【2021年10月】「アルバム『リヴィング・アイズ』をめぐって――ビー・ジーズがディスコから離れたとき」

画像はアルバム『リヴィング・アイズ』ジャケット(Ultimate Classic Rockの記事より)

1981年にアルバム『リヴィング・アイズ』が発表されて40年。40周年を記念してか、Ultimate Classic Rock(オンライン版2021年10月2日付)に『リヴィング・アイズ』をめぐる記事がアップされました。

ビー・ジーズが売れなくなった直接の原因は、80年代に向かってディスコ・ミュージックに対する聴き手の態度が変化したためだといわれる。バンド・メンバー自身もこれからどうなるのだろうと不安だったそうだ。「おれたち、型にはまっちゃったんじゃないか、という恐怖がありました。だから『Living Eyes』のときには変わる必要性を強く感じていました」。ビー・ジーズのプロデューサーとして長年活躍したアルビー・ガルーテンは『The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb』(2000年)の中でそう語っている。「(ビー・ジーズ16枚目のアルバムの)作業を開始したけれど、楽しくなかった。当時、友達といて『なんかダメなんだよ、もうやめようかと思っている』といったのを覚えています」

スタジオでの作業がしっくりいかなかったのは、ひとつに、グループとしてのギブ兄弟がスムースに機能しなくなっていたせいもあったと思われる。80年代になって、三人とも外部プロジェクトを手がけており、復帰はやすやすとはいかなかった。しかもアンチ・ディスコの動きが吹き荒れるなか、ビー・ジーズのレコードをかけることを拒否するラジオ局も多く、新しいアプローチが求められていた。

70年代後半を通じてビー・ジーズのリードボーカルはバリー・ギブ・オンリー状態になったが、スタイルの変化に伴ってリードボーカルの交代も必要になった。

「『出すファルセットの曲はみんな大ヒットなんだから、このままでいこう』という感じだったので『今度の曲はロビンのリードにしよう』という話は出なかったのです」とバリーは上記の『The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb』の中で語っている。「でもファルセットがセールスポイントではなくなったんだから、ロビンやモーリスの声をもっと聴いてもらうことが大切だ。で、僕の声をメインにすることはそれほど重要ではなくなりつつあった。それが僕たちのやりかたでした。僕たち三人にとっては個々のプライドなんか問題じゃない。誰がいちばんたくさん歌っているか、誰の曲がいちばんヒットしているかなんて関係ないんです」

また、このアルバムで、70年代後半にビー・ジーズとレコーディングやツアーなどの活動をともにしてきたバンドにとって代わって、セッション・ミュージシャンが登場した。この中には、イーグルスのドン・フェルダーをはじめ、広く知られた錚々たるベテランのスタジオ・ミュージシャンがずらりとそろっていた。ジェフ・ポーカロ(トト、スティーリー・ダン)、リチャード・ティー(ポール・サイモン、ジョージ・ハリソン)、ジョージ・テリー(エリック・クラプトン、アバ)、スティーヴ・ガッド(ジェイムズ・テーラー、チック・コリア)等々だ。

例外は「ソルジャーズ」ぐらいで、『リヴィング・アイズ』の曲は、大半がバリーのファルセットなしで歌われている。これは商業的には賭けであった。たしかに、この方がアンチ・ディスコ派の消費者には受けがいいかもしれないが、同時に『サタデー・ナイト・フィーバー』ファンの不興を買う恐れがあった。現に、1981年10月に発売されたアルバム『リヴィング・アイズ』は、英国では73位、アメリカでもトップ40入りを逃すなど、チャート面ではふるわなかった。

ここでも、ほかにもっと大きな原因があったのだ、とバリー・ギブはいう。「僕がたどりついた結論は、この業界では、あまり成功しすぎると業界を敵にまわしてしまう、というものです」と、バリーは1987年にニューヨーク・タイムズ紙に語っている。「それに、運も悪かった。ディスコへの逆風に加えて、『リヴィング・アイズ』が出たのは僕たちが以前に所属していたRSOレーベルが解散しようとしているときでした。アルバムが出た翌週にはRSOの社長が解雇されたんです」

けれども結局のところ、『リヴィング・アイズ』は歴史に名を残した。BBCテレビの『Tomorrow’s World(明日の世界)』という最新テクノロジーを紹介する番組の中で、デモンストレーション用に製作されるCDアルバムに選ばれたのだ。CDというメディアが一般に出回るようになる一年も前のことだ。

プレゼンター役のキーラン・プレンディヴィルは、なんと、この新登場のテクノロジーを試すべく、CDにいちごジャムを塗ってみせ、「これでも『リヴィング・アイズ』は聞けるはず」と主張した。が、実際のところは、聞けなかった。いずれにせよ、ここでもビー・ジーズは新機軸を開拓したわけである。    (By Allison Rapp)

うーん、CDというメディアがレコード盤より丈夫だという点を強調したかったのかもしれませんが、普通、ジャムは塗りませんやろ(って、どこのなまり?)。

『リヴィング・アイズ』は、ビー・ジーズのアルバム中でもファンの評価が二分するもののひとつと言われています。同時に、Fever時代以前からのファンの間では「あのビー・ジーズが帰ってきた」と喜んだ人が多いのも事実。バリーやガルーテンが語っているような種々の軋轢の中で製作・発売されたので、思うようにできなかったせいか、ビー・ジーズ本人たちは「失敗作」として言及することが多いのですが、ファルセット偏重気味であった時代に比べすぐれたボーカリストとしてバリー、ロビン、モーリスの三者三様の魅力がひさしぶりに堪能できるアルバムでした。

数年前、ギブ家第二世代のミュージシャンによるGibb Collectiveのプロジェクトで、ロビンの長男スペンサーがこのアルバム中でのロビンの代表曲「Don’t Fall In Love With Me」を取り上げて、独自のインタープリテーションを展開してくれたのも記憶に新しいところです。

ところで、最近ビー・ジーズについて書かれる記事は、まあ当然といえば当然なのですが元ネタがあることが多いのです。最近ご紹介したハロウィーンのタイミングで出たバリー夫妻が「ロビンとアンディの幽霊を見た」という記事などがもろにそれです。なにしろキャリアの長いグループです。よほど彼らをフォローしてきた人でないかぎり、どこかから話をまるまる引っ張ってこないと、独自にソースを確認して、記事を組み立てるだけでとんでもない大仕事になるからだろうと思います。

このところそんな記事ばっかりで、ちょっとうんざりしていたのですが、今回のこの記事は「けっこうしっかり調べてるな」と思いきや、元ネタはほぼそっくりそのままLiving Eyesの英文Wikipediaでした。引用している箇所まで同じなので、この筆者はおそらく『The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb』も読んでいないんだろうな、と思います。

その中で、Tomorrow’s Worldの「Living Eyesジャム塗り」の話だけはちょっと目新しいかも、と思ったのですが、このCD紹介の回はほぼまるまるYouTubeにアップされていて、そこに「見ていただければわかる通り、CDにジャムを塗る場面などない。あれは都市伝説である」と注記がついておりました。

活動期が長いと、事実はこんな風にまた聞き風に歪んでいってしまうのか、ちょっと考えさせられました。早く直さなくてはと思いながら時間がとれずにいますが、ビー・ジーズの日本版ウィキペディアの記述もかなりひどく、さらにひどいことには、それをもとに記事が書かれたりもしているのが現状です。

実は最近、元モーリス夫人だったルルの自伝『I Don’t Want To Fight』を読んだのですが、その中にルルもプライベートで同行していた1972年の東京公演の話が書いてあって、それが私自身の記憶と違うのです。(ちなみに東京公演には二度とも行きました)というわけで、その部分を近いうちにご紹介したいと思います。

自伝といえば、『リヴィング・アイズ』でバリーが理想のサウンドを追求する過程で超一流のセッション・ミュージシャンが雇用され、それまでのバンド仲間がクビになった話は、ドラマーのデニス・ブライオンの自伝『You Should Be Dancing: My Life with the Bee Gees』にも登場しています。クビになった側からの視点で読むと、バリーにとってもデニス・ブライオンにとっても大変だったことが伝わってきます。この辺も近くさわりをご紹介しようかと思います。

最後にひとこと: それにしても「ビー・ジーズの曲をかけない」運動ってバリーが言ってたように一種の焚書だと思います。表現と芸術の自由を犯す考え方だと思う(ぷんぷん)。

{Bee Gees Days}

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