【タイムズ紙】バーバラ・ギブさん訃報記事

英タイムズ紙(オンライン版2016年8月17日付)
バーバラ・ギブさんの訃報記事

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去る12日に逝去されたバーバラ・ギブさんの訃報記事がタイムズ紙に掲載されました

以下に簡単にまとめてご紹介します。

1966年、オーストラリア。ビージーズが最初のナンバーワン・ヒットを飛ばしたとき、バリー、ロビン、モーリスの3人はこれを祝って、母親にシルバーフォックスの毛皮のコートをプレゼントした。「3 人が持って帰ってきたとき、わたしは寝ていたんです。そうしたら寝ているわたしに3人がコートをかけてくれたので、目をさましたら、素晴らしい毛皮に包まれていたのよ」

翌年、彼らは本拠地をイギリスに移して世界デビューを果たす。続く50年の間、バーバラ・ギブさんはポップ・ミュージックの世界でもっとも名高い兄弟アクトの母親として、喜びと悲しみを生きることになる。

喜びは、子どもたちが成功していく様子を見て、誇りで「はちきれそうに」なること。兄3人に続いて弟のアンディもヒット街道をかけのぼった。

悲しみは、兄弟が仲たがいをするありさまを見たこと。そしてどんな親にとっても本当につらい、自分の子どもに先立たれる経験をしたこと。バーバラさんは4人の息子のうち3人までを失っている。30歳の若さでなくなったアンディ。ドラッグとアルコールで苦しんだ後の死だった。モーリスは2003年に53歳で心臓発作で亡くなり、ふたごの兄ロビンは肝臓ガンで2012年に逝去している。

長兄のバリーと姉のレズリー・エヴァンズだけが存命中だ。ロビンの死後1年経って、バリーはただひとり残った悲しみを語った。「でも母を見ると、ぼくよりも母の方がつらいだろうとわかるんです」

若いころにはダンス・バンドで歌っていたというバーバラさんは活発で威厳のある、ランカシャー訛りの女性だった。初期にはビージーズのキャリア売り出しに貢献し、マネージしたこともあり、後年は息子たちがトラブルに見舞われるたびに守り手となってみせた。

アンディが薬中毒に苦しんだときには、病院や互助の集まりに同行した。「どんなにこちらが話しても、頼んでも、懇願しても、結局は本人が自分でそこから抜け出すしかないんです」

有名人になった息子たちについて公けに語ることはめったになかったが、2004年にオーストラリアン・ウィメンズ・ウィークリー誌の取材にこたえて、アンディの死後、家族が正常にもどるには何年もかかったと話している。夫君ヒュー・ギブも末っ子アンディの死を嘆いて、バリーにいわせれば、アンディの死後、「生きるのを止めて」しまった。酒びたりとなったヒューは4年後に76歳でこの世を去っている。死因は内出血だった。

モーリス・ギブはアルコール中毒になった。「モーリスが飲んでいると、悲しくて悲しくて」とバーバラは語っている。「中毒者更生会の集まりにも一緒に行きました。息子たちのために、できるだけのことをしてやらずにはいられなかったの。母親なら誰だってそうですよ」

1990年代初頭にアルコールを脱け出すことができたモーリスだが、2003年に腹痛を訴えて入院。腸閉そくの手術中に心不全を起こして帰らぬ人となった。当時82歳だったバーバラさんは悲しみを和らげようとカリブ海クルーズに出た。「苦しくてたまらなかったけれど、バリーとロビンのことを思って苦しい方が大きかった。3人ともいつもいつも一緒で、3人だけの世界を持っていましたもの」

けれども実をいえば、年を重ねてからの3兄弟は「いつも一緒」とはほど遠かった。バリーはロビンを亡くしたあと、「罪の意識と自責の念と後悔」に苦しんだと話している。

家族間の不和を嘆いたバーバラさんは、モーリスの死後、バリーとロビンに「一緒に新しい曲作りをするように」と強くすすめた。それこそが、ふたりに「心の平和」をもたらすだろうと信じていたのだ。バーバラさんの願いはかなわなかったけれど、18人の孫は大いなる慰めになったようだ。「いろいろなことがあったけれど、わたしは信じられないくらい幸運だと思います。泣くのは夜だけ。昼間のうちは生きなくては。家族みんなのためにしっかりしなくてはならないものね」

バーバラ・メイ・パスさんは1920年ランカシャー州ボルトン生れ。アーネストとノーラ・パス夫妻の間に生まれた3人きょうだいの長子だった。20代のはじめには、北部のダンスホールで兵隊相手のバンドの歌手をつとめ、1941年にマンチェスターのダンスパーティで将来の夫と出会った。ヒューイ・ギブ・オーケストラでドラマーを務めていたヒュー・ギブは、観客の中にいた彼女を見ると、「他のやつにドラムを任せてステージをおり、踊りに誘って、あとで家まで送った」のだそうだ。

バーバラさんは彼のバンドで歌いたいと思っていたけれど、彼の方からはその話は出なかった。「ミュージシャンは一家にひとりでたくさんだ、っていうんですよ。将来どうなるか、ぜんぜんわかってなかったのね」 結婚は1944年。長子のレズリーが生まれたあと、一家は短期間だけエジンバラに居を移している。その後、マンチェスター近郊でバーバラさんの母親と一緒に暮らすためにランカシャーにもどった。

二番目に長男のバリーが生れたころ、一家は今度はマン島のダグラスに引っ越して、薬局の階上に住んだ。バーバラさんが自分を責めていることがある。いれたての熱々の紅茶が入ったティーポットをテーブルの上に置きっぱなしにしたら、2歳だったバリーがのぼって、ポットをひっくりかえし、大やけどをしてしまったのだ。入院は2ヶ月におよんだ。けれどもバリーはなんとか命をとりとめ、3歳になったときにはふたごの弟たちが生れた。家庭ではバーバラさんがミルス・ブラザースのレコードにあわせて歌っていた。のちにバリーは、これがビージーズのハーモニーに影響したと語っている。

1958年、一家は長い船旅を経てオーストラリアに移住。バーバラさんは船旅の道中、息子たちの歌が乗客の良い娯楽になったと当時を振り返った。オーストラリアに到着した一家が最初に落ち着いたのはブリスベーン、続いてシドニーだった。ギブ兄弟は歌い続け、1960年にはテレビ出演するまでになっていた。当初はバーバラさんと夫君のヒューさんがマネージャーを務めていたが、やがて少年たちは地元のプロモーターからビージーズという名前を贈られて、1963年にはレコードデビューを果たす。「スピックス・アンド・スペックス」でチャートを制覇したのは3年後である。1967年、ギブ兄弟は世界的なキャリアを築こうと帰英を決意する。ギブ一家はそろってイギリスに帰ることになった。

フォックス・ファーのコートで装ったバーバラは、ロバート・スティグウッドをマネージャーに得たビージーズを誇らしく見守りながら、イギリスに帰ったときにはまだ9歳だった末っ子のアンディを育てることに余念がなかった。

「ほんとにいたずらっ子だったのよ。学校へ送り出しても、こっそりと帰ってきて、厩に行って2頭の馬と寝ているんですもの。お昼ごろにぶらぶらと帰ってくると全身から馬の肥やしの匂いがプンプンしているのに、本人は、ほんとに学校に行ってたんだよ、なんていうの」

アンディがソロでスターになったときに、バーバラさんもよく一緒に世界中を旅したが、アンディがコカイン中毒や鬱で苦しむありさまを見ては無力感にさいなまれた。心筋の炎症が原因でアンディが亡くなったときもバーバラさんがそばにつきそっていた。

1996年、夫君を亡くしたバーバラさんは、残った息子たちのそばで暮らすためにマイアミに引っ越した。地元でも活発に動き、マイアミに本拠がある糖尿病研究所の名誉会長を務めてもいる。研究所のバーバラ・シンガー理事は、こう語る。「その人の子どもを見れば、人となりがわかると言いますが、バリー、アンディ、モーリス、ロビンは、みんな人として素晴らしく、それぞれの分野で成功した人たちでした。バーバラさんがどんな人で、どんなふうに子育てをしたかが、それでわかります」

バーバラ・ギブさん、ビージーズの母親。1920年11月17日、英国ランカシャー州ボルトン生れ。2016年8月12日、フロリダで死去。享年95歳。

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