【2012年5月】ロビン・ギブ訃報記事(ガーディアン紙)
英紙ガーディアンに2012年5月21日付けで掲載されたロビン・ギブの訃報をご紹介します
ガーディアン紙のベン・クインによる追悼記事はビージーズの一員としてのロビンのキャリアをたどる内容。(全体に少しピントがずれていると感じられますが、音楽専門の記者ではないようなので、こんなものか……しかし「ディスコのパイオニア」という見出しだけはなんとかならなかったものでしょうか…)。昨年出たロビンのボックス・セットでもライナーを担当していたボブ・スタンレーがアーティストとしてのロビンについての一文を寄せています。
ディスコのパイオニア ―― ロビン・ギブ(62歳)逝去
ビージーズのメンバーとして、シンガー・ソングライターとして、『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックでメインとなる楽曲を提供、ディスコを世界的な現象にしたロビン・ギブがガンで逝去した。
ロビンは独特のふるえるような声の持ち主。ふたごの弟モーリス(2003年に逝去)、長兄バリーとともに、パフォーマーとして、ライターとして、数十曲ものヒットを飛ばし、レコード売上累計は2億枚にのぼる。
「マサチューセッツ」「獄中の手紙」「愛はきらめきの中に」「ステイン・アライヴ」などのヒットを持つギブ兄弟は、70年代ディスコ・ブームの中心となったファルセット・ハーモニーでポップスの歴史に名を刻んだ。
同時に、ビージーズは、『サタデー・ナイト・フィーバー』サントラのジャケット写真では、キラキラの笑顔、ロン毛、タイトな白の衣装姿で、時代の顔ともなった。
1949年12月22日、英国人を両親に、英王領のマン島で誕生したロビン・ギブは、バンド・リーダーだった父親のヒュー、歌手の前歴を持つ母親バーバラの応援を得て、チャイルド・アクトして兄弟デビュー。
1958年に一家がそろってオーストラリアに移住した後も歌い続けたギブ兄弟(brothers Gibb)は、頭文字BGをもとにBee Geesと名乗るようになった。60年代半ばに英国に戻り、英米両国でトップ20入りを果たした「ニュー・ヨーク炭鉱の悲劇」で最初のメジャー・ヒットを飛ばしている。
その後、ロビンはシングル「ラヴ・サムバディ」の共作者となったが、リード・ボーカルはバリー。これが軋轢を呼んで、ロビンは1969年にグループを去っている。
1970年に再編されたビージーズは、「ロンリー・デイ」で初の全米ナンバーワンを記録。翌年にはソウルの御大アル・グリーンもカバーした「傷心の日々」もヒットさせた。
彼らのマネージャーだったロバート・スティグウッドが制作した映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサントラに参加を請われたビージーズは、土日だけでほとんどの曲を書きあげたという。当時すでに人気だったディスコだが、音楽と映画が結びついてさらに大きな成功を呼び込んだ。
ディスコ・ブームの終焉はビージーズ人気にも影響したが、ギブ兄弟はソロ活動に集中する一方で、他のアーティストのためにヒット曲を提供し続け、1987年には自らチャートに返り咲く。
神経質で、禁酒主義・菜食主義者でもあったロビンの死に、多くの有名人が哀悼の意を表明した。中でも、シンガー・ソングライターのミック・ハックネルは、昨夜、ロビンを「偉大なる音楽人」とたたえている。
ロビンとは家族ぐるみのつきあいだったというDJのマイク・リードは、ロビンは「信じられないような声」の持ち主で、「声だけでなく、豊かな感情に満ち、偉大なライターでもあった」と語る。
ジョン・プレスコット元副総理はツイッターで「ロビン・ギブ逝去のニュースを聞いた。良き友であり、素晴らしいミュージシャンだった。誰も彼もがジョン・トラボルタみたいになりたかったのも彼のおかげだ」と発言。
2003年にふたごの弟モーリスを失ったことがロビンにとっては特に大きな痛手だった。モーリスの死から7ヶ月を経たインタビューでも、「モーリスはぼくの人生の分かちがたい一部だった。死んだなんて認められない。どこかで生きていると思うことにしている」と発言している。
その後、ロビンもモーリスを奪ったのと同じ消化器系の疾病に苦しんだ。
2011年には7年ぶりのソロ・アルバム『フィフティ・セント・キャサリンズ・ドライヴ』(仮題)のレコーディングを完了。
18ヶ月前に腸ねん転の手術を受けたが、腫瘍が発見され、大腸ガン、続いて肝臓ガンの診断を受けた。
先月、肺炎を併発してこん睡状態に陥ったが、家族によれば医師が「すでに人知は尽くした」と語った数日後に「予想外の回復」を見せた。しかし昨日、家族によって「非常な悲しみとともに」その死が発表された。≪ベン・クイン(ガーディアン紙)≫
ファミリーの中枢にあるとともに、独特の存在でもあった
個人的に、ポップスの世界でも異色なアウトサイダー的存在に惹かれてきた。いわゆるロック・スターらしさ抜きで、独特の存在感を放つような人たち……デル・シャノン、サブウェイ・セクトのヴィック・ゴダード、アダム・アント…。ロビン・ギブもまさにそうしたひとりだ。
子ども時代には放火魔だったという話がある。8歳にして火遊びに目覚め、ベッドのシーツからはじまって、あれよあれよという間に張り紙掲示板にも火を放つようになった。しかしやがてロビンはこうした破壊的エネルギーをボーカル・ハーモニーに向けるようになる。ニューヨークなら地下鉄の駅で武者修行をするところだが、ギブ兄弟の場合は公衆トイレで練習に励んだ。
バリー・ギブがピンナップ・タイプであり、ライオンにも似たグループのリーダーだった一方で、ロビンはライターとしてバリーと同じぐらい多作だったにもかかわらず存在の確立に苦しんだ。
しかし二番手的存在と見られていたロビンだが、やがてそうでもないというところを見せることになる。バリーがソロとして大ヒットにめぐまれない一方で、ロビンはグループを離れていた時期に、ディッケンズ風の苦しみを歌った「救いの鐘」をヨーロッパ全土で大ヒットさせるのである(1969年に全英チャート2位まで上昇)。
80年代初頭、ビージーズのブランドがまったく通用しなくなっていたディスコ後の世界で、ロビンは「ジュリエット」でまたもヒットを飛ばす。このアップビートなエレクトロポップの曲は、イギリスをのぞくヨーロッパ全土でトップ10入りを果たし、ドイツでは1位にまでのぼりつめた。他から距離をとり、独学で身につけたロビンの音楽は、普通のロックらしさというフィルター抜きで存在している。ロビン以外の誰に「オデッサ」なんて曲が書けただろう。氷山の上に取り残されて、「口で言えないほど牧師様を愛している」という妻にあてて手紙を書いている、という男の歌なんだ、これが。こんなのが書けるのは、はっきり言って、ロビンだけだ。≪ボブ・スタンレー (セイント・エティエンヌ) ≫
記事中に使用されている写真は1979年のスピリッツ・ツアーからのもので、銀色の衣装にRの文字入りのメダルをつけ、髪を赤く染めていたロビンです。この赤い髪の色は実は当時の愛犬ペニーの毛色に合わせた、とバリーがミソロジー・ツアーのステージで暴露して会場の笑いを誘っていました。バリーいわく、「そんなことをするやつなんてロブだけですよ!」。
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