【2019年11月】全米1位(77年8月)アンディ・ギブ「恋のときめき」を検証する

ビルボード誌チャートに基づいて歴代ナンバー・ワンになった曲を全て(!)順次論評していくというStereogumサイトの名コラム「The Number Ones」。

今日は1977年7月30日から4週間にわたってナンバー・ワンに輝いたアンディ・ギブの米デビュー・シングル「恋のときめき(I Just Want To Be Your Everything)」を取り上げた2019年11月19日の回の内容をざっとまとめてご紹介します。筆者Tom Breihanの分析と舌鋒はあいかわらず小気味よい鋭さです。

1977年8月16日午後、エルヴィス・プレスリーの恋人ジンジャー・オールデンは、メンフィスのエルヴィス邸グレースランドでバスルームの床に倒れている彼を発見した。反応のないプレスリーに対して救急隊員は蘇生措置を試みたが効果はなかった。数時間後、地元メンフィスの病院でプレスリーの死亡が確認された。42歳であった。メンフィスで行われたプレスリーの葬列には、数万人のファンがひと目見ようとつめかけた。2週間後、プレスリーの遺体を盗もうとした3人の男が逮捕された。

当時、メンフィスの検視官はエルヴィスの死因は心不全によるものでドラッグとは無関係であると発表した。これは嘘だった。(ドクター・ニックの名で知られていた)エルビスの主治医ジョージ・ニコポウロスは痛み止めをはじめ数々のドラッグでエルヴィスをクスリ漬けにしていたのだ。プレスリーのライヴショーは晩年にも大盛況だったが、ステージ上のプレスリーはぼうっとして何が何だかわかっていないような状態だった。コンサートをしていないときのプレスリーは引きこもりに近く、グレースランドにとじこもっていた。21年前、世界にデビューしたころの生命力にあふれたカリスマの姿はそこにはなかった。

1956年、セックスと毒気の化身のような姿で全米のステージに登場したエルヴィス・プレスリーは、音楽という枠組みをはるかに超えた大きな存在として、世界中の文化に全面的に影響した巨大な波のようなムーブメントの担い手だった。プレスリーは、彼自身が魅力的な音楽を作ろうという努力さえしなくなってずいぶん経ってからも、何年にもわたってポップ・チャートで人気を誇り続けた。だが、その彼も亡くなる前の5年間ほどは、チャートでも目立たない存在になっていた。

70年代のポピュラー音楽はプレスリーが人気の一翼をになった刺激的で性的な絶叫から遠ざかった。(プレスリーも遠ざかったひとりだったが、彼は別の方向に向かって遠ざかったのであった)プレスリー最後の年にヒットしていた曲は、プレスリーには奇妙なものと感じられたことだろう。考えてもみてほしい。プレスリーが亡くなったそのときに全米ナンバーワンだった曲は何か。みずみずしく優雅なこの愛の歌は、ポスト・エルヴィス時代に生れ育った19歳の若者によってハイトーンで歌われていたのである。。

1958年、アンディが生れた年に一家はそろって英国のマン島からオーストラリアへ(訳注 実際にはマンチェスターからオーストラリアへ)移住し、年の離れた3人の兄たちはバンドを結成した。(アンディはバリーより12歳若く、ふたごのロビンとモーリスより11歳若い) (訳注 これだと普通に計算してバリーとふたごは1つ違いになりますが、実際には3歳違いなので、アンディとの年齢差も計算してみてください(<手抜き))このバンドが、むろん、後のビー・ジーズである。アンディが9歳のときに、一家は英国に戻り、兄たちは最初のヒットを飛ばす。子どもだったアンディが学校から帰ると、家にはキャーキャーいうファンの群れが押し寄せていたそうだ。アンディにとってはこれが日常になった。

ビー・ジーズがスターダムにかけあがるなか、アンディと両親はスペインのイビサ島に引っ越した。13歳だったアンディは学校からドロップアウトし、兄たちの曲をカバーしたりして地元のナイトクラブで歌い始めた。以降もアンディはあちこち移り住んでいる。マン島へ戻ったり、16歳でオーストラリアへ行ったり。兄のバリーが、オーストラリアは歌手としてのアンディにとって鍛錬の場になると考えたのだった。オーストラリア時代のアンディは、2つほどのグループと演奏したり、結婚したり、最初のシングルを出したりした。1975年の「ワーズ・アンド・ミュージック」である。(このシングルはオーストラリアだけで発売されたが、特に話題にもならなかった)

ビー・ジーズのマネージャーだったロバート・スティグウッドはアンディのデモ・テープが気に入ってRSOレーベルに迎え入れた。そこでアンディは1976年にマイアミに移り、兄たちと仕事をし始める。ビー・ジーズがホットだった時代であり、しかも無限大に近い商業的成功期も目の前に迫っていたこのタイミング。アンディ・ギブはすごい掘り出しものという感じだったろう。スティグウッドにすれば、ティーンアイドル風のルックスがあって、多かれ少なかれ兄たちのように歌も歌えるビー・ジーズの弟くんの登場である。アンディは直ちにバリーと仕事にかかった。バリーの方には曲のスペアがあった。

バリー・ギブは世界の大半の人が聞くことになるアンディ・ギブの最初のシングル「恋のときめき」を、畏敬の念に打たれたアンディの目の前で、10分ほどで書き上げてみせた。バリーはこの曲でバックアップ・ヴォーカルを歌ったほか、ビー・ジーズのコラボレーターであったアルビー・ガルートンとカール・リチャードソンとともにプロデュースも担当した。アンディは「恋のときめき」をマイアミのクライテリア・スタジオで録音したが、ちょうど同スタジオではイーグルスがアルバム『ホテル・カリフォルニア』を仕上げているところだったので、ジョー・ウォルシュが来てこの曲でギターを弾いている。もっとも聞いてもウォルシュだとはわからないが。

バリー・ギブがこれほどかかわったのだから、「恋のときめき」がかなりビー・ジーズっぽく聞こえるのも当然である。おそらく、これは偶然でもなんでもない。アンディはこの曲を、この世のものとも思えない鼻にかかったささやき声で歌っているが、これまたギブ兄弟にしか出せないサウンドなのだ。この曲もまた、ビー・ジーズのトレードマークとなった、滑らかで心地よいライトファンクと同じタイプの曲である。しかし同時にこの曲は、ビー・ジーズが作っていたものとはちがう、純情な夢見る瞳のラヴソングであった。

いろんな意味で、「恋のときめき」では、バリー・ギブが持てるノウハウを活かして、ビー・ジーズよりはアンディに似合うティーン・アイドル風の心地良い曲を書いたということになる。これはまことに賢い動きであった。実際のビー・ジーズはちょっと毛深すぎる、大人でありすぎると感じたであろうアメリカの女子高生たちにとって、もろティーンエイジの”ビー・ジーズのおまけ”が出現したのだ。

本コラムにこれから何曲も登場することになるマックス・マーティンに「音楽算数」という概念がある。いや、そんなに難しい話ではない。マーティンにいわせれば、曲の歌詞は何よりもメロディに寄り添うべきものだ。マーティンにとって曲とは言葉を通して思いや情熱を伝えるものではない。むしろ、言葉は音楽の一手段に過ぎない。だからマックス・マーティンの曲には、わけのわからない、ありえないような、文法を無視した言い回しが多いのだ。マーティンは実際の言葉にはさして意味がないと思っているのである。マックス・マーティンが登場する何十年も前にバリー・ギブはこのコンセプトを実践していたのだ。

「恋のときめき」は、いろいろな意味で、典型的なラヴソングである。アンディ・ギブは、ねえ、君にくびったけだよ、君といられないなら死んじゃうよ、という。これが基本だ。それでいて、バリーはこのシンプルで凡庸な概念を表現するのに、まことに奇妙な言葉を選んでいる。「君の心の中にある天国の扉を開いて、ぼくをあやつり人形じゃなく、君がぼくにとってそうであるような存在にしておくれ」 これは詩というよりはたわごとである。歌詞という面では、この曲はぎごちなくて無理がある。ほとんど意味をなさないのだが、そんなこと問題じゃない。言葉が曲に合っているのだ。

音楽的には、「恋のときめき」は、この時代のビー・ジーズの最良の曲に比べて、流れるような圧倒的魅力という点では及ばないが、真のグルーヴを備えている。ディスコのフロアを埋めるような曲というよりミッドテンポのランニングソングだが、やはりビートに重点がある。冒頭、完璧なドラムロールがちょっと入ったかと思うと、シンセがドラマチックに盛り上がって、さて全てが始まる。グルーヴが生れると、ギター(ジョー・ウォルシュとセッション・マンのジョーイ・ムルシア)が肩の力が抜けた正確さで、交互にからみあい、バックのストリングスが感傷的なメロディをちょい奏でるが、曲を握っているのはこうした要素じゃあない。

アンディ・ギブ、彼が曲の最初から最後まで踊りぬけていく。やんわりとビートを押し戻しつつも、決してビートにさからうことはない。囁くような甘い声。生れながらのディスコ界の寵児。サビの部分でアンディとバリーがハーモニーをつけると、一挙に盛り上がる。「恋のときめき」は軽い恋のゲームのような曲である。当時のビー・ジーズの最高の曲にははるかに及ばない。が、アンディ・ギブのライバルであったティーンアイドルたちが「ダ・ドゥー・ロン・ロン」みたいなクズを出していたことを考えれば、この曲はまさに天啓だった。「恋のときめき」はたちまちにしてアンディ・ギブをスターにし、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったビー・ジーズ帝国の一員とした。アンディは今後もこのコラムに登場する。

採点:10点満点中の6点。

まさに忖度なしにぶった切るという感じのこの「Number Ones」、異論がないわけではありませんが、毎回しみじみ感心してしまいます。個人的には、ビー・ジーズについて書いている音楽評論家の中で、このアメリカのトム・ブレイハンとイギリスのガーディアン紙のアレクシス・ペトリ―ディスがいちばん好きです。

というわけで、次にはペトリ―ディスが今年の1月に発表した「ビー・ジーズの名曲40選ランキング」をご紹介しようかと思っています。こっちもなかなか面白い!

さて、上の記事の中で問題は「ビー・ジーズの歌詞にはたいした意味がない」というよくある意見に賛同しているように思われることでしょう。で、これを「ビー・ジーズの歌詞にはたいした意味がないものもある」と言い換えてみようかと思います。たしかにアンディのこの曲などはその典型的な例といえるでしょうか。

同時にビー・ジーズには、「意味がないように思われるけれど、実は独特のセンスで書かれていて、独自の世界を築いている」歌詞もあるので、この両者を混同しない方が良いと思います。

つまり、ビー・ジーズには、1「なんだかよくわからないけど、たいして意味もない」歌詞と、2「なんだかよくわからないけど、深い意味が感じられる歌詞」があるのです。そして同時に3「万人の心の琴線に触れる抒情的で美しい歌詞」というのなどもあるわけです。1の例としてはこの「恋のときめき」、2の例としては「ホリデイ」、3の例としては「イン・ザ・モーニング」あたりをあげておきましょうか。しかも、1の系列の曲の中にも「ぐさっと刺さる」言葉があったりしますから、「どうせビー・ジーズの歌詞には意味がないんだし」などとゆめゆめ言ってはいけませんぜ!

それからこれは鋭い指摘なのは、この第何番目かの黄金時代に、ビー・ジーズは流行っていたけれど、60年代末と違って彼ら自身がすでにアラサーになっており、「ティーン向けのアイドルとして売るには無理があった」という点です。そこに個性も年齢もその枠にぴったりとはまるアンディが天からのたまもののように登場したのです。そのタイミングが、エスタブリッシュメントの聴き手の価値観を揺さぶったエルヴィスの死の週だったというのは、確かに文化史を語る上でと象徴的といえる出来事です。

それからもうひとつ、この曲、邦題は秀逸であったと思います。アンディはまさにときめきのように軽やかに表舞台に躍り出たのでした。

{Bee Gees Days}

 

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