バリー・ギブ「後悔と自責と孤独感と…」デイリーメール紙長文インタビュー(2013年7月4日付)
イギリスに滞在していたバリーがデイリー・メール紙(オンライン版2013年7月4日付け)の取材に応えて現在の心境を語りました。ロビンの家族が計画中と伝えられる追悼式に参加する意思がないことなど、今回初めて明かされた事実もあり、以下に簡単に内容をまとめてご紹介します。バッキンガムシャー州ビーコンズフィールドにあるバリーの自宅で行われたインタビューです。
弟たちを失って一番苦しいこと? 「仲違いをしたままに行かれてしまったことです」 ロビンとモーリスを失って「ぽつんと残された心境」を、その自責と後悔の念、孤独感をバリー・ギブが語った ――デイヴィッド・ウィッグ
ビージーズ最後のひとりとして初めてステージに立ったとき、バリーを奮い立たせたのは「弟たちの死を思ってくよくよしていてはいけない。立ち上がって音楽に取り組むべきだ」という妻リンダの言葉だった。それでも寂しさに変わりはなかった。
「まずモーリスが、そしてロビンが行ってしまった、もう隣りに立ってはいない、と思うと、ぽつんと残された気持ちになりました。右を見ても左を見ても、ふたりはいない。
2003年にモーリスが、去年ロビンが亡くなり、ぼくも家族も心に深い傷を負いました。1988年にはソロアーティストだった末の弟アンディをなくし、その後まもなく父ヒューも亡くなっています。
ロビンを亡くしてすっかり鬱になってしまい、もう何もかもどうでもいい、という気持ちになった時もあります。けれどもリンダに励まされて(今年2月に)オーストラリアでステージに立ったことが、結果的にぼくを元気づけてくれました」
ギタリストである長男スティーブンとモーリスの娘で歌手のサミーを同行して「家族」のツアーにしたのも悲しみをやわらげることになった。
「今はやっとまた日がさしてきた、という気持ちです」
バリーは音楽活動に対して生涯功労賞を受けるために元ミス・エジンバラであるリンダ夫人と共にマイアミから飛んできた。昨年6月のロビンの葬儀以来初めてのイギリス訪問である。
「今は元気です。去年の今ごろはロビンのことがあって本当に苦しかった。愛する人を死によって失う経験は誰も避けて通れない。なんとか折り合いをつけ、立ち直るしかない。ぼくの場合、それはまたステージに立つという形をとりました」
特に悲しいのは、モーリスともロビンとも最後の何年かはうまくいっておらず、「親しいとはいえない」状態だったことだという。
「弟たちを失ったというだけではない。仲違いをしていたという事実が苦しい。うまくいっていない時期に3人とも死んでしまった。
モーリスが死んだとき、ロビンとぼくはもう自分たちがビージーズだという気持ちになれなかった。ビージーズというのはぼくたち3人のことだからです。
だからロビンは『ぼくはいつまでも変わらずビージーズのメンバーです』と言い続けてはいたけれど、本当の気持ちは違ったと思う。ロビンは”ロビン・ギブ”としてソロのアーティストになりたかった。ぼくは内心そう思っています。ぼくたちふたりの間には競争意識があった」
ロビンとは兄弟としてますます疎遠になっていたというのがバリーの実感だった。
「最後の5年間、ロビンとぼくには共通項がなくなってしまった。たぶんレノンとマッカートニーの状況が似たようなものなのではないかと思います。同じように距離ができてしまったんじゃないでしょうか。何か問題や障害があってもそれを乗り越えることができない。
悲しいのは本当の意味で別れの言葉を言えなかったことです。仲直りができたと感じられたのはただ一度、亡くなる前のロビンに最後に会ってロビンの頭にキスしたときです。
アンディが死ぬ前には会えなかった。モーリスのときも会えなかった。モーは2日で死んでしまった。あっという間で誰もにとって大変なショックだった。
ロビンの場合は2年間かかった。ぼくはああいう死に方はしないつもりです。もしああいう診断を受けたら、何か滑稽でおかしい死に方を考えようと思います。生命維持装置をつけてベッドに縛り付けられるなんていうのはいやだ。
だからロビンが死んだとき、ぼくは罪の意識と自責と後悔の念にさいなまれました。
もっといろいろできたはずなのに、ふたりともわかっていなかった。しないままに終わってしまったことがたくさんあった。ふたりの間の感情のしこりだって避けられたはずだった。みんな自分がスターになりたかったんです。だからぼくたちは本当の自分の姿がわからなかったんだと思う」
トレードマークだった長髪が白髪になったバリーはいまや66歳、ロビンは「肝臓がんと大腸がんを克服した」と言っていたけれど本当はもう助からないと知っていたのだと思う、と語る。
「ロビンがどれほど悪いのか1年ほど知りませんでした。それからマスコミに出る写真でロビンの姿を見るようになった。何か変だ、そう思っても誰も何も教えてくれなかった。
ロビンの家からは電話一本来なかった。たぶん、ぼくだってそうしただろうと思います。病人扱いは誰だっていやですからね。
でも事態がどれほど深刻かロビンも家族もわかっていなかったんじゃないかと思う。でもみんなぼくが知るよりも2年早く、少なくとも1年は早く知っていたんだと思う。
ドゥイーナが少しずつ話してくれるようになって、ロビンが死ぬ半年ぐらい前からはだいぶ率直に言ってくれるようになりました。
話は聞いていました。ロビンが病院に行きたがらない。ロビンが化学療法を受けたがらない。何か本当におかしいと思わせる兆候がそろっていた。
マイアミのぼくの主治医に新聞に載ったロビンの写真を見てもらいました。するとひと目見て、「早く行って弟さんに会いなさい」と言うんです。イギリスの誰も教えてくれないので予後について聞いてみました。すると医師の答えは「3カ月から6カ月でしょう。できるだけ早く会いに行くことです」。
イギリスに訪ねていったらロビンはとても衰弱している以外はだいじょうぶそうに思えました。いろんな話をして笑って、なんとなく仲直りもできた。少なくともふたり一緒で、話したり笑ったりできた。
帰るとき、ロビンは家の外に立って見送ってくれました。すごく寒い日でした。だからぼくは、「中に入れよ。免疫が弱ってるんだから」って言いました。でもまわりの人間はみんなロビンと一緒にそこに立っているんです。「中に連れてってください。ロビンが風邪をひいたらおしまいだ」と言ったんですが、実際、ロビンは肺炎になったんです。
ロビンが亡くなる直前に最後に会いに行ったときには、ロビンは酸素マスクをつけてうつらうつらしている状態だったので話はできませんでした。でもいつでも例のサムズアップをしてくれたものです」
ロビンが昏睡状態にあったときに、バリーはロビンのために書いた曲「The End of the Rainbow(虹の終わり)」という曲をロビンのために歌った。
「目は開かなかったけれど、反応はありました」。この曲はニューアルバムに入れる予定だそうだ。
ロビンがクラシックに挑戦した『タイタニック・レクイエム』がロンドンで上演されたとき、ドゥイーナ夫人と息子のRJは出席したけれどバリーはロビンの病室にとどまった。
「とても行けなかった。タイタニック号は1500人もの命が失われた悲劇的な出来事です。弟が亡くなろうとしているときに見る気持ちにはどうしてもなれなかった。どうしてもできなかった」
ロビンの死の知らせが届いたとき、バリーとリンダはマイアミの家に戻っていた。
「2日前に病院のロブと別れたところでした。息子のトラヴィスに孫のテイラーが生まれたのでそばについていてやりたかった。生と死という人生の両極端を体験した思いでした。
それなのに2か月前にはロビンと一緒にレコーディングしようというのがバリーの夢だった。
「ふたりで計画していたんです。でもふたりとも3人そろっていたときのような気持ちになれなかった。だからそれ以上話が進まなかった。計画を立てては止め、また立てては止め…その繰り返しだった。
ぼくたちは人生観が違っていたんです。ぼくは肩の力が抜けていて、これでいいや、っていうタイプ。
ロビンはいつもさらに多くを求め、認められたいと願うタイプ。ぼくはもうこれで十分だと思っていたのに、ロビンはまだまだやりたがっていた」
弟たちを失いというつらい経験を経て、バリー自身、健康には気をつかうようになったという。
「牛肉やマトンは食べないし、乳製品の量も減らしました。弟たちが不養生をするのを見てきましたからね。いろいろな意味でぼくたちは自分で自分を痛めつけるような生き方をしてきたと思う」
飲酒やドラッグのことですか?
「そうですね。他のグループのようにほんとにヘビーなものには手を出しませんでしたが、アイディアを出したりするために日常的に手に入るようなものには手を染めました。3人とも常にそうでしたね」
ビージーズの長男としてバリーは保護者役をつとめ、楽曲の版権やマスターレコードの管理を自分たちでできるようにしたりもした。
「モーリスは外交的で、ロビンは心配症でした。いつも心配してばかりいた。ぼくの役割は仕事をした分は必ず払ってもらうようにすることと、ぼくたちがちゃんとその場に集合して仕事ができる状態でいるように監督することでした。
「『頼むからロビンに髪をちゃんとしろって言ってやれよ』とか『ロビンに靴を磨けって言っといて』とか、いつも言ってました。
若いころは競争意識も激しかった。誰が一番人気があるか、誰が目立つか。グループはみんなそうです。ぼくたちも例外ではなかった。
その後、生きる上ではなんでも笑い飛ばすことが大事だと学びました。本質を見失わないこと。”おれが、おれが”という状態にならないことです」
末弟のアンディとは特に親しかったという。
「ぼくたちはふたごみたいでした。モーリスとロビンはほんとにふたごだったけど、アンディとぼくはふたごみたいだったんです。外見もけっこう似てたし、同じところにあざまであったし。
歌い方も似てて、とにかくすごく似た者同士だった。テニスをしたのもぼくたちふたりだけ。モーリスもロビンもテニスはしなかったけど、アンディとぼくは毎日のようにテニスをしていた。でもアンディはすごく顔が真っ赤になるので、変だなあと思っていたんです。『あまりプレイしない方がいいんじゃないか』って心配してアンディに言ったこともある。
当時から心臓が悪かったんでしょう。でも結局、長年の飲酒やドラッグがいけなかったんだと思います」
アンディは連ドラ『ダラス』のスターだったビクトリア・プリンシパルをはじめたくさんの恋人たちと浮名を流した。若くして成功をおさめた歌手として乱れた生活を送ったあと、アンディは母や兄のバリーがいるマイアミに居を移した。
「そのころにはまともな生活を送ろうとするようになっていたし、ぼくもアンディにきちんとした暮らしをするように気を配りました。結婚もしたばかりでしたしね。(キム夫人と愛娘のピータは現在はオーストラリア在住)
「アンディが死んで親友を亡くしました。父の死もアンディを亡くしたショックが原因だったと思います。
両親もぼくも一番近い人間としてアンディの力になりたかった。アンディがロビンの家で死んだとき、母はそばについていたんです。母はなすすべもなく、アンディが衰弱していくのを見守った。
いま、ぼくはひとりになってしまった。ひとりでやっていくしかありません。ぼくは自分がパズルの1枚か歯車の歯みたいな気がします。自分がするべきことをすることこそ、みんなのためになる、そう感じています。
母は93歳で、車椅子で生活しています。すっかり落胆して、弟たちの死から立ち直れずにいます。母を見ると心が痛みます。ぼくよりも母の方がずっとつらいと思います」
ノードフ・ロビンスの音楽療法に関してO2シルバー・クレフ・アワードを受け、生涯功労賞に輝いたこともバリーのやる気を再びかきたてる結果になった。
「子どものときみたいに、ステージに立ちたいという飢えに似た思いがあります。音楽はぼくの苦しみを癒してくれました。心療内科にかかったりもせずにすみました。音楽があったから自力で立ち直れたのだと思います」
10人のバックバンドを従えたバリーのミソロジー・ツアーはオーストラリアの公演で大成功をおさめた。この秋、バリーはイギリスとアイルランド公演に戻ってくる。
「スタジオでのレコード作りはちょっと退屈になりました。今はステージに立つのが一番です。
ステージではロビンの持ち歌は歌いません。ロビンの持ち場はロビンのものとして残しておきます。ロビンやモーリスやアンディがしたことをする気はありません。ぼくが作った曲や一緒に作った曲だけを歌います」
また今年セントポール寺院でドゥイーナ夫人とRJが計画しているロビンの追悼企画にも参加する気はないそうだ。
「それはできない。もう悲しみ、苦しむ時間は終わった。また、あの苦しみを再体験したくない」ので、この企画はロビンの家族や「やりたい人」に任せたいという。
「ロビンはいつもぼくと一緒です。教会に行ったり、何か儀式に参加したりする必要はないんです。
死ぬことはこわくない。明日にも終わりが来るかもしれない。5年後にどうしようなんて考えない方がいい。朝になったら起きよう、とだけ考えることです。これがぼくが得た教訓です。すべてはいつ失われるかわからない、ということ」
子ども時代の思い出
バリーの孤独感は5歳のときに家族が一時的に離散した経験からも来ているようだ。「マンチェスターに引っ越すためにマン島を出たのですが、一緒に住める場所がなかった。そこで母がモーリスとロビンと姉のレスリーを連れておばのところへ身を寄せ、ぼくだけは父と一緒に父の家へ行きました。どうしてぼくだけひとりだったのかわかりません。クリスマスにもひとりぼっちでした。
もっともそれが初めてではありません。2歳のときにも大やけどをして2年間入院していました。そのあいだ言いたいこともなかったし、孤児のような気持ちだったので、一度も口をききませんでした。
父はぼくたちを殴ったし、学校では校長に言葉による虐待を受けていたのでずる休みしていました。
苦しい子ども時代だったと思います。でもマイケル・ジャクソンほどひどくはありませんでした。マイケルからは本当にぞっとするような話を聞きました」
マイケル・ジャクソンはマイアミにあるバリーの家に1週間滞在したことがある。
「何が変って、家でテレビを見ているときでもステージ衣装のままなんですよ。髪を編んで、サングラスをかけて、メイクもして。フル装備なんだ。
たしかにかっこよかったけど、くつろいでいる感じがしなかった。うちの子どもたちの学校の集まりに来たときもそのフル装備のままでした。『マイケル、だめだよ。なんでサングラスなんかしてるの?』って聞いたら、『サングラスがないと外に出られない』って言ってました」
記事を構成した記者の勘違いか、バリー自身の記憶違い、言い間違いか、この記事にはいくつか時系列上の混乱が見られますが、去年の秋以来バリーが率直に胸のうちを吐露した一連のインタビュー中でも兄弟の関係については、ある意味で一番中身の濃いものになっています。
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