【1977年2月】NME紙「ビー・ジーズ、NYでチャリティ・コンサートを実施」

NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)紙1977年2月12日号

北米で『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』ツアーが実施されたのは1976年末。前回の記事で取り上げたニューヨーク(マディソン・スクエア・ガーデン)公演は中でも一番派手に宣伝され、Rolling Stone誌をはじめ、たくさんのマスコミに取り上げられました。

この記事には、ビー・ジーズのニューヨーク公演取材にイギリスのNME紙から派遣された筆者の苦労話が面白おかしく書かれていて、”フィーバー”以前にすでにビー・ジーズがいかにアメリカで人気を誇っていたかがよくわかります。天下のNME紙でさえ、彼らの写真を撮るカメラマン付きの取材が認められなかったとは! 当時の彼らが、というか、彼らのマネージメントがいかに”アメリカ向き”でアメリカ市場を意識した戦略を展開していたか、ということが強く感じられます。

それを皮肉ってか、トップの写真のキャプションには「バリー・ギブの米大統領就任式」とあります。右端がロバート・スティグウッド、右から2番目がニューヨークのビーム市長(当時)です。

ビー・ジーズのことを考えると、つい噴き出してしまう。一番忘れられない思い出というのが、何年も前に南カリフォルニアで行われた大屋外コンサートだ。なんとも珍妙な女性が舞台の上で身をくねらせながら発表した。「さて、次はわたしのだ~いすきなビ~~~ジ~~~ズでーす」。誰あろう、これは女装したキース・ムーンだった。

その後、ビー・ジーズのキャリアは下降をたどる。兄弟間の不和に分裂が続き、ヒット面では不遇をかこって、彼らはポップスの最前線から退いていった。だがそれも1975年のアルバム『メイン・コース』が2枚のビッグヒットを生み、プラチナセールスを達成するまでの話だ。

以降、ビー・ジーズは彼らが大人気のアメリカに集中してきた。

少なくとも、昨年暮れのニューヨークで受けた印象はそうだった。

マンハッタンのこじゃれた57丁目にあるショップがビー・ジーズ・ツアー本部としてオープンし、12月のマディソン・スクエア・ガーデンのコンサートのチケットやレコード、風船、Tシャツ、絵葉書、バッジ、ステッカーなどが、通りの屋台で売られているホット・プレッツェルみたいに飛ぶような勢いで売れていた。

ニューヨーク公演をめぐる大騒ぎが始まったのは1ヵ月前、ニューヨークのビーム市長が住む市長官邸グレイシー・マンションで盛大な昼食会が開催された時だ。この昼食会、公式には市長主催という形をとっていたが、1万ドルの経費はロバート・スティグウッドが持って、さんざんマスコミをにぎわした。

ビーム市長がビー・ジーズに市の鍵を進呈。アンディ・ウォーホールも姿を見せた。ビアンカとミックは来なかった。妊娠中でお腹の大きなカーリー・サイモン、ジェイムズ・テイラー、ポーレット・ゴダードその他のパーティー人種が、女子学生の楽隊とドラムで歓待され、市長夫人はモーリス・ギブのダンスの申し込みを足の巻き爪を理由に断った。

大盛況のうちに一大発表が行なわれた。ビー・ジーズはNY市警察のアスレティック・リーグすなわちPALに、マディソン・スクエア・ガーデンのコンサートから得る利益を寄付いたします。PALは子どものためのスポーツ・プログラムを提供する警察組織である。

バリー・ギブいわく、「ニューヨークに来て市の恩恵に浴するグループは多いけれど、誰も市に対して恩返しをしていないから」。ビーム市長は満面の笑みをたたえて、グループからありがたくゴールド・ディスクを受け取り、彼らをまずジェイ・ピーズ、続いてジー・ビーズと呼んでみせた。

いよいよコンサートの週になると、ビー・ジーズ・ツアー本部とビー・ジーズのプレス・チームは大イベントを前にしっちゃかめっちゃか状態だった。

ロンドンのRSOオフィスからは、カメラマン同行でコンサートを取材し、ビー・ジーズにインタビューして、カメラマン同行でコンサート後のパーティにも出席すればいい、みんな来るからすごいですよ、というなんともノーテンキな連絡が来ていた。

確かにみんな来る…ようだったが、そのみんなの中に私は入っていなかった。これほど過密かつ重大なスケジュールにNMEごときを組み入れるのは、どうやら無理筋というものらしかった。

あっちこっちと電話したあげくに、ジェイ・ピーズは忙しすぎるので10分ばかり話すのも無理だということがわかった。私も同じホテルに滞在していたのに、である。親しくなったボーイ長に大声でこぼしていたら、これがエレベーターで一緒になった中西部の女性の耳に入った。どうも彼女、「ルーシー・ショー」を見過ぎたらしい。メイドの制服を借りて、シーツの束の下にテープ・レコーダーを隠してジー・ビーズのスイートに突撃してはどうか、というのだ。

はいはい。

さらに写真も撮れなくなった。カメラマンが殺到しすぎて場所が足りなくなったそうなのだ。さらにパーティにも行けなくなった。「パーティなんかありません」ということで。本当はあったのに。しかも私なんか、パーティ用のドレスとかもスーツケースに入れてきたというのに。

さらにコンサートにも入れなくなった。「みんな来るから」、というわけで。

プレス・オフィスが3日間かけて”奇跡的な奮闘”をしてくれたおかげで、コンサートのチケットが届いた。添えられていたカードのメッセージには、どうかビー・ジーズのコンサートに行って「ビッグ・アップルで過ごすクリスマス・シーズン」を楽しんでくださいませ、とあった。

ばんざーい。

腹は立ったが、コンサートについて嘘をつくほど腹が立っていたわけではいない。良いコンサートであった。

まず、ビー・ジーズは、勇敢だったからか、自信たっぷりだったからなのか、ボストン出身の一流ブラック・ソウル・バンドであるタバレス兄弟を前座に起用していた。彼らは観客に大ウケで、スタンディングオベーションに本物のアンコールまでモノにしていた。

タヴァレスは、そんなバンド聴いたこともない、と思っているが、演奏が始まってみるとあれもこれもトップ5入りした大ヒットで知っている曲ばかりだった、というタイプのグループである。「It Only Takes A Minute Girl」などの曲だ。5人兄弟は長身である点をのぞけばジャクソン5みたいだった。ぴったりそろった手の動き、くるりと回転しては「ウーウー」と歌う彼らはまことにスマートでキャッチーで、あたたかなユーモラスさがあった。

ギブ兄弟はいまやアイザック・ヘイズとホール&オーツの中間点のどこら辺かのニッチに立ち位置を定め、パーカッションにジョー・ララ、キーボードとシンセサイザーにブルー・ウィーヴァー、さらにはサイドにマイアミ・ホーンズを従えている。

ビー・ジーズは、ブラス・セクションを導入したダンサブルなファンクナンバーをタイトでクラシックなハーモニーで歌った。バンドも管楽器系の寄せ集めどころか、丁寧に編成されたアンサンブルで、踊りたい気持ちをかきたてる。

コンサート中でもっともウケていたのは、当然あった懐かしのヒットメドレーで、観客は歌い始めを聴いただけでワーッともりあがり、「マサチューセッツ」「ラヴ・サムバディ」「ホリデイ」「ニューヨーク炭鉱」と言った曲をステージと一緒に歌っている。

いまや髭をたくわえた細身のロビン。ファンキーなナンバーで見せる不器用な英国式の踊りはタヴァレスの後で見るとかなりマヌケではあったが、「ラン・トゥ・ミー」「ジョーク」等の曲でのヴィブラートの美しさは彼の独壇場だった。だが、「ワーズ」などもそうだが、彼もバリーもこなれすぎていて、時にオーバーに思えなくもなかった。基本的には軽い曲なのにやりすぎている感じである。

最近の作品も華やかに演奏されて、やはり基本的にきれいでありつつ、コマーシャルな意味で爆発的なパワーがある。「ダンシング」「ジャイヴ・トーキン」等の曲はかなり熱く、「悲しませることなんてできないよ」「カム・オン・オーバー」のようなバラードは信じられないぐらい効果的だ。

心地よくバラエティに富み、程よいタイミングでノスタルジーを効かせ、時に壮大なまでのハーモニーの妙技を堪能した1時間半が過ぎ、満場を埋めた観衆はマッチやライターやトーチを手に立ちあがって、アンコールを求めた。

これほど順調にはいかなかったのが、翌日の記者会見だ。ジェイ・ピーズがビーム市長に30,000ドルを超える寄付金を手渡す瞬間をとらえようと何台ものニュースカメラが待機していたのだが。

ビー・ジーズ・ツアー本部で「協力が足りない」とひと騒ぎを演じた結果、お詫びのしるしに、レコードや風船やチケットが入った箱が私の部屋に届いた。添えられたカードには、「本当に申しわけありません。決してジャーナリストの方の創造性を軽んじているわけではありません。NME紙編集部も必ずやニューヨークからのニュースを喜んでくださることと思います」とあった。風船もさぞ喜ばれることだろう。

このカードには追伸として、6時のニュースでチャリティ演奏を行うビー・ジーズが見られる予定だと書かれていた。けれども集まったマスコミが(変だ、記者会見にはマスコミはいっさい招待していないと聞かされていたのに…)ビー・ジーズを無視して、その朝判明した収賄疑惑についての質問がビーム市長に集中したときに、感動的なはずの場面はどうも台無しになってしまった。

ーアンジー・エッリーゴ

筆者のエッリーゴ氏は現在も活躍中の映画や音楽の評論家です。

実はこのツアー当時の記事で一番記憶に残っていたもののひとつがこの記事でした。ロビンがなぜステージで踊らなくなったかということの答えの一つがここに書かれていた、と当時思ったからです…。

それから今回久しぶりにこの記事を読み返していたら、そういえば、どこかに黄色い風船があったなあ、ということを忽然と思い出しました(笑)。

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