【アーカイブ 2012年】Mojo誌によるロビン・ギブ追悼記事「私たちはビー・ジーズの魂だった存在を失った…」
「5月20日に私たちはロビン・ギブを失った――ビー・ジーズの魂であった存在を」……マーク・ペイトレスによる追悼記事(Mojo誌2012年8月号)より
記事のタイトルは、ビー・ジーズ1970年のアルバム、再結成第一弾でもあった『トゥー・イヤーズ・オン』に収められた曲「Man For All Seasons」 (邦題はなぜか「恋のシーズン」)からとられています。ちなみに、このビー・ジーズの曲のタイトルの方は、信念に殉じた廉潔の士として知られるトーマス・モアの生涯を描いた1966年の史劇映画『わが命つきるとも』からとられています。
以下に内容を簡単にまとめてご紹介します。
1970年はじめのソロ公演ポスターには、「ビー・ジーズの声」ロビン・ギブと書かれていた。が、長いガン闘病を経て5月20日に亡くなったロビン本人は、もっと現実がわかっていた。ビー・ジーズの魂と呼ばれることもあったロビンだが、むきだしの、せつない感情をポップスのメロドラマに変える彼の能力は、ギブ兄弟が三人そろって絶妙なバランスが保たれたときに初めて完璧に発現すると、彼自身よく知っていたのだ。「ぼくたちは創造に関しては同類だ」と彼は2008年にMOJO誌上で述べている。「それぞれの人生で何が起きていようと、何をしていようと、お互いの考えていることは本能的にわかる」と。
1970年、三兄弟がグループを再結成したとき、ロビンはビー・ジーズは「まだこれからだ」と発言した。 その段階で、ビー・ジーズはトップ40入りするようなヒットとは1年ほどご無沙汰していたことでもあり、これはロビンは、1969年3月にビー・ジーズを飛び出して、父親が被後見人扱いを要求すると発言した当時のような混乱した心理状態からまだ回復していないのか、と心配した人も多かった。だが、悲しげな瞳、華奢な体躯、震えるような声のかげに隠れて、ロビン・ギブという人は、ビー・ジーズというグループの実力について揺るがぬ信念を抱いたファイターだったのだ。
ペイトレスは、「この信念には確たる裏付けがあった」と書いています。兄バリー、ふたごの弟モーリス同様に、「ロビンは幼少時から培われた、生来のものともいうべき、ポップ音楽に対する本能を持っていた」と。
1958年にマンチェスターからブリスベーンに移住したビージーズは、お子様バンドとして人気を得る。そんななか、ピンナップ・タイプのハンサムだったバリーと明るく親しみやすい個性のモーリスの間にはさまれて、自分の役割を確立するためにロビンは内面を深く追求せざるを得なかった。「ぼくは声ではなく、心(ハート)で歌う」と、後年、ロビンは語る。
1967年にイギリスに戻ったビー・ジーズは、その翌年に大ブレークした(訳注:実際には「マサチューセッツ」がイギリスで彼ら初のナンバーワンになったのは67年のことなので、67年にすでにブレークしていたといえます)が、人を惹きつけたのはソウルフルでありながらセンチメンタルでもあったロビンの声だった。しかし70年代に入って、ビー・ジーズは、ロビンいわく「デッドゾーン」入りし、キャバレー出演も余儀なくされたが、これは自分たちの在るべき姿ではない、と奮起したこともあって、ロビンの信念は1975年に「ジャイヴ・トーキン」が世界的ヒットとなって裏付けられる。続く5年間をロビンは誇らしげに「夢が実現した」時代と呼び、「ぼくたちは今後も決して破られないような売り上げを記録した」 と語っている。
スーツ姿で歌うサイケデリックの時代に中心的な役割をつとめたのがロビンだった(ナンバーワンになった「マサチューセッツ」「獄中の手紙」等の曲に聞かれるロビンの暗くせつないビブラートは、時代の不安の反映でもあった)なら、ディスコ時代はバリーのファルセットの時代であった。それでいて、1969年に分裂の渦中にあったときでさえ、バリーはロビンの方が「ずっと良い声」の持ち主だったと認めている。ロビンは、また、マネージャーのロバート・スティグウッドによれば、「信じられないほど素晴らしいイマジネーション」の持ち主で、ロビンの野心作である「オデッサ」(アルバム『オデッサ』のタイトル・トラック)は、「かつて書かれた最高のポップソングに数えられ」た。
2008年に失われた傑作(訳注:2015年に発売された『救いの鐘』ボックス・セットに収められた未完・未発表だったアルバム『シング・スローリー・シスターズ』等の曲)について聞かれたロビンは、「先世紀の作品だしね」と不思議に無関心だった。話す声が奇妙なほどジョン・レノンにも似ていながら、ロビンは聴き手側の反応で成功の是非を測るタイプだった。そしてこの基準だけに照らしても、ポップスの世界はもっとも成功したアーティストのひとりを失ったのである。しかし初期ビー・ジーズを代表する稀有な声の持ち主であり、グループの第二期黄金時代の原動力のひとりでもあったロビン・ギブは、また、はるかにそれ以上の存在でもあった。
同じ中北部の出身(ジョン・レノンはリヴァプール、ギブ兄弟はマンチェスター)で訛りが似ていたこともあり、モーリスの特技のひとつは「ジョン・レノンの物真似」だったそうですが、ここでロビンの話す声がジョン・レノンに似ていたというのは、ある意味褒め言葉でもあるのだろうと思います。しかしまあ、ロビンの声は唯一無二のものであった、とそれがしは思っていて、時にはロビンの歌う声より話す声の方が好きだったりもしました。
歌う時は震えるような高音をトレードマークにしていたロビンですが、成年後の話す声は兄弟の中で一番低い、深いバリトン。ものすごくよく通る声で、少しぐらいあいまいな内容の発言をしていても、妙にきっぱり聞こえる(特に若いころ)のは、この“強い”声の成せるわざだったかもしれません。ふたごだったせいもあってモーリスともども比較的小柄で華奢だったロビンですが、中身は相当なツワモノ・ファイターであったことは、彼の話す声によく現れていたような気がします。
ロビン・ギブが亡くなったのは2012年5月20日。ただしこれはイギリス時間で、日本をはじめアジア各国、オーストラリア、ニュージーランド等に住んでいる人間にとっては、時差の関係でロビンが亡くなったのは21日朝でした。ロビンは4月はじめにこん睡状態に陥り、一度は意識を取り戻して戦い続けていました。周辺には「長期戦になりそうだ」という雰囲気があったのですが、その雰囲気が微妙に変化した…と感じていたら、早朝にロンドンからの訃報…。その後何日も何日も電話恐怖症でした。
– 年に一度の命日なんかじゃない。毎日が君を思う記念日だ。 (ロビンがモーリスに寄せた言葉)
{Bee Gees Days}
© 2009 - 2024 Bee Gees Days. 当サイト記事の引用・転載にあたっては出典(リンク)を記載してください。