【2021年4月】バリー・ギブが語る、名曲の誕生秘話(American Songwriters.com)

American Songwriter.comが、バリーが最近行ったApple Musicのインタビューについての記事を掲載しました(オンライン版2021年4月7日付)。以下に記事の内容を簡単にまとめてご紹介します。

1958年、イギリス生まれの三兄弟、バリー、ロビン、モーリス・ギブは、家族そろって移住した先のオーストラリアのクイーンズランドで音楽活動を開始した。地元のレース場で歌うという契約が、1970年代にディスコ時代を席巻したこの三人組の素晴らしいキャリアの始まりとなったのである。「愛はきらめきの中に」「ステイン・アライヴ」「恋のナイト・フィーヴァー」など映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックからカットされてチャート首位を獲得したシングルの数々は、ディスコに夢中だった当時の音楽シーンで彼らをトップスターの地位に押し上げた。

80年代に入ると、彼らはそのソングライターとしての才能を、バーブラ・ストライサンド(「Woman In Love」)、ディオンヌ・ワーウィック(「Heartbreaker」)、ダイアナ・ロス(「Chain Reaction」)など、他のアーティストのために提供。ドリー・パートンとケニー・ロジャースは、ビー・ジーズが書いた「Islands in the Stream」を大ヒットさせた。この曲と「Heartbreaker」の2曲は、ロビンが、ビー・ジーズとして録音すればよかった、と願った曲でもある。けれどもバリーはEssential RadioでApple Musicのゼイン・ローと実施したインタビューの中で、こう語っている。「当時、ぼくたちの曲は放送してもらえなかった。だったら、せっかくの良い曲を無駄にして何になります? ぼくは、『他の人に曲を提供しようじゃないか。ぼくたちは、何よりも第一にソングライターなんだって、みんなに示してやろう』って思っていたんです。だから、まさにそれを実行したんです」

80年代は、三兄弟がそれぞれの芸術性をさらに深めた時代でもある。1983年8月、バリーはMCA Recordsとソロ契約を結び、1983年と1984年の大半を最初のソロアルバム『Now Voyager』のための曲を書いて過ごした。ロビンは3枚のソロアルバムを発表し、モーリスは1970年に出した初シングルに続く二枚目のシングルを発表した。

1988年、弟アンディがウイルス感染症に端を発して早世すると、バリー、ロビン、モーリスの3人は、再び結集して、アルバム『One』を発表。このアルバムには特にアンディに捧げられた曲「Wish You Were Here」が入っていた。続いて彼らはエリック・クラプトンと組んだチャリティ・プロジェクト、バンバリーズを実施。さらに1990年には『The Very Best of the Bee Gees』トリプルプラチナを達成している。まもなく、モーリスが、数年来苦しんでいたアルコール依存症の治療を開始。

その後、2001年までの間に、三兄弟は、さらに4枚のアルバム(『Size Isn’t Everything』『Still Waters』『This Is Where I Came In』)を発表した。2003年、モーリスが心不全により53歳で突然の死を遂げたじことにより、2001年の『This Is Where I Came In』がビー・ジーズにとって最後のオフィシャル・レコードとなった。ロビンは2012年に逝去、バリーがビー・ジーズのレガシーを担う存在として独り残されたのである。

「80代になったら、ああ、あんなことがあったなあ、とか言って、みんなで一緒に笑ってるんだろうなあって、いつも思ってたんです。まさかこうなるなんて、思ってもみなかった」 バリーはインタビュー中でローに対してそう語っている。「もう何のプレッシャーもなくなって、みんなただの老人になって…って。でも、そうはならなかった。人生ってそんなものですね。いつ明りが消えるのか、わからない。だから、ぼくはその事実を受け入れました」

破竹の勢いでスター街道を驀進したビー・ジーズだが、今のバリーが思うに、当時は兄弟そろって業界のことが何もわかっていなかったのだ、という。「ぼくたちがわかっていたのは、ただ、いい曲さえ書ければ、成功するかもしれない、ということでした」

三兄弟はソングライティング・チームとして、各人の曲のアイディアを歌詞で肉づけしてまとめあげ、それを緊密なスリー・パート・ハーモニーで歌ってみせた。家族間の信頼が彼らの武器であり、同じDNAを持つ者同士だけに可能なユニークな力学がそこにはあった。バリーは、曲作りにあたって、三人が共有していたサインがあるという。「もしいい曲なら、全員笑顔になっている。曲を書いていた部屋から出るときに、これはいける、という手ごたえがあった。それが僕たちのやり方でした。三人の意見が一致しなければ、何もやらなかった

彼らにとって最初のナンバーワン・ヒットになった「マサチューセッツ」は、彼らが実際に訪れたアメリカの土地がテーマである。港のツアーに参加して船に乗ったロビンが、着想を得て、セント・レジス・ホテルに戻ってきたのだ。(訳注 これだとロビンがマサチューセッツの港でツアーに参加したように読めますが、実際にはロビンが参加したのはマンハッタンのツアーでしょう。曲を書いた(歌った)段階で彼らがマサチューセッツに実際に行ったことがなかったというのは有名な話ですし、セント・レジス・ホテルはマンハッタンにある由緒ある名ホテルです)バリーは言う。「そこでみんながギターを手にとって、演奏しはじめたんです。ちょうど何もすることがなかったので。そしてどんどん曲ができあがっていったんです」

世間知らずだった彼らだが、やがて、スターの地位にとどまるにはソングライティングだけでは無理だと理解するにいたる。1976年のヒット「You Should Be Dancing」は、ディスコ時代のパフォーミング・アーティストであることの意味を彼らに教えたといえる。

「『You Should Be Dancing』は4部構成ですが、どんなグルーヴがいいのか、どんなテンポがいいのか、気合を入れて考えるまで、どうもしっくりこなかったんです。つまり、良い曲が書けても、聴かせ方がまずいとダメだし、その逆もいえる、ということです」

現在のバリーは人生経験をもとに書いているが、ビー・ジーズの全盛期にはみんなまだ若すぎたので、業界の同年代の人間たちから創作上の刺激を受けていた。1979年の「Tragedy」はレコード・プラネットで録音されたが、隣のスタジオではスティーヴィー・ワンダーがレコーディング中だった。「『Superstition』をレコーディング中だったんですよ。でね、まるで、『ぬわに~!!』って感じでしたね。壁越しに聞こえちゃったんですよ。だから、ああいうのを聞いて、ぼくたちは奮起して『Tragedy』を書いたんだと思いますね」

ビー・ジーズのヒット曲の中には時代を超えて、現代のアーティストにカバーされ、新たな命を吹き込まれた“クラシック”もある。けれども1977年の「ステイン・アライヴ」は2020年以降の今現在の世界では悲しい響きを帯びる。「いまあの曲を聞くと、歌詞が予言的だなあと思いますね。「ニューヨーク・タイムズ紙が及ぼす効果/男だって女だって 年取ってたって若くたって/みんなみんな生きのびていく」ですからね」

「でもねえ、心臓発作とかを起こしてあの曲のリズムに救われた人ってたくさんいるんですよね。医学関係の人たちがCPRに『ステイン・アライヴ』を使うようになってるんです。ぼくたちがコンサートをやっていたときとか、2年ぐらい前にぼくがコンサートをしていたときとかに、必ずファンの方から『ステイン・アライヴ』に合わせてCPRを受けたおかげで父が心臓発作から生還できました、とか言われるんですよ。ありがたいですよね。素晴らしいことだ」

ゼイン・ローのバリー・ギブ・インタビューは以下のリンクのApple Music Radioで聞いてください。

上の記事のもとになったインタビューは上のYouTubeリンクで聞くことができます。(近くこちらの全訳もご紹介したいと思います)

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