【1978年8月】Circus誌インタビュー「”ステイン・アライヴ(生き残る)”のは簡単だ」

Circus誌1978年8月3日号より<クリックすると全体が表示されます>

 

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1978年夏、まさに燃え盛るFeverの渦中にいたバリー・ギブのインタビューをポップス・ロックのバイウィークリー誌『Circus』(1978年8月3日号)からご紹介します。

ちなみにこの号のカバー・ストーリーはボブ・シーガーとブルース・スプリングスティーン、「ワーキング・クラスのロッカーたち」の特集でした。17頁には最近バリーの曲「Seven Waves Away」を歌ったボニー・タイラーの記事も載っています。ちょうど「It’s A Heartache」が流行っていたころなのですね。

バリーのインタビューはカバーストーリーでこそありませんが、「独占インタビュー」ということで、表紙(カバー)右上にバリーの小さな写真が掲載されて、「バリー・ギブ、頂点での暮らしについて語る」と書かれていますから、注目の記事であったことは間違いありません。(だけど今見るとこの雑誌1冊たった1ドルなんですよね。ああ、もっと何冊も買っておけばよかったぜ!)

カラー写真4枚、白黒写真1枚入りの3ページの記事です。内容を以下に簡単にまとめてご紹介します。

「ビー・ジーズ ーー ”ステイン・アライヴ(生き残る)”のなんて簡単だ。問題は、新しい挑戦の場を見つけること」

 

いまや世界一ビッグなバンドのひとつとなったビー・ジーズは、もうアーティストとして認められたいとあくせく頑張る必要がなくなった。それよりこれだけの成功につきもののプレッシャーとの戦いが、今の彼らにとっての大問題だ。秋にはツアーが企画され(訳注 実際にはツアーは79年まで持ち越されました。NBCのテレビスペシャルになり、NHKでも放送された、いわゆるSpiritsツアーです)、9月にはスタジオ・アルバムの新作(訳注 これがSpirits Having Flownです)が出ることになっている。また、初の主演映画『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』も公開予定だ。そんなビー・ジーズのバリー・ギブが、自宅があってレコーディング中のマイアミから電話インタビューに応えてくれた。

サーカス誌(以下C): ビートルズ以来最大のグループというものすごい現象を前にしていかがですか? ちょっとすごいですよね。
バリー(以下B): ビートルズとの比較が妥当だとは思いませんが、これだけのペースでレコードが売れたので、まあ比較されるのはしかたないことなのかもしれません。これほどの成功は初めてなので、たしかにぼくたちもびっくりしています。この成功をプレッシャーに思わずに、変わらない気持ちで新作に挑むのは難しい。これまでは、ただアルバムさえ作っていればよかったんですけどね。今は『サタデー・ナイト・フィーバー』の成功については考えないようにするしかない。でもやれると思います。これまでの長い経験がありますから。
 『Main Course』の後で『Children of the World』をレコーディングしたときにもプレッシャーがありました。『Main Course』はアリフ・マーディンのプロデュースでしたが、『Children』はぼくたちビー・ジーズとアルビー・ガルーテンとカール・リチャードソンの共同作業だったからです。あのときは、ビー・ジーズが劇的な転換を遂げた質の高いアルバムに続く作品だというプレッシャーがありました。でもあのときもなんとかやれました。だから今回もやれると思います。とにかく良い音楽を、ということだけを考えています。
C: 『サタデー・ナイト・フィーバー』はアルバムとして史上最高の売上を達成するでしょうか。
B: 2700万枚売れるだけの市場があるわけだから、『フィーバー』もそれだけの数売れるだろうと思います。でも3000万枚の市場だってあるんだし、アメリカだけでも人口2億人ですからね。モノポリーは年間で800万セットの売り上げだそうじゃないですか。だからアルバムを3000万枚売るアーティストが出たら大騒ぎになるでしょうね。
C: フリートウッド・マックのようなマルチミリオンセラーとビー・ジーズの違いは?
B: なんだろ。ボブ・ホープはビング・クロスビーとどう違うんでしょうね? いろんなグループがいて音楽ビジネスが成り立っているけれど、ときどき、特定のバンドが大衆にバカ受けする。今年はそれがぼくたちだ。去年はフリートウッド・マックだったし、その前はピーター・フランプトンだった。
C: これまでのビー・ジーズの中に現在の大成功を予見させるようなものがありましたか?
B: ぼくたちにはずうっと、何か特別なことが起こるという予感がありました。だってぼくたちは初期の批評家たちに言われていたよりもずっと幅の広いグループなんだと自分でわかっていたからです。学校にいるころから、それはわかっていました。いつになるかはわからないけれど、何かできるとずっと思っていました。その予感が事実になるのをずっと待ちながら、忍耐強くレコーディングを続けてきました。新作レコードを出すたびに必ず誰かけなす人がいた。でもこれからも常に批評はつきものだろうと思います。ただ、批評家よりも大衆の方とつながっているべきだ。ぼくたちは大衆に向けて音楽を作っているから。大衆こそが真の批評家だからです。だから大衆に認められたいんです。
C: ビー・ジーズは強力な曲を書いては、またさらにその上を行く曲を書いてくる、という力があります。決して前より悪くなるということがない。曲の作り手として基盤ができていることが、あなたたちの成功の秘密じゃないでしょうか。
B: だと思います。ぼくたちは、まず第一にソングライターであって、第二にボーカル・グループであって、パフォーマーとしてのグループであるというのがそのまた次です。
C: あなたにとってヒット・ソングの構成要素というのは?
B: うーん、どの曲もみんな違いますよね。でも曲から絵が生まれるようでなくてはいけない。曲から感情が感じられなくてはならない。始まった瞬間から終わるまで、気持ちが入っていなくては。ぼくたちは聴く人が自分で想像力を働かせられるように曲を書いていますが、聴き手を入り込ませることができて初めてヒットになるのです。
C: アンディのヒット「シャドー・ダンシング」は4人兄弟の作品として発表された初めての曲でした。曲作りはどうやって?
B: 部屋に適当に座ってライティング・セッションをやるんですが、誰であれアイディアを出すと、その曲はその人間のものになるんです。それが4人のうちの誰かひとりということもあれば、4人全員ということもある。たいていは、曲のタイトルみたいに、全体のコンセプトから入ります。それからメロディのポイントとアレンジのポイント。どこで盛り上げて、どこで盛り上げちゃいけないか、みたいなことですね。それから歌詞について、曲の中の人物が何を言わんとしているのかについて話し合います。いつも歌詞が最後ですが、一番時間をかけるのも歌詞です。ソングライティングというのは実は本能の問題です。優れたソングライターか、ダメなソングライラ―か、というのは、教えられるものじゃない。
C: サマンサ・サングとのプロジェクトのようにこれからも外部と仕事をする予定はありますか?
B: いや、もう時間がありません。でもサマンサは素晴らしいアーティストで、この調子なら、適切なプロデューサーに恵まれれば、彼女のキャリアは順調だろうと思います。前進あるのみと思いますよ。
C: でもアンディとの仕事は続けるのですよね?
B: ああ、もちろんです。それは家族のことなので。
C: どうしてヘヴィ・メタルをやろうとは思わなかったんですか?
B: 大音響のエレクトリック音楽というのは好きじゃなかったんです。曲の中に”美”があってほしいんです。
C: パンクロックをどう思いますか?
B: 別に反対ではありません。ただ、音楽にバイオレンスが入るのは好まない。いろいろな音楽があるというのは健康なことだと思います。ただステージで極端な行動をとったりするのはどうかと思います。それではショービジネスの一線を越えてしまうと思いますね。
C:ドラッグはやりますか?
B: 大麻はときどきやりますが、コカインのようなハードドラッグは避けています。今やコカインは音楽業界にとって脅威だと思います。ストリートでもオフィスでもコカインをやっている人がいるけれど、コカインは創造性も健康も破壊して、敵意を生む。コカインのせいでダメになる人をあまりにも大勢見てきました。
C: 映画『Sgt. Pepper』はあなたたちのキャリアを助けると思いますか?
B: ぼくたち、「“(笑)付き”の映画スター」になるんでしょうね。ほら、それだけのキャリアがあるジョージ・バーンズやドナルド・プレザンスみたいに映画スターとしてやってきたわけじゃないじゃないですか。俳優として認められるようにがんばらないと。来年はビー・ジーズとしてもう一本映画をやる計画があるんですが、まだ脚本の人たちとあれこれアイディアを出している段階です。でもこれはすごく微妙な問題なので慎重を期したいと思っています。単なるモンキーズの焼き直しみたいになることは避けたいんです。
C: これから音楽業界で仕事をしていこうという若いアーティストへのアドバイスはありますか?
B: ちゃんとした弁護士を雇いなさい。自分の才能を信じて、弁護士のいうことをよく聴きなさい。自分のレコードや出版関係は必ずきちんと取り扱ってもらうようにしなさい。顧問弁護士は法律上、こちらの味方です。生き馬の目を抜くような業界ですから、そもそもの最初から搾取される構図にならないように。チャンスさえあれば、こちらを生き埋めにしようと手ぐすね引いている連中がいます。この業界には天使もいますが、悪魔もいっぱいいるんです。

(Stan Soocher)

ほんの3ページ、しかも実際には写真がかなりのスペースを占めているので、2ページ弱ぐらいのインタビューなのですが、書いたのが名高い音楽ジャーナリストだけあって、質問も核心をついているし、まとめ方も適切で、読み応えがある内容です。ビー・ジーズの中では一番「外交術に長けている(=本心を見せない)」といわれるバリーを相手にかなり本音に近いところを引き出しているという感じがありますね。

いちばん最後の質問に対するバリーの答えは、ビー・ジーズがキャリアのそもそもの出発点から、「マネージャーが雇い主だった」という独特なパターンで活動したことにも関連しており、後の対スティグウッド訴訟にもつながっているという印象です。要するに、レーベルに対してアーティストの取り分が少しでも多くなるように交渉するのがアーティストのマネージャーであるわけですが、ビー・ジーズの場合は、レーベル(RSO)のオーナーが彼らのマネージャーでもあったというジレンマぶくみの構造です。この辺の「不公平感」については、すでに60年代末にコリン・ピーターセンが言及しています(そしてクビになっています)が、彼らが異常なペースで稼ぎ出した70年代後半からマネージメントとの間にある種のテンションが生まれていたことは想像に難くありません。

同時に、「自分たちにはもっと引き出しがある」と信じて、「必ずもっとすごいことができる」と頑張り続けたというあたりは、Fever後に彼らが辿った道を知っていると、よりいっそう心に刺さる発言です。

また、同じころにビー・ジーズに取材して、ローリング・ストーン誌のカバーストーリーを書いたジャーナリストのティモシイ・ホワイトもやはり、ビー・ジーズが自分たちの仕事を「ショービジネス」と呼んでいる、という点を指摘しています。ロックでもポップスでもなく、「ショービジネス」という独特の言い方は、オーストラリアでの子ども時代からそのビジネスの中で文字通り「食べてきた」3兄弟の実感でしょう。それがこのビー・ジーズというグループの独特な立ち位置でもあります。彼らは、なんというか、本当にワーキングクラスで、よくも悪くも自分たちの仕事に対するプロ意識(その仕事で食べていく(=売れていく)という決意)を抱いていたのですが、同時にアーティストとして「売らんかな主義」にも対抗し続けたという、矛盾を内包したバンドでもありました。この「売らんかな主義への抵抗」については89年の来日時にバリーと話したことがあるので、いつか機会があれば書きたいと思います。

それから、バリーがここで「絵が生まれる」ような曲という言い方をしていますが、実は個人的にはずっと、この強い「イメージ喚起力」こそがビー・ジーズのもっとも大きな特徴のひとつではないかと思っていました。彼らが『サタデー・ナイト・フィーバー』と『小さな恋のメロディ』という2本の映画との関連で大ヒットを飛ばしているのも、この「絵になる」特質があるからではないかと思います。例えば国際デビュー曲になった「ニューヨーク炭鉱の悲劇」でも、「炭鉱事故があって人が生き埋め状態になり、必死の救出作業が続いている」という状況説明はどこにもなく、「救出を待つ人のひとりがたり」という状況のど真ん中で歌は終始します。この辺はまるで映画を観るようです。ビー・ジーズの歌を聴くたびに、そこにはびっくりするほど適確に、かつ曖昧に、”場”の感覚が歌いこまれているのを感じます。ロビンの『救いの鐘』ボックスセットには、こうした典型的な「イメージを結ぶ歌」が入っていると思うので、それについても近く書いてみたいと思っています。

それにしても映画といえば、ここでバリーが話題に出している映画もとうとう実現しなかったのも非常に残念です。

{Bee Gees Days}

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