【バリー・ギブRadio Timesインタビュー】「弟たちがいないのに歌うのはいまだにつらい…」(2017年6月25日)

Radio Timesサイトより

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グラストンベリー出演の朝、英国のRadio Times(オンライン版2017年6月25日付)に掲載されたバリー・ギブのロング・インタビュー記事。

バリーは最近、「4歳の時に性的虐待未遂の対象となったつらい思い出」を初めてマスコミに明かして話題になりましたが、このインタビューでもその件やロビンとの長年の軋轢、弟たち抜きで歌い続ける悲しみなどを語っています。以下に記事の内容を簡単にまとめてご紹介します。

昔むかし三人の兄弟がいた。バリー、ロビン、モーリスのギブ兄弟だ。三人は世界を征服した。

1977年に発表された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックは史上最高(当時)の大成功を収め、4千万枚を売り上げて、ディスコ時代を代表するアルバムとなった。
シングルカットされた楽曲「ステイン・アライヴ」は500万枚以上売れて、ビー・ジーズを超のつくスーパー・スターの地位に押し上げた。40年後のいま、「あれはすごかった」と、バッキンガムシャーの自宅でバリー・ギブは語る。「ほんとにすごかった」と。

広々としたホール、回廊、プール、窓の外には90エーカーの土地。これだけを見ても、そのすごさがうかがえる。加えてバリーはマイアミ・ビーチの高級住宅街にも邸宅を持つ。

「ステイン・アライヴ」のビデオは、男の色気をとてもキャンプに表現した作品だった。キューバン・ヒールの靴を履き、銀ラメのブルゾンを肩に、タイトな白いパンツ姿のバリーが闊歩する。豊かな髪をなびかせ、ファルセットで歌う、「歩き方でわかるだろ、おれはもてるんだ、話してるヒマなんてないね」。

日曜日の夜にグラストンベリーのレジェンド枠でピラミッド・ステージに登場するときには、すでに7人の孫を持つバリー(70歳)が身に着けるパンツはもう少しゆったりめだろうけれど、やっぱりヒールのある靴を履くそうだ。「今はヒールがないとダメですね。ヒールがあると骨の位置が補正される。ヒールがないと膝とかかとがコンサートじゅう持たない。薬もつけるけど」

時は流れても、バリーはいまだにたてがみを思わせる髪を持ち、昨年のグラストンベリーでコールドプレイのセットに客演して証明してみせたように、弟たちを失った今でも、卓越したパフォーマーであり続ける。グラストンベリーも素晴らしいセットになるだろうし、バリーにもそれがわかっている。「今年は『サタデー・ナイト・フィーバー』40周年なので、あの音楽を大切にしたい」

スヌーカー室の壁いっぱいに飾られたゴールドディスクを見ても、バリーがレジェンド枠にふさわしいことが歴然としている。最新のベスト盤を選んだときも、どの曲を「落とす」かが頭痛の種だった。最終的に選んだのは「傷心の日々」など、弟たちと「精神的なつながり」があると感じた曲だ。

末弟のアンディ(ビー・ジーズには参加していなかった)はコカインとアルコールの濫用がたたって1988年に30歳の若さで心不全で亡くなった。アルコール依存症から立ち直ろうとしていたモーリスは2003年に腸ねん転の手術後に53歳で死去。モーリスとはふたごだったロビンは、直腸がんが原因で2012年に62歳で死去。バリーとロビンの間の複雑な関係はグループ内の力学に大きく影響した。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」など60年代末のビー・ジーズのヒットは主にロビンが歌った。だが世界を席巻した70年代の活躍はもっぱらバリーによる。ロビンはこれを快く思わず、二人は長いあいだ口もきかなかった。

バリーはロビンががんだったことさえも聞かされていなかった。「新聞でロビンの写真を見て、かかりつけの医者に見せて、『どこが悪いんだと思いますか』と意見を求めたら、ただ、『会いに行きなさい』と言われた。優れた医者で、理由を聞くと、『がんですね』と。どうしてわかるのかと聞くと、『血色が悪いし、歯の状態も良くない』と言われました。見通しを聞くと、『3ヶ月から半年』……それで知りました」

バリー自身はコカインや酒よりもマリファナ派だった。「弟たちは飲む方で、他にもいろいろやってたけれど、ぼくは聞かなかった。みんなマリファナ派ではなかったな」 現在のバリーは日本酒党だ。「素晴らしいんだ。一晩でマグに2-3杯やっても翌日に残らない」 軽く燗をして? 「そう。電子レンジで1分、20秒ぐらいあたためて」

『サタデー・ナイト・フィーバー』の成功で、彼らは好き放題ができる身分になったが、バリーは「いい子にしてました」という。「羽目をはずしたりはしなかった」。大成功のあとには、当然、反動が来る。2年後にはビー・ジーズは時代に取り残されたような扱いを受けるようになった。だが、バリーは気にしなかった。

失敗は気にしないで、受け流すようにしている。ジョン・レノンが言ったように、何ひとつ現実じゃあない。現実だと思うから現実になるんだ。リンダとぼくは家庭を築いているところだったから、『あ~、ビー・ジーズね、前は好きだったけど、今はね~』とか言われても、悲しくもなかった。ああ、そうですか、じゃあね、っていう感じでしたね」

最近出演したテレビ番組『ピアース・モーガンのライフ・ストーリーズ』で、司会のモーガンは『トップ・オブ・ザ・ポップス』のスタジオで知り合ったというリンダ夫人とのなれ初めについて、バリーに迫った。実際にはふたりを紹介したのはジミー・サヴィルだったわけで、ピアース・モーガンはそれを言わせたかったのではないだろうか。「ジミー・サヴィルの名前は出しませんでした。ピアースには、どうやって出会ったのか、と聞かれただけなので、ぼくは『ある有名なDJ』に紹介されたといったんです。サヴィルの名前は出したくなかった。誰だってそうでしょう」

バリーがピアース・モーガンにも話さず、今回初めて口にするのが、性的虐待の話題が実はバリーにとっては非常に生々しいものだった、という事実だ。「これまで一度も口にしないできた。なぜ、今になってかなあ、と自分でも思う。とにかく、4歳ぐらいの時に男性に性的虐待されそうになったことがある。触られたりはしなかったけれど、ぼくや他の子どもたちがある種のことのターゲットになった。結局、男は逮捕され、ぼくも深夜にそのことでたたき起こされた。わずか4歳で、寝ていたぼくのところに、警官が朝の4時にやって来て、いろいろと聞いていった。これは人生についてまたとない教訓になりました。今でも生々しく覚えています。誰にも言わずに来ましたが」 虐待未遂の場所は自宅だったのかと聞くと、バリーの答は「細かな状況は不愉快なものなので」というものだった。

バリーは点々と移動する子ども時代を過ごした。ミュージシャンだった父親のヒューと母親のバーバラが仕事を求めて移住したマン島で生まれたが、両親はふたりの出会いの場だったマンチェスターにもどり、やがてオーストラリアに移住する。大人の男性に声をかけられたことはそれからも何度もあったそうだが、「もうどうしたらいいかわかっていた」。

その若さで、そんなにタフだったというのは驚くべきことだ。家族が50年代末にオーストラリアに移住したときには、すでにバリーは不適切な行為への対処法を知っていたことになる。「オーストラリアには帰還兵がいっぱいいて、みんなどこか病んでいた。戦争で傷を負った人の存在は今と変わらない。そういう人たちが車ですっと近づいてきてドアを開け、『ドライブしないか』って声をかけてくる」 そういう時に若きバリーは「ファ●●オフ!(あっち行けよ)」と答えていたそうだ。

これがショービジネスの世界で生きていくための良いトレーニングにもなったという。バリーが13歳のとき、ギブ兄弟はオーストラリアのテレビでレギュラー番組を持ち、芸能界で頭角を現して行く。「準備はできていました。食い物にしようと近づいてくる連中がいるのは予想していた。『悪いけど、その気はない』
と言って、さっさとその場を離れる術をすごく早く身につけました。ショービジネスには深く暗いダークサイドがある

1967年、グループがイギリスに戻ってたちまちのうちにスターになったときにも、バリーは本能的に弟たちを守る役割を担うようになる。「長子っていつもそうなんですよ。望むと望まざるとにかかわらずね。結局は弟たちもそれを望まなかったわけだけれど」

最近のテロ事件で命のはかなさを改めて感じたというバリー。「マンチェスターであんなことがあったあと、グラストンベリーのことを考えました。10万人も集まる場所なんだ、どうなるんだろう、って。ぼくにはわからない。たぶんセキュリティも前代未聞のきびしさになるだろうし、何も心配することはないのかもしれないけれど」

きびしい条件下のライブなら経験済みでもある。「1972年にジャカルタで、6万人を集めた屋外ライブをしたときにハリケーンが襲来した。それなのに軍の人間がぼくたちに銃をつきつけて、ステージにあがれ、というんだ。ステージは6センチぐらい浸水していたのに! 『これは死ぬ。感電死する』って言っても、銃をグイッと上げて、『ステージにあがれ』の一点張りですよ」

グラストンベリーも雨やぬかるみが有名だが、ジャカルタほどの事態にはいたるまい。ステージに立つバリーにとって一番つらいのは過去の思い出だ。失って5年、いまだにロビンなしで歌うことに慣れることができない。「『ブロードウェイの夜』や『傷心の日々』を途中まで歌うと、喉がからからになる。全力を尽くすことに変わりはないけれど、そこで実感がこみあげてくる…」

前にも書いたかと思いますが、ジミー・サヴィルというのはイギリスの大物ディスクジョッキーで、『トップ・オブ・ザ・ポップス』のMCも務めていた人物です。当然、ビー・ジーズとも仕事で多くのかかわりがあり、2011 年10月の彼の葬儀に際してはバリーとロビンが連名で花束を贈っています。存命中から何かと黒い噂があったサヴィルですが、芸能界のビッグネームであったために、噂として片づけられていました。しかし死後、大勢の証言が噴出、60年近くにわたってスターに憧れる若い女性を食い物にしていた事実が浮上し、落ちた偶像となっています。特に対象となった女性の多くが、イギリスの法律で未成年にあたる18歳以下であったことも大きなスキャンダルとなりました。ミス・コンテストに優勝したリンダがロンドンに出るときに、事情を知らなかったご両親はサヴィルにリンダを託したという話もあり、最初の仕事の場所であった『トップ・オブ・ザ・ポップス』でバリーに出会っていなかったら、リンダ夫人も危険にさらされていたのかもしれません。

今回のインタビューでも、「タフであると同時に傷つきやすい」という君臨し続けるスターに求められる一見相反するふたつの要素をバリーが備えていることが感じられます。

この年齢になってバリーが幼い時のトラウマ的体験について口を開いたことについては、驚きの声とともに、「美少年だったから目をつけられやすかったのだろう」という感想や、「犠牲者が口をつぐみがちになると犯人が野放しになる。こういう体験について声を上げるのは良いことだ」と評価する声があがっています。

{Bee Gees Days}

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