目新しいレビューではありません。情報としても新しいところはないですね。ビー・ジーズの最高傑作が『グレーテスト・ヒッツ』じゃないかという意見には、おおっ(ええっ)と思いつつ、なんかそういう意見があるのはわからなくもない気がする、というところがなかなか複雑ではあります。個人的には『メイン・コース』も『スピリッツ』も完成しすぎているので、その前後のアルバム(『メイン・コース』で洒脱になる直前の奇妙に重たい『Mr. Natural』とか、ファルセットに傾きすぎた『スピリッツ』の後の『リヴィング・アイズ』とか)の方が好きだったりします。

もうひとつ、アルバム『オデッサ』を語る上で日本独自の現象は、このアルバムが日本では映画『小さな恋のメロディ』のヒットと結びついていて、「メロディ・フェア」や「若葉のころ」の知名度は日本では抜群に高いということでしょうか。とにかく見事に映像とマッチして、あの映画でビー・ジーズに惚れ直した人も(あるいは恋に落ちた人も)多いはずです。「メロディ・フェア」がシングルになってラジオ局のポップスベスト10番組で何か月もトップを独走し続けた国ってきっと日本だけでしょう。これは誇って良いことではないでしょうか。

それからリードさんが例に引いている「Never Say Never Again」の「スペインに宣戦布告する」下りはソロ時代のロビンが、「バリーと歌詞作りのセンスが合わない」例に引いた、まさにその箇所でもあります。(「スペインに宣戦布告」を主張したのはロビンで、バリーはもっと「わかりやすい」表現にしようとしたそうです。この話はバーブラ・ストライサンドと一緒の『Guilty』で、バリーがバーブラの不満を押し切って独自の言葉遣いを主張した話を思い出させたりもします。その場合には「わかりやすい」表現を希望するバーブラに対して、バリーが「抽象的な言葉遣いによるインパクト」を主張したのでした。ギブ兄弟の書き手としての矜持が感じられるエピソードです)

{Bee Gees Days}

 

 

 

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