【テレグラフ紙(英)】バリー・ギブ・インタビュー「僕たちは”かっこ悪くて一緒にいるところを見られたくない”ような存在だった」

テレグラフ紙(2016年10月7日)に掲載された
バリーのインタビュー

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アルバム『イン・ザ・ナウ』のイギリスでの発売日に日刊紙テレグラフ紙(オンライン版2016年10月7日付)に掲載されたバリー・ギブのロング・インタビューです。

以下に簡単にまとめてご紹介します。

ソロ・アルバムを出す元ビージーズのスーパースター、バリー・ギブが、長年のグループの浮き沈みについてニール・マコーミックに語った

70歳にして、バリー・ギブはついにソロ活動に賭けようとしている。「実のところ、弟たちは僕がソロ・アルバムを出すのを望みませんでした。僕の方も同じだったと思います。僕たちは仲良くやりたかったけれども、自分が認められたくて、お互いの成功に脅威を感じていました。心の奥底では、そうだったと思います。常に複雑な感情がありました
バリーは4人兄弟の最年長、弟たちはすべて世を去った。一番下のアンディはバリーが曲を提供しプロデュースして、ポップスターとして大ヒットを連発したが、ドラッグ中毒に苦しんで、1988年に30歳で没した。残るふたりの弟は人生の大半をビージーズのメンバーとしてバリーと共に歩み、グループとして大きな足跡を刻んだが、モーリスは2003年に53歳で、ロビンは2012年に62歳で他界。「どうにか切り抜けることができたけれど世界が足元から崩れるような体験」だったとバリーは言う。

バリーは非常に暖かく、おだやかで、リラックスした雰囲気で、誰もが認めるスーパースターにしてはびっくりするほど謙虚な印象だ。
ニュー・アルバムが素晴らしい、というと、「それは嬉しいなあ」と返ってきた。『イン・ザ・ナウ』は、たおやかなメロディ、心をかきたてるグルーヴ感、深い詩を併せ持った豊潤なコレクションだ。ロック、ポップ、フォーク、ディスコ、カントリーに、輝くようなバリーのハーモニー、独特のビブラート唱法で、最初から最後まで夢中で聴ける、世界屈指のソングライターによる傑作である。「捨て曲は入れたくなかったんです。二度とソロ・アルバムを作ることはないかもしれないですしね」とバリーは言う。

今年の8月に92歳(訳注:実際は95歳)の母親を亡くしたばかりのバリーは、彼女の思い出にこのアルバムを、アルバムを締めくくる曲「虹のおわりに」を弟たちに捧げている。
「音楽では、現実の人生では言えないようなことが言える。心の中をすっかり打ち明けるような感じです」
バリーはロビンの最期が近いときに「虹のおわりに」を書いた。
「ロビンは死の床についていました。そのとき、この歌がふいに生まれた。求めていたものが何であれ、その夢はかなったのだ、という歌です。僕は病院でロビンに向かってこの歌を歌いました
ロビンの死後、バリーはもうキャリアもこれで終わりだ、と思ったという。
「何をする気にもなれない時期がありました。テレビばっかり見ていましたね。これで終わりだな、と思ったんです。長いあいだ、諦めの中にいました
けれどもまた少しずつ、ソングライターとしての本能が頭をもたげはじめた。「何かをしたくなった。ソングライティングは得意でしたしね」
マン島で生まれ、オーストラリアで育ったビージーズは、1958年にファミリー・グループとして結成され、世界中で2億2千万枚のレコードを売り上げる。ナンバー・ワンに輝いた曲はアメリカで9曲、イギリスで5曲。イギリスでは1966年から2001年の間にトップ20ヒット26曲をたたき出している。
「とにかくレコード作りには貪欲でした。一時期には、弟たちと一緒や単独で、1日18時間もスタジオにいた時もあります」
バリーは末弟アンディ、フランキー・ヴァリ(「グリース」)、ディオンヌ・ワーウィック(「ハートブレイカー」)、バーブラ・ストライサンド(「ウーマン・イン・ラヴ」)、ダイアナ・ロス(「チェイン・リアクション」)、ケニー・ロジャース&ドリー・パートン(「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」)のために、大ヒット曲を書き、プロデュースした。
「いっとき、『ビージーズなんて、一緒にいるところを見られるだけでかっこ悪い』というような時期がありました」とバリーは言う。流行が変わったときに彼らは「ディスコのポスター・ボーイ」として四面楚歌状態に陥ったのだ。
「グラミー賞(1981年)でバーブラと僕はベスト・デュエット賞を取りました。ふたりで舞台の袖に立っていたのに、賞をくれなかったんですよ。バーブラはすっかり気分を害していました。とうとう賞は渡してもらえませんでした。
授賞式のあとのパーティで、バーブラはまだちょっと気分を害していたときに、近くにミート・ローフが立っていたんです。当時、彼は人気の絶頂でね、カメラマンが『みなさんが一緒のところを1枚撮っていいですか?』って聞いたら、ミート・ローフが『とんでもない、やめろよ』って言ったんです。まるで僕たちが汚いものみたいに」

今ではバリーはもっと尊敬を受けている。コールドプレイはグラストンベリーにバリーを招待し、一緒に「ラヴ・サムバディ」と「ステイン・アライヴ」を演奏した。
「すごーく緊張したけど…みんなが僕たちの曲を知っててくれたのは嬉しかったです」
バリーは新世代に認められていることが、本当にうれしいようだ。
「ノエル・ギャラガーは、いつも僕の音楽を聴いてる、と言ってくれました。僕にとっては、すごいことです。オアシスが大人気だった当時、僕たちは過去に属してましたからね。僕たちの時代じゃなかった」
ノエルとはまた会うことになっている。「一緒にカレーを食べに行くことになっています。僕たちふたりなら、兄弟でバンドをやるとはどういうことか、話せますね」
ギャラガー兄弟同様、バリーもビージーズの人間関係は常にピリピリしていたことを隠さない。「ものすごく激しい議論をしたことも多いし、何週間も口をきかずにいてから、また仲直りしたこともある。だからって兄弟でなくなるわけじゃない。1969年には解散したけれど、弟たちは(1970年には)僕の結婚式に来てくれて、また話すようになって……で、気がついたら、また一緒にスタジオ入りしていました」
ギブ兄弟はいつも一緒に仕事をしていたけれど、リーダーはバリーと目されていた。「僕が最年長ではあったけれど、何を決めるにも全員一致ということにしていました。誰かひとりでも不満なら、やらなかったんです」
スタジオ内でのそうした軋轢や妥協が懐かしいかどうか、バリーは考え込む。「自分勝手に、好きにやる方が楽ですよね。確かに昔は楽だったことはないな…」

                     -- 二―ル・マコーミック  

アルバム『イン・ザ・ナウ』は本日発売!(訳注:イギリスでの話です)

うーん、素晴らしいはずのグラミー賞受賞式でそんな悲しいことがあるなんて…。まるでいじめのようですね。この「ポスター・ボーイ」のイメージが「ホーム・トゥルース・ソング」に歌われているのでしょう。

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