リドリー・スコット監督、ビー・ジーズとのなれそめを語る【GQ誌】
ビー・ジーズの映画はどうなるのか、アメリカのGQ誌に87歳にして意気軒高なリドリー・スコット監督が今年(2025年)の予定などについて縦横に語るロング・インタビューが掲載されました。すでにYahooニュースその他で報じられている通りですが、撮影の予定などについては昨秋当サイトでご報告した通りで変更はないようです。
しかし、なんとまあ元気な御方であることか! 読んでいてかなり楽しいインタビューでありますが(途中、思わず声を出して笑ってしまった箇所もありました)、GQ誌には日本語版もあるようですから、いずれ全訳が出るかもしれませんし、版権問題もからんできますので、今回はビー・ジーズに関連する箇所だけをざっとまとめてご紹介します。
実は当方、寡聞にして、リドリー・スコット監督のことをそれほど知りません。『エイリアン』と『ブレードランナー』ぐらいは観たことがありましたが、実をいえば、バリーが話題にした『グラディエーター』もバリーのインタビューを読んだ後で急いで鑑賞したぐらいです。(でもバリーが「あれは僕たち3人のことに思えた」と発言しているのには、かなりぐっとくるものがありました。それについてはまたいずれ書こうと思います)
とにかくスコット監督といえば、ビー・ジーズと組んで1970年代の前半に東欧で怪奇映画(と言われていた)『キャッスルX』を撮影する予定だったが、それがぽしゃったということが、ビー・ジーズをフォローしてきた人間にとっては大きな関心事ですが、このロング・インタビューの中でスコット監督はそのときの彼らの印象などにも触れています。しかしあちこちで書きましたが、この映画が20代前半の彼らで完成されなかったのはかえすがえすも残念です。
話をスコット監督に戻すと、この記事の取材は監督のロンドンのオフィスで実施されたようですが、そこには監督の子ども時代の成績表みたいなものが飾られていたとか。「ああ、思い出の品なんだなあ」と思うところですが、これがものすごく悪い成績で、なんと国語がC(A、B、CのCですから日本風にいうと優良可の可ですね)。ローマ帝国などを題材にして壮大な歴史ドラマを撮りあげた監督にしてラテン語の成績もぱっとせず。総評は「やる気が感じられない」という感じのもので、なんと31人のクラス中31番目、つまり成績が最下位だったのだそうです。
部屋には『ブレードランナー』公開時にニューヨーカー誌に掲載された名高い酷評記事も飾られており、どうやら監督は「栄光の過去」を思い出すというタイプではないらしい。たしかに、この記事のタイトルそのものが、『リドリー・スコットはふりかえらない(Ridley Scott is not looking back)』というのです。なるほど!
老いてなお過激な精神、というのは、ルー・リードの晩年の作品の評価で読んで印象に残っている表現ですが、リドリー・スコット監督もそのタイプかも!?
「歴史や地理の授業中は、居眠りばかりしていて、おれ、こんなとこで何してんだろう、と思っていた」という監督はある日、決意をかためて校長に会いに行きます。「先生、どうしてフランス語やラテン語や三角法を勉強しなくちゃいけないんですか? 使うことなんかないのに」
その結果、監督は激怒した校長にお尻を叩かれたて、「ものすごく痛かった」そうです。『小さな恋のメロディ』のトム・オーンショーを思い出させるエピソードですね。
巨匠クラスの監督はみな歳月を経るうちに、作品と作品の間隔があいてくるというパターンがあるというのですが、スコット監督だけはその型にまったくあてはまらず、1年1作のハイペースで映画を撮り続けているのだそうです。しかし2025年はこのペースを守らず、「1年に2本撮る予定」だとか。そう、その2本目がビー・ジーズの映画『You Should Be Dancing』になる予定です。
「”そろそろ、少しゆっくりしては?”とか周りの人に言われたりしないんですか?」という質問に対し、スコット監督の答えは、
「誰もそんなこと言いませんよ」
じゃあ、もし言われたら?
「いいかげんにしろ。お前とおれは違うんだよ」と答えるそうです。
学科の成績はぱっとしなかったけれど、美術だけはAだったスコット氏は商業美術の畑で活躍しますが、夢はやはり映画を撮ること。なんとか映画を撮りたいとあちこちトライするうちに同じような経歴のアラン・パーカーが先に映画作りに成功したときには、「自殺したかった」そうです。(ここでアラン・パーカーの名前が出るのも面白いですね)
当時、スコット監督にも二度ほど惜しいチャンスがありました。ひとつは『First Blood』という小説との出会い。「これは良い映画になる」とピンと来て、ワーナー・ブラザースに売り込みをかけますが、「いいところに目をつけましたね~。実はもう当方は映画化を進めているんですよ」との答え。この映画が後の『ランボー』だそうです。確かに目のつけどころはすごい! ただモノではないわけです。
そしていよいよ、ビー・ジーズとの出会いが登場します!
商業美術の世界でのスコット監督の手腕を見たロバート・スティグウッドが、人間関係がこじれ「一緒に仕事をしたくない」ともめているビー・ジーズを復活させるには、「一緒に映画を作るのが良いのでは」と思いついて連絡してきたのだそうです。
ロンドンの北にあるスティグウッド邸をたずねたスコット監督は、すでに自分の業界では成功していましたからロールス・ロイスに乗っていってスティグウッドを驚かせたとか。スティグウッドの家は「立派だったが、チューダー式と言ってもほんものではなくまがいものだった」そうです。(この辺のチクリという感じは面白いですね)スコット監督自身は現在、1360年に建てられたほんもののマナーハウスに住んでいるのだとか。(この辺は歴史のあるプリベンダル邸に住んでいたロビンを思わせます。ロビンもたしか子どものころ、音楽の成績が悪かったはず(笑))。
スティグウッドはスコット氏のアドバイスを受けて、映画『キャッスルX』の舞台を中世にすることにしました。そして…
話しながら電話をしたところ、「1台、2台、3台のロールス・ロイスがやって来て、中からビー・ジーズが出てきた……ものすごく感じがよかった。お互いに口をきかないのに、私に対してはすごくいい感じだった」 そこでビー・ジーズにイングマール・ベルイマンの映画を観なさいとすすめておいて、スコット監督は『キャッスルX』の脚本の共同執筆にとりかかった。鉄のカーテンの向こう側にあったブダペストでロケハンもしていたのだが、そのとき、資金の目途がつかなくなったという連絡が入った。その後、二度とビー・ジーズに会うことはなかった。
ああ、なんて惜しい! のたうちまわりたくなるぐらい惜しい話です。これが実現していたら、フィーバーはなかったかもしれないけど、まったく違う彼らの成功を見ることができたのかもしれません。
というのは昨年までの話。今回、スコットは長らくくすぶってきたビージーズの伝記映画の制作を引き受けることに同意したからだ。「私はビージーズの労働者階級的な面が好きだったよ」。そして、「これは兄弟間のライバル関係についての物語だ。さらに、彼らはアンディを失う。アンディは30歳で薬物過剰摂取で亡くなった(訳注 これはよくある誤解です。薬物は長い目で見てアンディの体調には影響したでしょうが、彼がオーバードーズが直接の原因で亡くなったという事実はありません)。彼らは運がよかったんじゃなくて、天与の才があった。素晴らしいストーリーだ」
こうしてロンドン郊外にあるバリーのイギリスでの邸宅で二度目の邂逅が実現しました。「皮肉なことに、これまたほんもののチューダー様式じゃなくて、まがいものだった」というスコット監督の観察眼には思わず笑いましたが、
「バリーとは話があいましたか?」
という質問に対しては、スコット監督は、
「今では向こうも私を知っていたからね」
と答えています。初対面の時にはまだまだ新人監督でさえなかったリドリー・スコット氏ですが、それから数十年の時を経て大監督になったわけですから、自負の念が感じられますね。
ビー・ジーズの映画の撮影が半年遅れる理由については、昨秋の記事にも書いたようにスタジオ側との条件交渉が決裂したことが原因で、抗議しても聞いてくれなかったので、「ひとつ忠告しておく。私は手を引く。次の作品にかかってしまうぞ、と言ってやった。それでも聞く耳を持たなかったので、実際に次の作品にとりかかることにした」
いずれ条件は折り合うだろうとスコット監督は考えているようで、とりあえずビー・ジーズの映画は今年の2作目になる予定で、今のところは中断しているとのことです。
「連中、あまりにも大きな譲歩を求めてきた。だから、”それなら、次の作品に行くぞ!”」と言ってやったんだ。こちらが出した条件が気に入らなかったので、”そういうことなら、次の作品にとりかかることにするぞ”ってね。私は高くつくかもしれないが、腕はめちゃくちゃいいんだから」
という発言あたりを見ると、どうも監督に支払う金額を映画会社がねぎったんでしょうか。いずれにせよ、「ビー・ジーズの映画は秋に撮影入りする予定」なのは変わらないようです。
ところで『キャッスルX』の話題が出てきたのは1972年(後半?)だったと記憶しています。初来日後のことで、このころ彼らはすでに”再結成し仲直り”していたわけですが、”まだ数年間はもとのようにうちとけられなかった”と彼ら自身語っています。スコット監督との初対面でお互いに口をきいていない様子だったというのも、”まだ気まずくてお互いに気をつかっていた”せいで、”不仲だったから”ではないのかもしれませんね。
{Bee Gees Days}
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