訳詞コーナー:『ウィッシュ・ユー・ワー・ヒア』

君がここにいてくれたら…
君がここにいてくれたら…

3月10日は1988年に30歳の若さで亡くなったギブきょうだいの末弟アンディ・ギブの命日でした。

そこで1989年のアルバム『One』に収められたこの追悼の歌を取り上げようと思っていました。

そこに3月11日金曜日の大震災…。

その後、このサイトの更新を再開するまでにもさまざまな思いがありましたが、今ここでビージーズのレクイエムともいうべき『Wish You Were Here』を追悼の思いを込めて、取り上げたいと思います。

改めて聞き直してみると、これは深い悲しみの歌であり、同時に、遺された者が背負い続ける胸を噛むような悔恨の歌でした。

君の人生は続いている
他の人間の心の中で
ぼくの愛は はるかな
海の隔たりほどにも強い

夏の歌が
頭の中に流れ続けて
君を感じる また君の顔が見える
逃れようもない
君を失って
ぼくは全てを失った

ああ 君がここにいてくれたら
ぼくの涙を拭いてくれたら
あのころは良かったね
君がいてくれたら
ぼくの名前を呼んでくれたら
でも ぼくは狂っている
失ったものは大きい
ぼくはどうしようもなくずたずただ
愛を捨てようとしても
あきらめることができない

そしてぼくは目覚める
他の人間の夢の中で
(こんなのただの見せかけだ)
嘘に決まってる
誰が現実なのか これから決めるんだ

血のように赤い薔薇は
決して枯れない
夜の闇の中で
炎と燃える
ぼくは恐れない
なんだって差し出そう
そっちにいる君にこの声が届くなら

ああ 君がここにいてくれたら
ぼくの涙を拭いてくれたら
あのころは良かったね
いま 季節はめぐり
孤独の時が訪れる
でもね この心は頑なだ
キスしてさよならを言おうとすれば
ぼくたちの愛を捨てようとすれば
また嵐が吹きすさぶ

君がいたら
いてくれたら
ぼくの心は石のように頑なだ
キスしてさよならを
ぼくたちの愛を捨て去ろう
でも やっぱり ぼくはあきらめられない

素敵な時代だったよね
君がここにいたら
そう 君がここにいてくれたら…

出だしの2行は、常套句でいえば、「君はぼくの胸の中に生き続けている」ということなのでしょうが、単なる「思い出は死なない」という決まり文句を超えて、「君は人生を生き続けている」という最初の1行に、すでに亡くなったアンディがバリー(そう、これはやはり誰よりもバリーの歌なのだと私は思います)の中でありありと人生を歩み続けている、というイメージが切ないまでに伝わってきて、ここでは敢えて「君の人生は続いている」と訳しました。

2行目の「他の誰か」というのは、「アンディを愛する人たち」(ファンも含めて)ともとれる曖昧な表現ですが、これはやはり一人称の歌い手(アンディの兄たち)のことでしょう。彼らの中に思い出として生きているというより、まるでもうひとつの現実のように生き続けているアンディを歌ったのがこの歌なのだと思います。

3~4行目の「as ~ as ~」は中学英語で登場する「as A as B」(BのようにAだ)という用法です。ふつう愛情をあらわすたとえに海を使うときには「海の広さ」や「深さ」がよく使われます。けれどもここで使われたのは「海と海との隔たりほどにも」という独特なイメージでした。愛情の強さをたとえるために、引き離された孤独のイメージが使われて、いっそう悲しみが際立っています。

ロビンは2003年に発表されたソロアルバム『マグネット』(Magnet: Tour Edition )でこの曲を取り上げ、歌詞の一部に手を加えて発表しました。バリーにとっては神聖な曲であったためにバリーはこの改変を悲しんだとも伝えられています。「いつも大切な君だった、君はぼくの全世界だった」と歌うロビンのバージョンは悲しみに満ち、偶然ですが、アルバムの発表直前になくなったモーリスを悼む歌のようにも聞こえます。(実際にはロビンが「Wish You Were Here」の改変版を録音したとき、モーリスはまだ元気だったわけですが)

どちらも美しいビージーズ・バージョンとロビン・バージョンの一番の違いは、「自分を責める気持ちが歌われているかどうか」であるように思えます。バリーはその後、折りに触れて、アンディと最後に話したときのことを語っています。年の離れた兄としてあまりにアンディを愛する自分の気持ちがかえって過保護となって、アンディの自立と立ち直りを妨げているのではないかと思ったバリーは、「突き放す」という形をとって、アンディの最後の日々には心を鬼にしてきびしく接したそうです。その結果、「最後の電話では喧嘩になってしまった。そのこととぼくは一生をかけて向き合っていかなければならない」とバリーは語っています。

繰り返しあらわれる「この心は頑なだ」という表現は、自分を責めるバリーの叫びのように私には聞こえます。そしてまた、ふたごの弟モーリスが「どこかで生きていると思わなければやっていけない」と言ったロビンも、「自分だけが生き残ってしまったことをモーリスにすまなく思う」と語っています。

また、改めて繰り返し聞いて思ったのはこの曲がとても美しいということです。そしてこう言ってよければ、とても耳当たりが良い。コーラスは美しく心地よく、悲しみに満ちた歌詞に耳をすまさなければ、まるで美しいラブソングでも聞いているようです。血を吐くような悔恨と悲しみの歌が、こんなに耳にやさしく聞こえてしまう。そこに私はバリー・ギブという稀有のポップ・アーティストが背負った十字架を見るような気がします。けれどもある友人にこの解釈を話したら、ファンではないその友人は、「本当に悲しいと血を吐くようには歌えないのかもしれない」と言いました。そうかもしれません。

英語の歌詞はこちら。ビージーズはアルバム「One」からのオリジナル・バージョン(YouTube)を、ロビンについてはモーリスの死後間もなくヨーロッパのテレビ局で歌ったライブ版(YouTube)のリンクをそれぞれご紹介しておきます。

愛する人たちのすべてがいまここにいてくれたら、と願いながら、そしていま再び闘病中であるロビンの少しでも早い回復を祈りながら…。

4月13日 アマデウス

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