バリー・ギブ、ロングインタビュー(「The Two」)全訳

既報の通り、音楽ジャーナリストのティム・ロクスボロとパム・コーカリーがDJを務めるニュージーランドのラジオ番組「The Two(ふたり)」に来年2月にオーストラリア/ニュージーランド・ツアーを控えたバリーが登場し、聞き手ふたりの素晴らしいフォローを得て中身の濃いトークを展開しました。この様子はこのリンクで聴くことができますが、このほどティムのブログでインタビューの聞き書き全文が公開されました(The Roxborogh Report2012年12月2日付け)。ごく一部編集されてはいますが、インタビューのほぼ全容が紹介されているといえる内容です。この全文翻訳を「日本のファンのために」とティムの好意で許可してもらうことができました。ティム&パム、ありがとう!

インタビューの最初で語られるようにティムは31歳、パムは56歳(バリーに言わせると「56歳? まだまだ子どもだね」)。そんなわけでこのインタビューはパムいわく、「あらゆる年代層による、あらゆる年代層のための」中身の濃いものになりました。

 

 ティム&パム(以下T&P): 今回が初めてのソロツアーになるわけですが、マイアミのハードロックでのコンサートなどウォーミングアップをされていましたね。感触はどうでした?

バリー: ハードロックの2日前にも糖尿病研究所のためにチャリティショーをやって調子をあげ、ハードロックでは1時間半ほど演奏しました。あれでかなり感じがつかめたと思います。なんといってもいいバンドなんだ、これが。ぼくなんかどうでもいいんです。バンドがすごいんですよ。モーリスの娘のサミーもいるし、ぼくの長男のスティーブンもリードギターで参加します。彼は歌もいけます。だからこれはあらゆる年代のためのコンサートといえるでしょうね。
T&P: このインタビューも、あらゆる年代のためのインタビューですよ~。するとこれはギブ王朝の第二世代お披露目のツアーにもなるのでしょうか。
バリー: これからどうなるのか知りたい気持ちはあります。ありふれた言い方だけれど、自分探しをしたい。自分が何者であるかを知りたいのです。いったいぼくはもう存在しないグループの一員なのか、それともぼくはまだソングライターとして歌手としてやっていけるのか? だからこれはぼくにとって冒険の旅であり、センチメンタルジャーニーでもあります。子ども時代を過ごした土地を旅していろいろと考えてみたい。ニュージーランドへも行きたい。それにワイナリーのことを聞いたからには、ぜひ行きたいですしね。だからこれはぼくにとって自分探しの旅なんです。
T&P: 考古学でいう発掘の旅みたいな?
バリー: (笑)古い骨が出てくるかもしれませんね。とにかく、いまいえるのは、ぼくにはプレイすることへの飢えがあるということです。完璧なミュージシャンたちと組んでいるし、間違いようがない。しかもやるのはずっとずっと愛してきた曲、ぼくたちが生涯をかけて一緒に書いてきた曲です。だからステージに立つだけでこれ以上ないほど幸せだろうと思います。そしてどこへ行っても、どこでステージに立っても、そこには弟たちもいてくれるはずです。
T&: 家族ぐるみのツアーというのは素晴らしいアイディアですね。
バリー: 舞台の袖にもギブ、テクノロジー担当もギブ、とギブだらけになるはずですよ。
T&P: ところでオーストラリアの人はよくニュージーランドの人間を馬鹿にしますが、あなたもそうですか、バリー?
バリー: とんでもない! ニュージーランドは素晴らしいところだと思います。ぼくたちは子どものころサーファーズパラダイスでマオリ・トルバドールをはじめ、いろんなマオリの人たちと仕事をしました。ビーチコーマーの向かい側にあるシェブロンではプリンス・トゥイとも仕事をしたし、近くにいていろいろと学びました。忘れられない思い出です。ニュージーランドは世界一素晴らしい場所のひとつです。ただアメリカの人間から見ると遠すぎるという感じがあるんでしょうね。
T&P: このツアーがすべてが始まった場所への回帰であることも考えあわせて、まずオーストラリアとニュージーランドでビージーズにとっての初めてのナンバーワンヒットになった「Spicks & Specks」の話から聞かせてください。この曲を書いたときの思い出などはありますか?

バリー: オシー・バーンという人と一緒にハーツビルでセッションをしたのですが、ぼくたちがスタジオを使う機会がなくて苦労していたのを彼が気の毒に思ってくれたんです。彼は肉屋の裏に小さなスタジオを持っていたんですね。そこでぼくたちは夜っぴて曲作りに取り組み、このときのセッションからいろんな曲が生まれました。そのひとつが「Spicks & Specks」で、そこからいろんなことが起こり始めて、うまく行き出したんです。スピン・レコードのトップだったナット・キプナーが出てくるまではあの曲がヒットするなんて思いもしなかったんですけどね。彼があの辺の曲をまとめてアルバムにしたので、ぼくたちは誰かの目に留まるんじゃないかとそれをNEMSとイギリスに送りました。「Spicks & Specks」はオーストラリアとニュージーランドではぼくたちが夢みていた成功に結びつきましたが、イギリスやヨーロッパでは鳴かず飛ばず。イギリスやヨーロッパでは、もうグループの時代は終わったという見方が優勢で、新しいグループと契約をする気もないという印象でした。で、ぼくたちも「そんなもんなのかな」と思ったのですが、結果的には違ってました。

T&P: 子どものころ持っていた将来の計画はどんなものでしたか? グラミー賞の受賞スピーチを練習してたとか?

バリー: (笑)いや、当時のぼくたちはグラミー賞の存在さえ知らなかったですね。ぼくたちがオーストラリアに着いたころに、ちょうとエルビスとかジョニー・オキーフ、コール・ジョイみたいな人たちが続々と出てきていたんです。すでに何年もキャリアを積んでいた人たちもいましたけれど、ぼくたちはそのころ初めて聞きました。でもとにかくグラミー賞の練習どころじゃありません。どうやって仕事にありつこう、どうやって家族を養おう、っていう感じでした。それが現実だったんです。お金がありませんでしたから、とにかくなんでもいいから仕事を見つけたかった。だからホテルや、もっと後になってからはシドニーの退役軍人クラブやラグビー・リーグ・クラブで仕事をしました。1回歌ってギャラはだいたい20ドル。とにかく食べることぐらいはできた。いいなと思うシャツがあればお金を貯めて買う。そんな暮らしでした。子どものぼくにとって、あれは、子ども時代は最高の時代でした。どんな子どもにも良い子ども時代を、とぼくは願います。

T&P: 自分が年を重ねるにつれてますますすごいと思うようになったのは、まだティーンエ―ジャーだったあなたたちがご両親を説得してオーストラリアからイギリスへ戻る決心をさせたことです。どうやって説得したんですか?

バリー: 両親も何か感じていたんだと思います。ぼくたちはイージービーツやシーカーズがイギリスに戻って大成功をおさめるのを見ていました。それにやっぱりビートルズ。いや、それよりホリーズかな。ぼくたちはホリーズとフォーチュンズに夢中だったんです。フォーチュンズ、覚えてるかな? 今は話題にのぼることもないのは本当に残念です。彼らこそ最高のボーカルグループだと思います。ほら、「You’ve Got Your Troubles」を歌ったグループですよ。とにかくホリーズ、フォーチュンズ、そしてビートルズのおかげで、ぼくたちもやらなくちゃという気持ちになったんです。ぼくたちだってハーモニーができるんだからイギリスにもどって試してみなくちゃって。で、まあ、それに近いことを実行したわけですね。で、これもぼくたちのキャリア全体について典型的なことなんですが、イギリスに行く途中もずっと言われたのはとにかく「絶対に無理だ」ということでした。「やめとけって。仕事さえあればいいんだから。やめとけって」ってね。でもぼくたちの夢は「発見」されることでした。意味もわかってなかったのに、とにかく「発見されたい」と思っていたんです。

T&P: 最近のインタビューで話してましたね。ロビンとモーリスが「ヒットを出さなくちゃ」といつもいつもあせっていたので、「これでいいんだ」とアドバイスしたのだとか?

バリー: 「いいんだよ」と言ってやったんです。ふたりはいつもパニック状態でした。ロビンは「とにかくもうひとつヒットを出さなきゃ」とあせっていたけれど、ぼくはラジオで「ビージーズのニューシングル」が流れるなんていう段階はもう過ぎていたと思うんです。もうそんな年齢じゃない。もうこのトシでは若い世代にアピールできない。この問題は常にぼくらについてまわりました。子どものころは大人世代にアピールできなかったし、トシをとれば今度は若い世代にウケなくなる。

T&P:すると、これまでの業績ですでに十分に満足とお考えですか?

リー: 十分に満足ということはありません。ぼくは考えるのは音楽のことばかりという人間ですからね。家族のことを別にして、ですが。ぼくには趣味もないんです。音楽とそして子どもたちがぼくの全人生です。音楽は常に目の前にあって、他のことなんて考えられないし、曲作りを止めることもできない。音楽は決して止ることがありません。グループが消滅し、メンバーが亡くなっても、音楽は止まない。音楽はぼくの仕事です。

T&P: すると今でも曲を思いついたりはするのでしょうか?

バリー: ぼくにとって曲作りってね、たとえば今こうやって話しながら言われた言葉のどれかがぼくにとって曲のタイトルになったり、そういうやり方なんです。人の言葉が発想のきっかけになる。

T&P: ダイハード・ファンとしては、ニューアルバムを期待したいところです。ロビンの未発表曲にあなたのボーカルを加えてプロダクションをする、というアイディアなどもあると思うのですが。次には何を?

バリー:できることはします。とにかくこのショーは弟たちとぼくたちファミリーについてのものになります。次にしたいのは、弟たちのために最高のトリビュートを実現することです。それにはぼく自身がもっとも愛するアーティストたちに連絡をして、一緒にやってもらいたい、これまでで最大のトリビュートにしたい、という形しか考えられません。次はそれです。

T&P: 家族を失うというのは本当につらい体験だと思いますが、そこから学べるものはあるでしょうか?

バリー: 本当につらい10年でした。モーリスを失ったのは本当にショックだった。たった2日で行ってしまったのですから。完璧に元気で、病気の気配も何にもなかったのに。アンディはイギリスで亡くなりました。心臓の発作を起こしてロビンの家の近くにある病院で亡くなりましたが、あれもあっという間だった。次にロビン。ロビンが病気になったとき、というよりロビンが病気だとぼくが知ったときにはすでにもう悪くなってからずいぶん…2年半ばかりも経っていました。そしてロビンも行ってしまった。だからぼくは弟たちを全員亡くしたことになります。何よりつらいのは母のことです。ぼくじゃない。ぼくなら何とか耐えられる。

T&P: .ご子息たちが本当に素晴らしい成功を勝ち得た、という事実がお母さまにとって慰めになると良いのですが。実際、事実だけを見ても信じられないぐらいすごい。ソングライターとしてはポール・マッカートニーに次いで史上二位の業績ですよね。全米、全英でナンバーワンになった曲が合わせて21曲。レコードの売り上げが2億2千万枚。全米トップ10に一度に5曲を送り込んでいた唯一のソングライター・チーム。こんなのは単に数字の話であって、つまるところ人間は人間ですが、人間としても素晴らしい5人のお子さんとリンダさんという素晴らしい伴侶をお持ちだし…(こちらがバリーの業績を数えているあいだ、バリーは謙虚に「ああ…ありがとう、ティム、ありがとう」とつぶやいていました)。

バリー: 結婚前に一緒に暮らした3年間も数に入れればぼくたちは一緒になって46年になります。結婚したのは1970年だから、あとは数えてください。その前から一緒に暮らしていましたから、リンダはぜーんぶ見てきたんです。リンダは、キャリアの波に乗っていくポップグループが体験するすべてを、ぼくと一緒に体験してきてくれたんです。いつもそこにいてくれた。ぼくにとって大きな心のよりどころです。お互いの人生について、ビージーズのキャリアのすべてについて、彼女となら話ができる。リンダ自身が経験しているんですからね。こうして人生を分かち合い、同時に5人の素晴らしい子どもを持ち、6人も素晴らしい孫を持ち、これ以上望むことはありません。

T&P: このつらい時期に、リンダさんはどんな風にあなたを励ましたのでしょう?

バリー: リンダは本当に頼りになるんです。いつもぼくの後ろにいて、慰めたり、時には厳しい態度もとってくれます。どちらもほんとにありがたい。めそめそするな。しっかりしろ。音楽をやれ。自分の仕事に戻れ。それしかない。そう言ってくれる。そしていつもぼくの力になってくれる。大切な人です。そしてぼくにとっては家族も大切です。家族としては成功しました。今では大家族です。スウェーデンにも家族ができたし、ユダヤ系の家族も増えた。ラトビアにも、もうひとつユダヤにも、家族が増えていきました。すごいことです。

家族の輪がどんどん広がって、お互いに親しみ、大切に思い合っています。世界一の美女の何人かはぼくの家族にいるんですよ。ぼくはとても恵まれていると思います。

T&P: あなたの家族観は素晴らしいですね。ちょっと古風な感じなんですね。

バリー: 自分でもそんなに一般的な家族観ではないだろうと思いますが、ぼくたちにとってはこれが普通なんです。1967年ごろに家族として出発して、以来ずっと一緒に歩んできました。そう、確かに古風かもしれませんが、ぼくは古風な人間だし、リンダもそうなんです。コンピュータなんかなかった時代の流儀で幸せにやっています。

T&P: 古風なんですね。
バリー: 古風でいいじゃないですか。悪いことじゃない。すごく古い曲が好きだっていいし、ぼくはお気に入りの古い曲がいろいろとありますよ。移民の歌も好きだし、ブルーグラス以前にアイルランドやスコットランドの人がアメリカに持ち込んだ曲が好きです。つい最近もリッキー・スキャッグズと一緒にグランド・オールド・オプリーで歌いました。

T&P: ちょうどそのことを聞こうと思っていたんです。彼はほんとにあなたを庇護しているっていう感じでしたね。あのとき歌った「傷心の日々」はこれまでで一番感情がこもったバージョンだったように思いました。

バリー: ありがとう、ティム、ありがとう。一番つらい時に助けてもらいました。彼はもともと熱心なクリスチャンですからね。あの場所に連れていって、いろいろわからせてくれたんです。そしてショーに出してくれた。ぼくがああいう音楽を本当に愛していると知ってましたから……。ああいったショーはほんとに純粋主義で簡単に出してはもらえないんですが、なんとぼくはグランド・オールド・オプリのステージに立ってしまった。リッキーの庇護を受けて、とても楽しい時間でした。あれを経験してしまって、ああいう音楽への愛情がますます深まった気がします。これからアルバムを出すことがあれば、ああいう音楽が入ったものになるし、スキャッグズさんにも必ず参加してもらいます。「Soldier’s Son」という曲を書いたのですが、それも間もなくテレビで放送されるはずなので、楽しみにしています。オーストラリア・ツアーの前に発表して準備を整えたいのですが、(デイビッド)レターマンのショーあたりに出すのかな。

T&P: このあいだオーストラリアのテレビでしたインタビューで、子どものころ、ブリスベーンのレッドクリフ桟橋で「3人ともこれから決してものを盗んだりしない」とあとのふたりに約束させたそうですね。本気でした?

バリー: まったくもって本気でしたね。ふたりともぼくより3つ年下で、3人ともまだ子どもだったというのを忘れないでください。ぼくらは万引きの常習犯になっていたので、このままではいずれ警察のやっかいになるんじゃないかと心配でたまらなかったんです。特にウルワースでやってました。あそこはやりやすかったんです。もうなくなってしまったけれど、ウルワースは万引きしやすくてね。なんでもかんでも万引きしていましたが、あるとき、このままこんなことを続けて刑務所行きになるか、心を入れ替えて有名になるための努力をするか、道はふたつにひとつしかない、と本気で思ったんです。レッドクリフの桟橋の真中でふたりに滔々と話しました。いまポケットの中にある盗品を全部海に捨てよう、ってね。その通りに実行したので、ペンナイフとか、イミテーションのリングとか、誰もわざわざ盗もうと思わないようなものがどっさり…いまでもどこに捨てたか場所を言えますよ。たぶん今でもあそこに沈んでるでしょう。

T&P: 亡くなったのがあなたで、弟さんたちの方が生きていたら、「みんなバリーがいてくれたおかげだ」と言ったんじゃないでしょうか?

バリー: さあ、どうかな。

T&P: あなたは素晴らしい”お兄さん”だったんじゃないでしょうか。
バリー: うーん、ぼくは長男だし、長男役を務めてもきました。必ずしも感謝されるばかりではない役まわりですが、それが実際のところです。まず、やっかいごとを避ける努力をする。実際にやっかいなことになったらあえて助けずにおくこともあります。でもそうした事態に立ち至らないように常に努力します。だんだんぼくがビジネス面を取り仕切るようになったのも、誰もやりたがらなかったからなんです。おかげで出版を含めてビジネスについていろいろと学び、物事がきちんと運ぶようにしてきました。でも”兄貴”風を吹かすというのは良くない。みんな平等に”兄弟”なんだから。だから年を追ってモーリスもロビンもだんだんいやがるようになりました。でも誰かがしなければならないことだったので、まあ言ってみれば、ぼくがその損な役回りを引き受けたわけです。

T&P: 言い争いもしたそうですね…。何かとっても後悔していることがあるようですが…。

バリー: 意見の対立が起こったのはずっと後になってから、いろいろ意見をいう人間が出てきたせいです。はじめはひとつの家族だった。母がいて、父がいて、ぼくたち3人にアンディ、それに今はオーストラリアに住んでいる姉のレスリーがいて。そろってひとつの家族でした。ところが全員が結婚すると、家族が4つになった。アンディも結婚しましたからね。それでいろんなことが変わりました。妻の側にもそれぞれの夫についての意見があるじゃないですか。そこで「どうしてうちの夫はもっと歌わせてもらえないのか」とか「ロビンとか、バリーとかに比べてうちの夫の持ち歌が少ないのはどうして?」とかいう話になるわけです。こういうことがどんどん起きて、それにも対処しなくてはなりませんでした。ぼくらは事実とても複雑な人間でもあるので、これはとても難しかった。ありがちな問題です。4つの家族ではそうなりますよ。

T&P: 話を戻しますが、リッキー・スキャッグスと亡くなったビルボード誌の編集者だった故ティモシー・ホワイトがビージーズについて、ダイレクトな形はとっていないけれどビージーズの歌にはスピリチュアルなテーマが流れているものが多く、それがビージーズの大きな魅力のひとつだというようなことを言っていますね。「Too Much Heaven」とか「Spirits Having Flown」、それに「Nothing Could Be Good」のような歌では「全能の神」という言葉さえ出てきます。これはその当時の一過性の関心ですか。それとも一貫した流れなのでしょうか。

バリー: 宗教とスピリチュアル性はソングライターにとって絶対的にピュアな道具です。たとえばマウンテンミュージック(初期のカントリー&ウエスタン)やブルーグラスミュージックでは宗教が唯一のテーマでした。聴けばとにかく宗教がテーマであることが実感されます。宗教性はロックンロールやエルビス・プレスリーのような人たちの音楽にも時代を超えて脈々と流れ続けました。エルビスが歌うゴスペルを聴いてごらんなさい。宗教はこれまでもこれからも変わらぬテーマでしょう。誰であれ道を究めたアーティストの作品は必ず真の宗教性に裏打ちされているはずです。

T&P: 昨日、あなたの曲を聞いていたら涙が出てきました。そんなにも人の心を打つってどんな感じですか?

バリー: ぼくもまた心を打たれる側なのです。それがいわゆる”未知のプラスアルファ”です。このプラスアルファのある曲だけが、人を泣かせたり笑わせたり、心の奥に住み着いていつまでも忘れられない曲になったりする。このプラスアルファというか、何か隠れた要素のようながあって初めて、特定の曲が人に愛されるのだと思います。
 1970年にぼくたちが書いた「傷心の日々」はアメリカではナンバーワンになったけれど、他の国では一位になれずじまいでした。ところがアメリカ以外でヒットしなかったのに、1970年以来、なぜか曲が独り歩きして、最終的にぼくたちの代表曲のひとつになりました。だからラジオがどうとか、どのぐらいかかっているかとかなんて実は関係ないんです。曲はこの空の下に存在し、命を帯び、人が知るところとなる。「ユー・アー・マイ・サンシャイン」という曲を知ってますよね? でもチャート何位まで上がったかなんて知らないでしょ? チャート入りなんかしてないんですよ。それでも世界中の人があの曲を知っている。ぼくが言っているのはそのことなんです。

TIM & PAM: (ここでお礼の言葉やこれまでティムとバリーがしたインタビューの話などが出ます。これが2005年以来5度目のインタビューで、バリー自身が一番気に入っているのは2009年にロンドンでしたインタビューだそうです)

バリー: ぜひまた会いましょう。いつも応援してくれてありがとう。その気持ちがとてもありがたいです。とても素晴らしい…だからこそこうやって話せるのだと思います。

 途中のジョークまじりのやりとりなどは一部省略されていますが、ティムのブログに掲載されたインタビュー記の全文をご紹介することができました。このあともツアーに向けたバリーのインタビューが何本か登場していますので、順にご紹介していきます。

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