【2017年3月】アンディ・ギブの娘として育って(ピータ・ギブ・インタビュー)
ネクスト・ジェネレーションが集まったビー・ジーズのトリビュート・アルバム、ギブ・コレクティヴの『Please Don’t Turn Out the Lights』発売を4月14日に控えて、美しく成長したピータ・ウェーバー(アンディ・ギブの娘)のインタビューがnews.com.au(オンライン版2017年3月27日付)に発表されました。両親が離婚したあと、両親の出会いの場でもある母親の故郷オーストラリアで育ったピータは、有名人の娘という烙印に苦しんだ子ども時代について語っています。
以下に内容を簡単にまとめてご紹介します。
有名人の娘として生きるとはどういうことなのか、これまで口を閉ざしてきたピータ・ウェーバーが子ども時代の苦しみを話してくれた。
昨年、いとこたちと連絡をとるようになり、ギブ・コレクティヴとしてアルバムを制作する経験をしたところから、ようやく、ギブという名前を受け入れる気持になれたという。
「電話の向こうにいるだけの人…」 それが子どもだったピータにとってのアンディ・ギブだった
「父をよく知る機会はありませんでした。成長するにつれて、父は有名人で、父のお兄さんたちも有名人なのだということがわかってきましたが、わたしにとって父はただ電話の向こうにいるだけの人でした」
ピータの両親が結婚したのはオーストラリアだった。ちょうどそのころ、アメリカではビー・ジーズが大きな成功を収めようとしており、やがてアンディも呼ばれてその波に参加する。未来の希望に胸をふくらませて、新婚のふたりはアメリカへと旅立った。
「一年ほどして母はわたしを授かりましたが、そのころにはもう両親の関係には亀裂が生じていました。父は有名人としての華やかな生活とドラッグの誘惑に捕まってしまったのです。母は『クスリを止めなければ別れる』と父に最後通告をしたのだと思います。父はクスリを止められなかったので、つらい状況になりました。弁護士がらみの展開になり、マスコミに騒ぎ立てられて、家族みんなにとって苦しい時代でした」
ごく普通の子ども時代
アメリカの父親とは違って、ピータはオーストラリアでごく当たり前の子ども時代を送った。
「自分には父がいて、歌手をしていてアメリカに住んでいる、ぐらいのことしか知りませんでした。父が有名人だと知ったのはもっとずっと後になってからのことです。
あるとき、母に呼ばれたのですが、母はテレビで流れている『ソリッド・ゴールド』を指さして、『あれがパパよ』と言ったのを覚えています。
金色のズボンをはいたその人が自分とどう関係があるのか、ときどき電話してくるあの人とどう関係があるのか、当時のわたしにはよくわかりませんでした。ただ混乱しただけです」
「有名人を父親に持っても何も良いことはありません」
時にはマスコミがピータや母親の周辺を嗅ぎまわることがあったが、結果はいつも歓迎すべからざるものだった。
「一度、オーストラリアのゴシップ誌の表紙にわたしたちが載ったのですが、それ以来、絶対に父との関連では取材を受けないから、とわたしは宣言しました。“おまえの親父ってヤク中なんだろ” “えらぶってるんじゃないわよ” “何様のつもり?”とか、ひどいいじめにもあいました」
学校生活はつらかったが、ピータは、父親とはいつかもっときちんとした関係が築けるのではないかと期待してもいた。
「もっとよくお互いを知れたら、といつも思っていました。どんな娘でも願うように、父と仲良くしたいと思っていたんです。でも外からの圧力がそれを許しませんでした。
特によく覚えているのは、あるとき父が電話で『こっちにおいでよ』と言ってくれたことです。マイケル・J・フォックスに紹介してくれるというので、わたしはすっかりその気でした(笑)。とうとう実現はしませんでしたけれど」
「父が亡くなった時には大騒ぎでした」
ピータが10歳になって間もないころ、家中が大騒ぎになった。
「わたしは地区の水泳大会に出られることになって、すごく楽しみにしていました。明日が大会という前の夜に、寝ていたら、大騒ぎになったんです。母も祖父母も電話も…何もかもが大変で…。一晩中、誰ひとり一睡もできませんでした。父が亡くなって、みんな動転していました」
ピータの家族は、できるだけ「ふつうの」暮らしができるようにずっと心を砕いてきた。だからピータは予定通り水泳大会に参加した。
「誰が連れていってくれたのか、もう覚えていませんが、とにかくわたしがちゃんと出場できるようにしてもらいました。その足でロンドンへ飛ぶことになっていたので、友だちに『学校を休むと思う』と話したのですが、もうみんな知っていました。マスコミが書きたてていたからです」
「マスコミは情け容赦なし」
水泳大会の会場の外にはマスコミが集まっており、空港に向かう幼いピータたちを情け容赦なく追いかけた。
「『ずっと下を向いているのよ。名前を呼ばれても、絶対に顔を上げちゃダメ』と言われましたが、パパラッチに追跡されるのは恐ろしい体験でした。誰もが、それから長いあいだ、つらい思いをしました」
こうしてまた注目を集めた結果、いじめも再開した。
「父が死んだあとは最悪でした。まるで拷問のようで、誰に対しても許されないことだと思います。いまだに忘れられません」
有名人の関係者だと人に知られることを、いまだにピータはつらく感じている。否定はしないまでも、その話が出ると落ち着かない気持ちになる。
「わたしの仕事とも、わたしの人間性とも、何のかかわりもないことですもの。一度、以前の恋人のお母さんに紹介されたら、最初に聞かれたのが、『お父さんのことを教えて。おじさんたちってどんな人たちなの?』ということだったりしました」
マスコミに関しては、長年の間に波があったが、ピータ自身はこれまでずっとマスコミを避けてきた。
「失礼にはならないように、でもずっと取材はお断りしてきました。おじのモーリスとロビンが亡くなったときにも、取材に来ましたが、これまではずっと、わたしの心の準備ができていなかったんです」
「“ギブ・ファミリー”の一員であることを自分なりに受け入れる」
「おじたちには、ツアーで来るたびに会っていました。お互いの近況を話したりしましたが、子どもたちの方はめったにツアーに同行していませんでした。
『君とサム(訳注:サマンサ・ギブ)はそっくりだね。一緒に遊べばいいよ』と言われたりしましたが、実現はしませんでした」
昨年、モーリスの娘サマンサから連絡があって、ギブ・コレクティヴのプロジェクトにピータも参加しないかと誘われたときも、即答はできなかった。
「確かにわたしも歌います。歌うのはずっと好きだったし、ボーカル・コーチにもついています。でも最初は、こういうプロジェクトに参加して歌うと思うだけで、居心地が悪かったんです」
けれどもサムとの2時間にわたる電話を通して、ピータは、あ、ここにはわたしと同じ経験をしてきた人がいる、と思うようになった。そこから、自分も父親の家族の一員なのだという意識が生れ、このことに関してはひとりぼっちではないと感じるようになった。
「父はギブ・ファミリーの音楽的レガシーの一部なんだ。もし父のために参加する人間がいるとしたら、それは当然わたしなんだ」という結論に達したのだ。
今年はビー・ジーズの50周年(訳注:国際デビューから50周年)、『サタデー・ナイト・フィーバー』40周年にあたる。
このアルバムからの最初のシングルは「Please Don’t Turn Out The Lights」のカバーで、ピータ、サム、スティーヴン、アダム、スペンサーが歌っている。他のいとこたちもアルバムに曲を提供した。
プロデューサーに励まされて、ピータもアンディのあまり知られていない曲の見事なカバーを提供した。
「プロデューサーでボーカル・コーチのタッシュ・リンドフレイシュがこの曲を聴いて、『これは完璧に作られたポップスだ。もう今ではこんな曲を作れる人はいない。君が歌うべきだ!』って言ったんです」
「父が単独で書いた曲を歌いたかったんです。お兄さんたちと一緒に書いた曲ももちろん心から尊敬していますが、スタジオでこの曲を通して父とつながりたかったんです」
そもそも、過去と向き合い、父親とつながりたいと気持ちからギブ・コレクティヴ・プロジェクトに参加したピータだが、はるかにそれ以上のものが得られたという。
「いとこたちとの絆が生れました。このプロジェクトを通して、ファミリーのみんなと再会できるとは、まったく期待もしていなかったんです。ようやく、人生のこの側面を、自分なりに、明るい気持ちで受けいれて、誇らしく思えるようになりました」
サマンサも「ビー・ジーズの子ども」として学校でいじめられていた体験を語っていますし、アンディ自身もスペンサーもいじめられていた話をしています。さらにはバリー、ロビン、モーリスもいじめられていたという話を聞くので、「出る釘は打たれる」というのは世界共通のことなのかもしれません。
また、これで「Please Don’t Turn Out the Lights」を誰が歌っているのか、初めてはっきりしました。リードはサムとピータで、お兄ちゃん3人がハーモニー? アルバム発売まであと2週間と少しです。
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