映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に関する事実いろいろ

このスーツ、黒いものになる予定だったとか

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アメリカ公開40周年を記念してMentalfloss.comに掲載された記事「映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に関するびっくりするような14の事実」(オンライン版2017年12月17日付)。よく知られている事実もあれば、「へえ~」な事実もあります。

ので、以下に簡単にまとめてご紹介します。

歩き方見りゃわかります。あなた、『サタデー・ナイト・フィーバー』ファンですね……っというわけで、『ブラック・スワン』(2010年)と『マジック・マイク』(2012年)に抜かれるまで、ダンス映画史上最大のヒットだったこの映画の40周年を祝して、おもしろい事実をいろいろとリストアップしてみることにする。さあ、君の君の君のブギー・シューズを履いて読んでね!

1. PG版もあるって知ってた?

1977年12月に公開されるやいなや映画『サタデー・ナイト・フィーバー』は年間屈指のヒットとなったわけですが、これのどこがすごいかというと、これがR(成人)指定だったから。つまり、普通に考えてディスコ映画のターゲットになりそうなティーンエイジャーは観られなかったわけ。そこで1979年3月にPG版が封切られ、禁止用語や暴力的な場面、性的な場面などはカットされたり、トーンダウンされたりしました。そこでさらに890万ドル分の売り上げ増(2016年の映画のチケット代に換算して約3000万ドル)となり、米国内での興行収入総額は9420万ドルに。両バージョンともVHSとレーザーディスクで発売されましたが、R指定版が広く入手可能になったのはDVD化以降だそうな。

 

2.雑誌の記事を元に作られた映画だけど、記事の方はほぼフィクションだったことが後に判明

1976年6月、英国人ジャーナリスト、ニック・コーンが都会のティーンエイジャーの新風俗についての記事「新しい土曜の夜の部族儀式」をニューヨーク・マガジンに発表。記事の中心人物は「ベイ・リッジきってのダンサー」だというヴィンセントなる若者。映画化にあたって名前がヴィンセントからトニー・マネーロに変更されました。つまり主人公。ところが後年ニック・コーンが実はこのヴィンセントなるキャラは「実在しない、完全にでっちあげ」だったと発表。コーンが描いた生き方そのものは本当だったけれど、ヴィンセントというキャラは彼の想像の中にしか存在しなかった、ということだそうです。当時のコーンはブルックリンでは新参者で、様子がよくわからなかったので、ヴィンセントというキャラは60年代のロンドンで知っていたモッズ族の若者像をモデルに書いたのだそうです。

3.ビー・ジーズはタッチしてなかった

製作者のロバート・スティグウッドがビー・ジーズに曲を提供してくれ、と依頼した段階で、映画はもうほとんどできあがっていたそうな。当時、それなりに成功していたギブ兄弟は、次のアルバムの仕事にシャカリキになっている最中。どんな映画なのかも良く知らずに、それから数日以内に数曲を仕上げました。さらに、「ステイン・アライヴ」などすでに作りかけだった曲も映画に使ったら、ということになり、冒頭のトラボルタが歩く場面の撮影に間に合わせてデモを仕上げたのだそうです。(ほら、トラボルタの歩き方が音楽にあってるでしょ?)映画を代表する曲は後で出てきたとすると、ダンス場面の撮影にはどんな曲が使われていたのか? トラボルタによれば、キャストはボズ・スキャッグズとスティーヴィー・ワンダーとかを聴いておったらしい。

4.記録破りのサウンドトラック

米国内だけで1500万枚も売れた『サタデー・ナイト・フィーバー』は15年後に『ボディガード』に抜かれるまで史上もっとも売れたサウンドトラックでした。またグラミー賞のアルバム・オブ・ジ・イヤーに輝いた唯一のディスコ・アルバムでもあります。サウンドトラックとしても、『サタデー・ナイト・フィーバー』以外でこのカテゴリーで受賞したのは『ボディガード』と(コーエン兄弟の)『オー、ブラザー!』のみ。1978年の最初の半年間、ビルボードのアルバムチャートのトップに座り続け、ディスコは死んだと言われてからも、あとあと1980年3月までチャート内にとどまって長い人気を誇りました。

5.ディスコの《寿命》を延ばした映画と言われています

ディスコは1970年代半ばにはすでに人気でビルボードのチャートに複数のディスコ・ヒットが登場していたほど。けれどもこの映画が封切られた1977年末にはすでにディスコは退潮気味。ところがこの映画とサウンドトラック・アルバムのおかげで、ディスコは完全に廃れてしまうどころか、それまで以上の人気を得て、メインストリームとなり、アメリカの中間層にまで広がったのでした。

 

6.ロッキーとの因縁

まず、当初の監督に予定されていたのが映画『ロッキー』のジョン・G・アルビドセン監督。結局、うまくいかず、撮影開始の数週間前にジョン・バダム監督が後任に据えられました。次に、トニーの部屋の壁にはロッキーのポスターが貼ってあるんですね。そして第三の因縁は1983年に作られた続編『ステイン・アライヴ』の監督が…シルベスター・スタローンその人だったことです。

7.トラボルタ人気のせいで撮影は大変

『サタデー・ナイト・フィーバー』によって映画スターとして躍進したトラボルタですが、当時すでにテレビ番組『Welcome Back, Kotter』の不良役で人気アイドル。「鼻の穴にゴムホースつっこんでやるぜ」というのが決めゼリフだったそうな。けれどブルックリンの路上で撮影が始まってみるまで、その人気ぶりのすごさを誰も予見していなかった。「トラボルタが来ている!」という情報が広まるやいなや、歩道には見物人が何千人もあふれました。大半はキャーキャーいうティーンエイジャーの女の子たちでした(でもバダム監督によれば、『トラボルタなんかきらいだ!(ひとりだけモテやがって)』と書いた紙を持った男の子もたくさんいたとか)。

共演したドンナ・ペスコウは、「ファンがジョンに群がってすごかったのよ。見ててこわかった」。バダム監督は「撮影初日の昼ごろには、もう撮影を諦めた」そうです。群衆を遠ざけるのも(静かにするのも)無理な話だったので、以降の撮影は深夜か早朝に行われました。

8.トニーと仲間たちがステファニーを連れてホワイト・キャッスルで騒々しく食事するシーンに登場するのは俳優ではなく、実際の店舗スタッフ

監督は「普段通りに仕事しててください」とお店の人に告げる一方で、俳優たちには「自分の判断で何をしてもいいから、ハチャメチャなことをして店舗スタッフを驚かしてみてくれ」と指示。劇中、スタッフが驚いている場面はジョーイがテーブルの上に立って吠えていることに対する反応みたいに見えますが、実はあれは「(ポール・ペイプ演じる)ダブルがズボンをおろして半ケツしたから」だそうです。

9.カレン・リン・ゴーニイがヒロイン役を射止めたのは運よくタクシーで相乗りしたから

キャスティングが難航したのがトニーのダンス・パートナーであるステファニー役。何百人もオーディションしても「これは!」という人を見つけられずにいました。当時32歳だったカレン・リン・ゴーニイはブレイク前の女優。たまたまタクシーを相乗りしたのがロバート・スティグウッドの甥御さん。伯父さんが映画を製作中と聞いて、いつものジョークで「で、わたしの役は?」と訊いてみました。そこで甥御さんの推薦があって、結果はご存じの通りです。

10.撮影中にトラボルタのガールフレンドが亡くなりました

テレビ番組『プラスチックの中の青春』でトラボルタの母親役を演じた女優のダイアナ・ハイランドさんとは女性の方が18歳年上のカップルとして話題を呼びましたが、交際6か月でハイランドさんが乳がんで死去。41歳でした。トラボルタは撮影を一時中断してロスに飛び、彼女と最後の時間を過ごしてから、また撮影に戻りました。

11. 使用許可がおりなかった曲の代わりを大急ぎで準備

映画が始まって30分ぐらいでトニーとステファニーがリハーサルをするシーンがありますが、バダム監督はここでボズ・スキャッグズの曲「Low Down」を使用。この曲が背景に流れる状態でセリフ入りの撮影もすんでいた(これ、実はやってはいけないことだった…というのがなぜかは以下を読んでください)のですが、実は作業完了後にスキャッグズ側から、「やはりこちらでもディスコのプロジェクトを考えていてそっちで使いたいので、そちらは『Low Down』はあきらめてください」と言ってきたのだそうです。そこでセリフも録り直しになっただけでなく、画面上の踊りのふりつけとテンポにあった曲が必要になりました。幸い、コンポーザーのデイヴィッド・シャイア―が条件通りのインストゥルメンタル曲を書いてくれたので、劇中ではその曲が使われています。

12.振付け師が日程を勘違いしていたので、トラボルタたちが思いつきのダンスを踊った!

リハーサルのシーンはもうひとつ、映画が始まって55分ぐらいのところにも登場します。ここでトニーとステファニーが踊るのはタンゴとハッスルを組み合わせたような”タンゴ・ハッスル”ですが、これは実は必要に迫られてふたりで考えた踊りなのだそうです。振り付け師が撮影日程を誤解していて、その日は来なかったので、その場で考えたのだとか。この“タンゴ・ハッスル”、残念ながら、あまり流行らなかったんですけどね。

13.トニーのあの有名な白いスーツは実は黒いスーツになるはずだった!

トラボルタもバダム監督も、トニーがディスコで着る衣装は黒だと思っていたそうです。当時、男性のスーツはだいたい黒だったんだそうです。ところが衣装デザインを担当したパトリツィア・フォン・ブランデンスタインが衣装は白にするべきだと主張。ひとつにはトニーの“光”を目指す成長の過程を象徴するから、という作劇上の意味づけとして。もうひとつ、もっと実際的な理由としては暗いディスコの中で黒いスーツを着るとよく見えないから、だそうです!

14. 映画中でトニーが着用したスーツはその後2000ドルで売られ、それからさらに145,000ドルで売られた!

衣装デザイナーのフォン・ブランデンスタインはブルックリンの安物男性衣料品店にトラボルタを連れていき(当然、店はファンに取り囲まれたそうな)、吊るしの白いスーツを買いました。それも同じのを3着。トラボルタの汗でスーツが汚れても撮影を中断しないですむようにするためだそうです。そのうち2着は撮影終了後に行方不明になったそうですが、最後の1着にはトラボルタがサインして1979年のチャリティ・オークションで『サタデー・ナイト・フィーバー』を高く評価していた映画評論家のジーン・シスケルが購入。そのときの価格は約2000ドルだったそうですが、1995年になってシスケルがこのスーツをクリスティーズのオークションにかけたときには145,000ドルで売れたそうです。

その後、2012年にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のキュレーターが持ち主をつきとめ、ハリウッド映画の衣装展への貸与を認可してもらいました。現在はまたその持ち主の手に戻っている模様です。(バダム監督は2002年版DVDの特典映像で「このスーツは現在ではスミソニアン博物館に展示されている」と発言し、その後他の雑誌などにその由が掲載されましたが、これは監督の思い違いでしょう。スミソニアンのカタログにこのスーツが載っていないだけでなく、2007年にワシントン・ポスト紙に掲載された記事によれば、スミソニアン博物館の「欲しいものリスト」にこのスーツが入っているということです)

バダム監督って、なかなか面白い人みたいで、7月に発売される日本の40周年記念盤でもなかなか面白いコメントをしていますが、同時にけっこう思い違いが多い人みたいですね。インストゥルメンタル曲などを提供したD・シャイアーとはエール大学で一緒だったそうです。そうか、ふたりともエリートなんだ!(エール大学といえばアメリカでも名門中の名門ですな)

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