【1978年5月People紙】「ビー・ジーズ大攻勢」
1978年5月14日、アメリカの芸能紙People(People Magazineとはまた別の媒体です)に掲載された記事をご紹介します。今から45年前、ちょうどフィーバーの真っ最中ですからこのタイトルになったのも納得です。
ビー・ジーズ大攻勢
イギリス出身の3兄弟が、いったんは「過去の人」呼ばわりされながら、いかにして音楽の世界を征服したのか、これまで語られてこなかった秘密の物語が今ここに…
15年前のザ・ビートルズのアメリカ進出以来、ひとつのグループがこれほど音楽業界を独占したことはない。
今日、それを成し遂げているのがビー・ジーズである。この才能あふれる3兄弟は、ヒット映画『サタデー・ナイト・フィーバー』からのディスコ・スタイルの曲で、何百万枚もの売り上げを記録している。
ビー・ジーズ(この名前はブラザーズ・ギブからとられている(訳注 これは間違いです))の驚異的な成功ぶりは、ギブ兄弟が3曲を連続してポップチャートのトップに送り込んだことからもわかる。ソングライターとしてプロデューサーとして、彼らはこれに加えてさらに4曲の大ヒットを生み出している。
ライターとして、プロデューサーとして、パフォーマーとしてのビー・ジーズが、トップ10に同時に送り込んだ曲は合わせて5曲。この数字に並ぶのはザ・ビートルズだけだ。
ビー・ジーズのミリオンセラー、「ステイン・アライヴ」「愛はきらめきの中に」「恋のナイト・フィーヴァー」(いずれも映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に使われた曲である)がトップ10入りしていた同じ時期に、弟でティーン・アイドルのアンディ・ギブのためにビー・ジーズが書いてプロデュースした「愛の面影」とサマンサ・サングの「愛のエモーション」がトップ10入りしている。
しかもこのタイミングで、さらに同映画からビー・ジーズが書いた曲が2曲(イヴォンヌ・エリマンの「アイ・キャント・ハヴ・ユー」とタヴァレスの「モア・ザン・ア・ウーマン」もチャートを上昇中だった。
「信じられないような勢いだよね」と、グループでいちばん多作なソングライターでああるバリー・ギブ(31歳)は語る。
「しかもまだ勢いが衰える気配がない」とロビン・ギブ。28歳のロビンはモーリス・ギブの二卵性のふたごだ。
音楽業界入りして20年、レコードを作り始めて10年、ビー・ジーズはいまや彼らにもっとも大きな影響を与えたアーティストのひとつであるザ・ビートルズに比肩する成功を収めている。
皮肉なことに、おそらく近いうちにビー・ジーズは、ザ・ビートルズの曲をファンキーにカヴァーしてNo.1ヒットを飛ばすことになりそうだ。映画『サージャント・ペッパー』とそのサウンドトラック・アルバムの発売が近いのだ。主演はスーパー・ロッカーのピーター・フランプトン。製作はビー・ジーズのマネージャーで『サタデー・ナイト・フィーバー』のプロデューサーでもあったロバート・スティグウッドである。ビー・ジーズ自身もこのミュージカルに出演する。
「映画の中で歌った曲にはぼくたち自身の個性が入っている」というのがバリーの説明だ。「ザ・ビートルズの曲って、まるで自分が書いた曲みたいだ、っていう気持ちにさせられますよね。ザ・ビートルズは誰でも歌えるような曲を与えてくれる」
ビー・ジーズはコンポーザーとしてもザ・ビートルズに比肩する成功を遂げている。ビー・ジーズが書いた曲はエルヴィス・プレスリー、ポール・アンカ、ジャニス・ジョプリン、アル・グリーンなど200人を超えるアーティストに取り上げられている。その長いキャリアを通じて彼らはアルバム21枚、シングル50余枚を発表してきた。
ビー・ジーズのヒット曲といえば、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「誰も見えない」「ワーズ」「獄中の手紙」「ラヴ・サムバディ」「ロンリー・デイ」「マサチューセッツ」「傷心の日々」「ジャイヴ・トーキン」「ブロードウェイの夜」「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」「ファニー」「ジョーク」「偽りの愛」等々だ。
しかしそんな彼らにも不遇の時代があった。実は今回は彼らにとって三度目の成功期といえる。
ビー・ジーズが最初にクラシック調のバラードを歌って人気を集めたのは1960年末、子ども時代に移住したオーストラリアから故国イギリスへ戻ったときだ。
けれども成功の頂点ですべてが狂い始めた。内部の軋轢が激しくなり、グループは解散にいたる。ロビンがグループを脱退してソロのキャリアを追求する一方で、(「いつも心に太陽を」のヒットで知られる)歌手のルルとの結婚に敗れたモーリスはアルコール浸りになる。
急激な名声と富に対応するのは簡単ではなかった。経済的には恵まれ、地中海の島で贅沢な暮らしをしながら、スターであることのプレッシャーが家族間の不和をもたらした。
「60年代を終えるころには、ツアーとレコーディングとプロモーションで神経をすり減らしてしまっていた」と、バリーは振り返る。「近所の人たちは、ぼくのことをちょっとおかしいんじゃないかと思ってたと思います。玄関を出ると通りに並んでいる6台の車が全部ぼくのものだったりしましたから! それって変ですよね。
解散はトラウマになるような体験でした。でもぼくたちが仲違いしてずっと時間が経ってからも、マスコミはぼくたちの不和について書き立てては古傷をえぐったんです」
解散から2年後、兄弟は仲直りして再びレコーディングにとりかかり、「ロンリー・デイ」で初の全米ナンバー・ワンを達成する。その後、そこそこのヒットが数曲続いたものの、ビー・ジーズは急速に減速した。
けれども1975年に、ディスコ人気が盛り上がり始めると、ビー・ジーズは「ジャイヴ・トーキン」「ブロードウェイの夜」といったディスコ調の曲で音楽世界を再び沸かせるようになる。
「ぼくたちはR&Bバンドになる必要があった」とバリー。「ぼくたちの歴史を見てもらえば、ひとつの音楽スタイルからまた別のスタイルへと変遷してきたのがわかる。ぼくたちは、ほとんどありとあらゆる音楽を愛しているバンドなので、これから5年後にはまた違うことをしているかもしれない」
現在、空前の成功を収めながら、ビー・ジーズは、まだまだ歌ったり、演奏したり、演技をしたり、作曲したり…したいことがたくさんあるという。
「最初のときと二度目のときには、ビー・ジーズは頂点を極めるところまではいかなかった」と、ロビン。「でも今回は頂点を極めることができた。しかもまだまだ最高点には達していない」
by James Albrecht
この記事はおそらくプレス用の資料辺りを基に本人たちに直接取材せずに書かれています。実際に会っている場合には、「約束の場所に現れたバリーはブルージーンズをはいて元気そうだが、やや疲れても見えた」というような描写が必ずあるはずです。電話取材であれば、取材時のディテールがどこかに入っているはずです。本人たちの発言は入っていますが、発言をした時の本人の様子は入っていません。というわけで、上記の結論になるわけです。
当時、こういう記事がそれこそ山のように登場しました。内容が新しいかどうか見極めるポイントとして使っていたのが、最後のロビンの発言です。「まだまだ最高点には達していない」というロビンの発言はくりかえしくりかえし引用されて、新しい記事を読むたびに、「またあの同じソースからの引用だ」と判断する基準にしていました。
それまではビー・ジーズに関する記事は小さくても目につけば必ず買っていたのですが、この辺でさすがについていけなくなります。「長い記事だけ買うことにする」と宣言するファンも出れば、「小さくても新しい写真が掲載されていれば買うことにする」という基準を設けるファンもいました。そうでないと出るわ出るわ、家じゅうがビー・ジーズが掲載された雑誌で埋まっていまいそう…そんな感じでした。まさにビー・ジーズ大攻勢の1978年の若葉のころでした。
{Bee Gees Days}
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