【2010年】意外にも(?)ぴったりなビー・ジーズとAC/DCのマッシュアップ

Americansongwriter.comに掲載された記事(2024年11月6日付)をざっとご紹介します。

意外にもはまっているビー・ジーズとAC/DCのマッシュアップと、ロックとディスコの奇妙な関係について

ビー・ジーズとAC/DCの音楽を組み合わせてみてもどうしようもなさそう…と思うのだが、これがまたよくできたマッシュアップで、AC/DCの「Back in Black(バック・イン・ブラック)」とビー・ジーズの名曲「Stayin’ Alive」でディスコとロックをうまーく調和させている。その名も「Stayin’ in Black」というこのメドレー、発表は2010年。オーストラリアのオーディオ/ビデオプロデューサーであるトム・コンパニョーニ氏が設立したWax Audio社の作品だ。

この会社、他にも、レディー・ガガとジューダス・プリーストとか、メタリカとハービー・ハンコックとか、レッド・ツェッペリンとブラック・サバス、ヴァン・ヘイレンとマイケル・ジャクソンなどなど、いろいろなマッシュアップ作品を手がけている。ビー・ジーズの「ステイン・アライヴ」とAC/DCの「バック・イン・ブラック」は、かなり意外な組み合わせ……ではあるのだが、これがどうして、「ステイン・アライヴ」(1977)のオリジナルアレンジを、アンガス・ヤングの「バック・イン・ブラック」のリフに置き換えて、めちゃハマっている。

どちらもアイコニックな名曲だし、どちらも40年以上にわたって生きながらえてきた曲だ。そしてまた、この2曲の組み合わせが面白いのは、わずか3年違いで発表されたというのに、当時はまったくのジャンル違いだったということだ。「ステイン・アライヴ」は『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラック(1977年)から発表され、「バック・イン・ブラック」は1980年に発表された。1980年は新しいヴォーカリストにブライアン・ジョンソンを迎えて、AC/DCにとっては一大転換期にあたる年だった。

「ディスコはクズ」

70年代に入って、デヴィッド・ボウイ、T.レックス、スレイド、ロキシー・ミュージックなどのグラムロック、アウトロー・カントリーが続々と台頭し、ファンク、さらにはソウルが爆発していくなかで勢いを増してきたディスコだが、1970年も終わるころには早くも傍流に押しやられていた。デトロイトのDJスティーブ・ダールが言い出した「ディスコはクズだ(Disco Sucks)」という主張が次第に勢いを得て、「ダンシング・クイーン」に代表されるこのジャンルは、1970年代末には失速しはじめていたのだ。とにかく流行りすぎてしまったせいもあるが、それよりも黒人、ラテン系、ゲイ、女性などの間で人気を集めたことが反感を買ったのである。

1970年初頭、ディスコはビー・ジーズ、アバ、ドナ・サマー、シスター・スレッジ、KCとサンシャイン・バンド、シック、グロリア・ゲイナーその他大勢を擁して日の出の勢いだった。そしてビー・ジーズが『サタデー・ナイト・フィーバー』で最終的な勝者となったわけだが、その後、ダンス・フィーバーは霧散し、ディスコというジャンルそのものが逆風の対象となった。(訳注 細かな話になりますが、だ「1970年初頭」というのは筆者の思い違いでしょう。70年代初頭のビー・ジーズは解散のあれこれをくぐりぬけ、「ロンリー・デイ(この邦題はどうしてわざわざ単数形にしたのか、わけがわからん)、「傷心の日々」の時代であり、彼らがR&B路線にかじを切るのは70年代半ば以降です)

「ディスコはクズだ」運動も1979年7月12日にクライマックスに達する。ダール主導の大リーグ野球のプロモーション・イベント「ディスコ・デモリッション・ナイト」では、ゴミ箱いっぱいのディスコのアルバムが燃やされ、イリノイ州シカゴの球場は暴動と言っていいほど荒れに荒れた。レコードが破壊されたあと、爆破と暴徒の群れのおかげで球場はめちゃめちゃな状態になり、ホワイト・ソックスは第二試合をキャンセルせざるをえなくなった。「ディスコが死んだ日」とも呼ばれるイベントだ。

ロックの世界ではディスコはほとんどまともに論じられてこなかった。AC/DCも、キャリアの初期に、「君たちもディスコ・サウンドを試してみたら?」とレコード会社に言われたそうだ。「文字通り、レコード会社に『ディスコのヒットを1発頼む』って言われたんだよ」とAC/DCのギタリストであるアンガス・ヤングは語っている。ヤングの話では、彼らは、自分たちが熟知しているタイプの音楽をやるという形で、この依頼に応えてみせた。つまり、「”Highway to Hell(地獄のハイウェイ)”を作った」わけだ。ボン・スコットが歌手として参加した最後のアルバムである。

メタルとハードロックのクロスオーバー

AC/DCは、もう「ディスコをやれ」と言われたりしないように『地獄のハイウェイ』を利用したわけだが、もっとオープンなスタンスで、流行を取り入れてヒットを出そうとしたアーティストもいた。ロックバンドもディスコアレルギーばかりだったわけではないのである。ディスコがまだ輝いていたころに、ローリング・ストーンズは1978年のアルバム『Some Girls』と「ミス・ユー」でディスコにトライしている。同じ年にはグレートフル・デッドが「Shakedown Street」で独自のサイケデリック風味のディスコを演奏してもいる。1年後にはKISSがディスコ路線の「I Was Made for Loving’ You」でヒットを飛ばした。1979年のアルバム『Dynasty』に入っているこの曲は数か国でナンバーワンを達成し、ビルボードHot100チャートで最高位11位につけている。

1980年ごろには、ポール・マッカートニーもウィングスでディスコ色の強い「Goodnight Tonight」をシングル発売している。そしてそれからさらに30年以上経った2021年にはフー・ファイターズもディスコとビー・ジーズへのトリビュートとして、Dee Gees名義でアルバム『Hail Satin』を発表している。(by Tina Benitez-Eves)

確かに意外な組み合わせかもしれませんが、「ステイン・アライヴ」はほとんど無敵で、どんなものにも合ってしまうんですよね。…なーんて、確かにこれは意外だけどぴったりの組み合わせ! 「えー、どうして思いつかなかったんだろう」という、コロンブスの卵タイプかもしれません。

名研究サイトGibb Songsのジョー・ブレナン氏がどこかで、「ローリング・ストーンズは”ミス・ユー”でディスコを取り入れても許されたが、ビー・ジーズはなぜか許されず、長きにわたって苦杯を飲み干すことを強いられた」というような発言をしていましたが、同感です。

上記の記事の中段で語られているディスコ・デモリッション・ナイトについては2021年末に日本公開されたドキュメンタリー映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』に詳しく、最近映画『ビートルジュース ビートルジュース』関連で全米チャート1位を記録した「哀愁のトラジディ(Tragedy)」を使った演出が鳥肌がたつほど見事でした。同映画の中では、この「ディスコが死んだ日」は「ひとつの時代の終わり」として語られています。

改めてこの記事で、ディスコ・デモリッション・ナイトが1979年7月12日だという記述を見ると、映画の「Tragedy」の場面がまざまざとよみがえります。ビー・ジーズにとってキャリアの一つの頂点でもあったドジャー・スタジアムを埋め尽くしたコンサートは1979年7月7日のこと。頂点を極めた最中に凋落はすでに迫っていたことを、それが今日にも続く差別と分断の意識に根差していたことを映画は「Tragedy」の圧倒的なイントロを使って表現しています。未だ観ていないという方は是非ご覧になってください。

{Bee Gees Days}

© 2009 - 2024 Bee Gees Days. 当サイト記事の引用・転載にあたっては出典(リンク)を記載してください。

おすすめ

error: 記事内容は保護されています。