【1979年5月】米Feature誌アルバムレビュー『失われた愛の世界』

Feature誌1979年5月号より

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今年はアルバム『失われた愛の世界(Spirits Having Flown)』発表40周年。そこでFeverの頂点にいたビー・ジーズを取り巻く状況を知る意味でも、各誌(紙)にとりあげられたアルバム・レビューをシリーズでご紹介していますが、これは米Feature誌1979年5月号に掲載されたアルバム・レビューです。なかなかの力作なので、以下にざっとまとめてご紹介いたします。

意気盛んなビー・ジーズ 
ビー・ジーズたるべきか、たらざるべきか…ギブ兄弟の決断とは?

 

がぜん注目を集めているビー・ジーズ。だがその位置づけは、同じように大きな注目を浴びた他のアーティスト(ビートルズ、エルビス・プレスリー、スティーヴィー・ワンダー、ボブ・ディラン、バディ・ホリー)たちとはかなり違う。他のアーティストはみんな音楽的な業績と影響力が商業的な成功を上回っていた。ところがビー・ジーズの場合、そのキャリアは次の要素から成り立っている。1)サバイバルの手段として完璧な適応力を身につけた。2)良質のポップス・レコードを作った。3)『サタデー・ナイト・フィーバー』を3000万枚売った。そしていまや、出すレコード出すコード自動的にナンバーワン・ヒットになっている。  

さらに現在進行形の意義としては、ビー・ジーズがディスコを大多数のポップス・ファン向けに解釈してみせたという点がある。ストレートもゲイも、白人も黒人も、ロック信者もディスコ・ファンも、ビー・ジーズの音楽世界で一堂に会する。また、ギブ兄弟はディスコという“金脈”に大いなる影響をふるう一方で、ディスコ音楽そのものにはほとんど影響していない。末弟アンディ、フランキー・ヴァリ(おそらくビー・ジーズのそもそもの変身はヴァリのファルセットに影響されてのことだろう)やサマンサ・サングなどとの仕事を別にすれば、いわゆる「ビー・ジーズ・サウンド」は、すぐにそれとわかる特徴を持ちながら、ディスコ音楽の中では孤立した事例である。たしかに、数えきれないほどの人がビー・ジーズを好んでいる。けれども彼らの音楽は、かつて、今そうであるほど真剣に受け止められるべきものだったことがあるのだろうか。  

『失われた愛の世界』は、注目されまくっているというこのこれまでにない事態の中でビー・ジーズが作った最初のアルバムである。ギブ兄弟は、自分たちが置かれた独特な立場を知ってはいても、そのすさまじい人気に伴って寄せられる期待を無視することができなかったので、結果的にこのアルバムは、彼らの音楽とはいったい何なのかという質問に対する意識的な反応となり、その立場をさらに確固たるものにしようとする試みとなった。  

これがまたやっかいな作業なのだ。ポップ・ミュージックはこわれものだ。これほどの自己分析の重みで崩れるかもしれない。けれどもビー・ジーズは、あくまで慎重に、これを成し遂げている。アルバム『失われた愛の世界』はほとんど新境地を開くことがなく、曲もプロダクションも『メイン・コース』以来の王道を行っている。厳密で、軽やかとは言い難いディスコのビートにファルセットのハーモニーをのせて、スローナンバーはふるえるように。(実際、このアルバムは『サタデー・ナイト・フィーバー』より『メイン・コース』に近い) その洗練の過程のあれやこれやが、このアルバムに、不思議な、奇妙ともいえる個性を与えている。『失われた愛の世界』ポリウレタン・ポップの究極の完成形といって良い。まさに磨き上げられて傷ひとつない仕上がりぶりだ。ダンスのリズム、ロマンチックなバラード、ファルセット、シンセサイザー……ビー・ジーズ・サウンドのあらゆる側面が吟味しなおされ、磨きをかけられて、きらきらと輝く全体の中で各パーツがピカピカと光を放っている。これは感心な、楽しめる音楽だ……しかし、それも一定の距離を置いて、遠くから、ではあるけれど。  

ギブ兄弟は、懸命に気に入られようとする一方で、ここぞとばかりに見せつけてくる。チャンスあるごとに、それっとばかり、露骨に型通りの芝居っけが見えて、冷めた距離感を生む。これまではアクセント的に使われていたファルセットのリードとハーモニーが、いまやサウンドの中心部分になって、それが奇妙な効果を生んでいることも多い。比較的弱い曲などは、バリー・ギブのボーカルの離れ業を聴かせるためだけにあるようだ。ブルック・ベントン風の「ストップ」はファンキーになれる曲なのに、ヒステリカルでつんざくようなファルセットが曲の持つブルージーな雰囲気に合っていない。隙間という隙間がファルセットのハーモニーで埋め尽くされているのだが、気がかりなのはそこに人の声らしさが欠けていることだ。ビー・ジーズの声そのものがシンセサイザーで加工されているように聞こえるのだ。バリー・ギブのソロ・ボーカルはあまりにも両性具有的で、彼の持つセックス・シンボルとしてのイメージにそぐわない。ファルセットがもっとも効果的なのは、ディスコ調の曲「ラヴ・ユー・インサイド・アウト」「愛の祈り」、中でも「哀愁のトラジディ」だ。   

曲の設定と歌詞の内容がちぐはぐだったりもする。アルバム全体(特に「ラヴ・ユー・インサイド・アウト」と全体にゆったりした感じの「愛のパラダイス」)で、ボーカルのブリッジ部分のとんでもない狂奔ぶりは、歌われている感情と合っていないし、リズムの変化も『サタデー・ナイト・フィーバー』よりずっと狙った感じで、めちゃくちゃ手がこんでいる。そしてその結果として、人工的な印象がついてまわる。   

だからといって『失われた愛の世界』は決してとっつきにくいアルバムではない。「失われた愛の世界(Too Much Heaven)」を聴けば、ビー・ジーズが恋人たち向け音楽の達人であることは、またもや明らかだ。アルバムの大半はキャッチ―でクレバーな曲が占めている。「哀愁のトラジディ」はポップ・メロドラマとディスコ音楽のズンズンと来る響きを見事に合致させている。

ビー・ジーズに合わせて一緒に歌うのは大変そう(どの曲もファルセットで歌わないとキマらないし、ふつうの人間が血管の1、2本切らずにあれだけの高音で歌うのは難しい)だが、音楽そのものは強烈で、冷めた感じがある……と同時に心をなごませる。これほどがっぷりとポップ・ミュージックに取り組むのは危険だ。自己規定するどころか好き勝手のしほうだいになってしまう恐れがある。けれどもビー・ジーズは有能で不遜だ。かっこをつけることの限界にも気づいているのである。

(ジム・フェルドマン ―― Feature誌1979年5月)

なかなか辛口のレビューです。当時、ビー・ジーズ・ブームの頂点で発表されたこのアルバムのレビューは大きく次の2タイプがありました。

1)「だってみんなが大好きなビー・ジーズだもん」という感じで褒めちぎる。
2)なんとなくビー・ジーズを褒めるのはかっこ悪いというスタンスをとって、上から目線で、「まあ、所詮ビー・ジーズなんてこんなもんでしょ」という感じに(根拠のあるなしにかかわらず)叩く。

どちらもあまり真面目にこのアルバムを聴いていないという点では同じです。当時ビー・ジーズに関してあまり内容のないべた褒めの記事をゴマンと載せていたティーン雑誌が1)路線。一応、ロック系のジャーナリズムはわりと2)でした。その中で、この記事はレコード評“欄”とかではなく、まるまる1ページをこのアルバム評にあてて、辛口とはいえ、かなり丁寧にビー・ジーズを、アルバム『失われた愛の世界』を論じているという点に好感が持てます。 だけど、どうも筆者が別にビー・ジーズを高く評価してはいないことは言外に感じられはします。 あるいは評価している部分がずれている、と申しましょうか。

ビー・ジーズが「芸術的評価」と「売れ行き」のうち、売れ行きの方に大きく振れたグループだった(特に70年代後半のFever期には)という冒頭の分析は、なかなか面白い観点ではあります。が、筆者が続く段落で示唆している(と読める)ように、はたしてビー・ジーズはそもそも「真剣に聴く作品としての音楽」ではなく、「見事な技術力(職人力ともいう)」を駆使して売れることに特化したグループだったのかというと、そこがたぶん彼らが見誤られているところでしょう。

彼らの本質である(と私は思っている)「むき出しの魂の叫び」みたいなものがあまり理解されずに来たのは、彼らが「アーティストというよりは芸人」「芸術家というよりは商売人」であると見なされてきたことと無関係ではありますまい。

けれども、このジム・フェルドマン(寡聞にして知らん)という人以外にも、これから順次紹介していこうと思いますが、このアルバムに「冷めた印象がある」ととらえたレビューはロック系のジャーナリズムに多かった。技術的な分析は近くご紹介する予定のAlbumism(遅れていてすみません)の記事などにも詳しいですが、このアルバムが「冷めている」、つまりは「計算された人工的な感じがある」という意見には個人的には賛成です。

ひとつには、敢えていえば、このアルバムはボーカル的にはビー・ジーズのアルバム中で異例なまでに単調なもののひとつであると思う。バリーとロビンというふたりの個性豊かな才能あふれるリード・ボーカリストを、そしてモーリスという類まれなるハーモニー・ボーカリストを擁しながら、このアルバムではリードはほぼ完全にバリーのファルセットに限られます。 バリーのあの圧倒的な声量と表現力を誇るナチュラル・ボイスも、今風にいえばみごとなまでに「エモい」ロビンのボーカルも、軽やかな哀愁のあるモーリスのハーモニーも、このアルバムには不在で、ただただ「人工的に磨き抜かれた」感のあるファルセットだけが君臨しているといって過言ではありません。個人的には、特に、「ストップ」「アンティル」はバリーのナチュラル・ボイスで聴きたかったと初めて聴いたときからずっと思っています。

「ポリウレタン・ポップ」という言い方は初めて聞いたような気がしますが、なかなか言い得て妙。ポリウレタンといえば合成樹脂。人工的で美しい、けれど軽い。同時に明らかに「本物でない」という意図があると思う。この筆者は基本的にまじめにビー・ジーズ(というか、このアルバム)を聴いてはいるけれど、やはりどこか上から目線です。でもこのアルバムに限定していえば、ビー・ジーズのスタンスにも「ポリウレタン」と言われてしかたがない部分があったと思います。このアルバムの人工的な美しさには、どこかビー・ジーズの本質と相容れないところがある。これはイエロー・ブリック・ロードならぬ、ポリウレタン製の人造大理石が敷き詰められたある種の袋小路だったのではないか、とも思われます。

少なくとも、このアルバムが出た当時、それに近い印象を私は抱いていました。けれどもこれだけの時を経て聴きなおしてみると、やっぱりこれは力作ぞろいの美しいアルバムであることは間違いない。けれども傷のついたアナログ盤のように繰り返しますが、やっぱり私はこのアルバムでバリーのナチュラル・ボイスやロビンとモーリスの稀有の歌声をもっと聴きたかったと思います。この筆者が、「人の声が聞えない」と書いているのは意味深です。ビー・ジーズの真の魅力は、超絶ハーモニーでも、きれいなメロディでもなく――もちろん、どちらも一級品ですけど――て「人の声(人の心)」だったと私は思っているからです。

ついでながら、「ビー・ジーズがディスコに影響してない」という点についても、私はこの筆者と意見が違います。この点については昨年出た『サタデー・ナイト・フィーバー』の40周年記念盤に寄せた文章の中でRSOの社長だったビル・オークスがみごとにまとめていますので、ご興味のある方はご参照ください。

{Bee Gees Days}

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