【2022年9月】米People誌「写真で辿るバリー・ギブの歴史」
米国の芸能誌『People』(オンライン版2022年9月1日)に掲載された記事、題して「写真でたどるバリー・ギブの歴史(Barry Gibb’s Life in Photos)」を簡単にまとめてご紹介します。日付けで分かる通り、バリーの誕生日を祝って書かれた記事で、バリーのこれまでの歩みを10の時代に区切って写真と共に紹介しています。筆者はKate Hogan氏。
ビー・ジーズの創設メンバーであるバリー・ギブの波乱万丈の人生を写真でたどってみましょう。
その1 若き日(トップの画像)
バリー・ギブは、1946年9月1日マン島で生まれ。両親のヒュー&バーバラにとっては第三子にあたります。上には姉がひとり、兄がひとりいましたが、兄は小さいころに亡くなりました(訳注 えっ!と思われた方も多いのではないでしょうか。この事実は確認できていません。バリーの伝記作者やマネージメントにも問い合わせましたが、みんな”初耳”だそうです。記事を書いた人の単純な間違いじゃないかという気がします)。その後、ふたごの弟ロビンとモーリス、さらにはいちばん下の弟アンディが生まれます。1950年代末に一家はそろってオーストラリアに移住。そこでバリーとモーリスとロビンはビー・ジーズとして歌の道に進み、名を成してゆきます。
その2 ビー・ジーズのはじまり
ミュージシャンだった父親に背中を押されて、兄弟は地元で歌いはじめます。バリーは9歳、ふたごはまだ6歳でした。1966年にはすでにオーストラリアのテレビで自分たちの番組を持ち、レコード会社とも契約していました。そして1967年、彼らはさらなる飛躍の機会を求めて英国に戻ります。
その3 60年代に火がついたビー・ジーズ人気
(訳注 この写真は1973年のLife In A Tin Canのころのものですから、このセクションのタイトル「60年代に人気…」とあっていませんね~。記事を書いたライターの方が写真まで選んだのかどうかはわかりませんが、記事を作成した側がどのぐらいわかっているのか(敬意をもって経緯をたどっているのか)、こういうところにもろに出てしまうと思います。特にこの人たちの場合、ものすごく若かった(ロビンとモーリスは10代)ので、この数年でロビンいわく「少年から大人の男性に」なっています。この数年の違いはとても大きい。ここはやっぱり青年・少年ビー・ジーズの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」のジャケット写真あたりを使ってほしかった気がしますね)
以降は前進あるのみ。「マサチューセッツ」「ワーズ」など、美しいハーモニーを聴かせるヒットを次々ととばして世界中で人気を獲得してゆきます。
「僕たちの音楽が完全にコマーシャルなものだということは自覚しています。ぼくたちは”いま”のために書いている」とバリーは当誌に語っています。
けれども名声には苦しみが伴いました。ギブ兄弟は1969年に短期間ですが解散しています。
「僕たちは敵同士になってしまった、魅惑が失われた」とバリー。でもね、とモーリスが言葉を添えます。「僕たち、ソロスター向きじゃない」ってことがわかったんだよ、と。そこで1970年には彼らは再結成を果たし、「傷心の日々」などのシングルでさらに名声を高めてゆきます。
4.リンダ・グレイ嬢との結婚
1966年に結婚したモーリーン・ベイツさんとの離婚が成立後、バリーは元ミス・エジンバラのリンダ・グレイ嬢と1970年9月1日に結婚しました。
5. バリーの家族
バリーとリンダは5人の子どもたちに恵まれました。スティーヴン、アシュリー、トラヴィス、マイケル、アレクサンドラです。現在、一番下のアレクサンドラが31歳、長男のスティーヴンが49歳です。
6.70年代のビー・ジーズ
70年代に入ってビー・ジーズに大きな転機が訪れました。1977年に発表された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックが彼らの存在をディスコの歴史に刻み込んだのです。
「世界中が踊りたがっていました」と、当時ギブ兄弟は本誌に話してくれました。「弁護士とか判事とかふつうはアルバムなんか買わないような人たちが、『サタデー・ナイト・フィーバー』を買って踊りのレッスンを受けたりしていたんですよ」
『フィーバー』のアルバムは1978年にビルボードのトップ200チャートの1位に輝き、ビー・ジーズはアルバム・オブ・ジ・イヤーを含む3つのグラミー賞を獲得しました。アメリカン・トップ40のケイシー・ケイサムは彼らを「プラチナの喉をもった兄弟」と読んでいます。
しかし名声とともに反動も起きました。ディスコ・ブームに陰りが見え始めと同時に、かつてのファンたちがビー・ジーズを目の敵にするようになります。
「あれだけ愛された音楽が10年もしないうちに相手にもされなくなった」とバリーは1997年に本誌に語っています。「だからこそ、僕たちは固く決意していました。”これで終わりじゃないってところを見せてやろう”ってね」
7.アンディと一緒のバリー
ビー・ジーズのギブ兄弟の星が輝けば輝くほど弟のアンディ(モーリスと一緒のこの写真で真ん中に写っているのがアンディです)も輝きました。アンディはときに兄たち3人と一緒に歌うこともありましたが、自分でも「恋のときめき」など何曲もヒットを飛ばしています。けれども彼は1988年3月10日に薬物乱用がらみの合併症で亡くなりました(訳注 実際には心筋炎で亡くなっており、死の直前の数年間はドラッグに関してはクリーンな状態で再起を目指していたといわれています。しかし若いころからの乱用が心臓をむしばんでいたのも事実なので、こういう書き方もできるということでしょう)。30歳の若さでした。
「アンディはまだどこかにいる」。アンディにたくさんの曲を提供したバリーは1989年に本誌にこう語っています。「身近な人の死を経験すると、死に対する考えかたが変わります。ただ土に還るだけなんだとは思えなくなる」
大人となったバリーの人生に続くいくつもの悲劇。アンディの死はその始まりでした。
8.ソロ・アーティストとしてのバリー
ビー・ジーズ1997年にロックの殿堂入りを果たします。そのずっと以前からバリーはソロとしての活動も開始し、バーブラ・ストライサンドと1980年のアルバム『ギルティ』でコラボレーションをはじめ、他のスターに曲を提供したり、コラボレーションするなどして、再評価が進んでいました。
「曲を書いて、プロデュースして、歌うところまでできる、そんな人、わたしが知っている中ではバリーしかいない」とストライサンドは2005年に本誌に語っています。
9.CBEとなったビー・ジーズ
2003年1月、再び悲劇が襲います。モーリスが手術を受ける準備をしていたときに心臓の発作で亡くなったのです。53歳でした。1年後、ロビンとバリーはモーリスの子息アダム(中央)とともにチャールズ皇太子から大英帝国勲章CBE(コマンダー)を授けられます。「ほろ苦い気持ちです。三人そろってこの場にいられたら最高だったのに」とバリーは語りました。「複雑な気持ちです。モーのことだから、水を得た魚状態だったと思います」また、バリーはモーリスの死がグループの事実上の終焉だと語っています。「モーリスを尊重するために、ぼくたちはビー・ジーズとしては活動しません。これは、ちょっとだけ自由にやるのにいいタイミングなのかもしれません。また、いずれ、何か一緒にやるかもしれませんが」
10. 現在のバリー・ギブ
その後の何年かの間に、ロビンとバリーはときおり一緒に仕事をしたりしていましたが、2012年にロビンが62歳でガンで亡くなり、ビー・ジーズは正式な終焉を迎えました。
現在76歳のバリーは(訳注 これはバリーの76歳の誕生日を記念して2022年9月に登場した記事です)、音楽を生み出し続け、2020年にはカントリー色の強いアルバム『グリーンフィールズ:ザ・ギブ・ブラザーズ・ソングブック』を発表し、同年製作されたバリーの生涯と栄光(訳注 というか、この作品はもちろんバリー個人についてのものではなく、ビー・ジーズというユニットについてのドキュメンタリーです)についてのHBOのドキュメンタリー『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』にも参加しています。
「ロブの死後、ぼくはただ鬱々として、これで何もかも終わったんだ、あとはただ消えていくだけなんだ、と考えていました」と、バリーは2016年にデイリー・メール紙に語っています。けれども現在のバリーの言葉はちょっと違います。「今この時を生きること。一瞬一瞬を大切にすること、すべてはそこからです」
特に目新しい内容はない記事ですが、写真がちょっと楽しいのでご紹介してみました。諸般の事情で更新が滞り、情報がたまってしまいました<(_ _)>が、なんとか更新頻度を上げたいなあと思っています。
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