【1977年5月】(米Rock誌)ビー・ジーズのNY公演取材記

アメリカの音楽誌「Rock」1977年5月号に掲載されたニューヨークのビー・ジーズ取材記です。76年12月に北米で実施された『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』ツアーの要となったニューヨーク公演のキャンペーンが取り上げられています。76年12月20日のロスでの最終公演が『ビー・ジーズ・グレイテスト・ライヴ』になったわけですが、この記事からも”フィーバー”以前にすでにビー・ジーズが全米で安定した人気を獲得していたことがわかります。

ただ、同じころのインタビューに、「ビー・ジーズというとそれなりに知られているけれど、いまだに世界中のどこに行っても普通に通りを歩いていて、誰もぼくたちに気づかない」という彼らの発言がありました。これが一変して、一種ヒステリックな人気が出るのも”フィーバー”の時代です。

実際、この段階で彼らはヒット曲を出し、ヒット・アルバムを出し、新機軸で評価され、「さらに変化し、進化していきたい」と創作面でノッていたわけですから、”フィーバー”が破壊したものは確実にあったといえるでしょう。

なかなか洒脱なこの取材記は、後にハリウッドに渡って脚本家として一家を成したウェズリー・ストリックの署名記事です。当時はロック・ジャーナリストとしてこのRock誌等に寄稿していました。ウェズリー・ストリックはそれこそ『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』のフランク・マーシャル監督の監督デビュー作『アラクノフォビア』の脚本も書いています。

ビー・ジーズの全米ツアー本部がオープンした。ニューヨークの5番街と6番街の間、57丁目にあるシックなメゾネット・タイプの店舗だ。キーストン・コップの衣装をつけたガードマン(実は本当に警官)が警護にあたっていて一般人は中に入れない。中ではいくたりかのマスコミ関係者がシャンペンとオレンジ・ジュースを飲んでいる。

このシャンペンとオレンジ・ジュースが気に入ったので、ベテランのバーテンダーに「これ、美味しいですね。なんていうんですか?」と聞いてみた。バーテン氏、肩をすくめて、「シャンペンとオレンジ・ジュースです」とだけ。それでも食い下がったところ、この美酒はミモザと呼ばれているようだ。ミモザを何杯かひっかけて待っていると、ビー・ジーズが到着した。

一列になって入ってきたギブ兄弟。毛皮のコートに、にっこにこの笑顔。連れに「どれがモーリスで、どれがロビンで、どれがバリーだ」と聞いてみる。彼女、『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』のジャケット写真をじっくりと見ていたのだ。3人が着ているジャケットの胸元に名札が付いている写真である。

これからビー・ジーズに取材するのだから、誰が誰だかわかっていないとまずい。連れは、バリーだけはすぐにわかった。長身に栗色の髪、ハリウッド・スターのようなハンサムだ。あとのふたり、ロビンとモーリスがぱっと見にわかりにくい。基本的に似たような顔立ちで、髭の長さも同じぐらい。「モーリスの髪が短い」と、連れが言う。なるほど。覚えておこう。あとで役に立つかも。

ビー・ジーズはそそくさとツアー本部の奥へと消えていった。私たちも、そそくさと続き、ついでにミモザをさっと一杯。外には数十人ばかりの子どもたちが群らがって「バァ~リィ~!」と変声期前のメゾソプラノで叫んでいる。

壁面ではビー・ジーズのコンサートのスライド・ショーが展開されていて、メンバーひとりひとりが写しだされている。私たちは、先ほどの情報をもとに、明滅するコダカラーの画像が切り替わる前に「バリーだ」、「モーリス…いや、ロビンだ」とささやきあう。突然、連れがこちらの肩をたたいた。ビー・ジーズ本人たちがすぐ後ろを通っていったのだ。歩道で待つファンのところに出向くところだった。

私たちも、すべからく後に続いたが、ふと見ればビー・ジーズTシャツ・コーナーががら空きではないか。「M」の棚へ行って、『ビー・ジーズ Here At Last』のアイロン式Tシャツをコートのポケットにつっこむ。

するとすぐにアシスタントがとんできて、Tシャツは「売りもの」ですが「ご入用ですか」と聞いてきた。私たちはにっこりとTシャツを返すと、「見てただけです」と説明。それからやや緊張しつつ、もう1杯ミモザをいただいた。

その間、連れの方は、無料プレゼントの”Bee Gees Here At Last”缶バッジや表に”Here At Last”、裏にはPALのマークが入ったしぼんだ黄色い風船を頂戴していた。

ビー・ジーズは12月2日に行われる彼らマディソン・スクエア・ガーデンでのデビュー・コンサートの正味売り上げをPALニューヨーク市警アスレティック・リーグに寄付したのである。ビームNY市長がホスト役をつとめ、ビー・ジーズのマネージメントであるロバート・スティグウッド・オーガニゼーションが(12,000ドルを投じて)資金を提供した記者会見/ランチの席上で、このチャリティが発表された。

76年秋、全米を股にかけたビー・ジーズの全米ツアーで、マディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートは4番目の開催地にあたる。彼らは、トロントからニューオーリンズ、ニューヨーク、ロサンゼルスと各地のコロシアム、スタジアム、スポーツ・アリーナで演奏することになっている。過去18カ月の間に、ビー・ジーズは5曲のヒット・シングルを連発。最新アルバム『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』からの「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」とせつせつたる「偽りの愛」などだ。この記事がお手元に届くころにはこのアルバムはプラチナセールス確定だ。

熱心なお子ちゃまファンたちが、まだ「バァ~リィ~」と叫んでいる。お目当ては色浅黒いギブ家のお兄ちゃんだ。シャッター音が響き、フラッシュが光り、ズームが迫る。私たちは最後のミモザで乾杯し、オレンジ・ジュースは手に持った。

翌日の午後、シェラトン・ホテルのロビー。待つこと10分、ルームサービスのメニューをはしからはしまで暗記するほど読んで時間をつぶしていたら、約束の3時になった。エレベーターで移動する。いざ21階へ。緊張しつつ、ビー・ジーズの部屋のドアをノックする。ノックしたが、音が小さすぎたらしい。もう一度ノックしなおすと、バリー・ギブがドアを開いてくれた。

「バリーです」と自己紹介。バリーの後に続いてスイートに入る。問題のロビンとモーリスは椅子にへちゃっと座り、テレビの音を消して「ポパイ」を見ていた。ロビンが自己紹介してくれたので、”髪が短いのがモーリス”という貴重な情報を思い出す。

バリーがハイネケンをついでくれた。サー・ウォルター・ローリーのたばこも1本ちょうだいする。まず、これまでの歴史についてお願いします。ビー・ジーズ(曲じゃなくてギブ兄弟自身)はまだそれほど知られていないので。実に「あなたたちが兄弟だって知らない人もいるんですよ」なんちゃって。

「生れはマン島」とバリーが応じてくれた。「イングランドとアイルランドの間にある、アイリッシュ海に浮かぶ島です。ぼくたちが生れて4年後に一家でマンチェスターに引っ越しました。それから2年後に、今度はオーストラリアに移住しました。1958年のことです。オーストラリアで9年過ごした後、67年にイングランドに戻りました。だから、まああっちこっちと動いてきたわけです」

「父は30年間ドラマーをしていて、それから…えーと…8年、9年ほどぼくたちのパーソナル・マネージャーをしてくれました」とモーリス。

「父が面倒を見てくれていたのは僕たちのキャリアが国際的になるまでです」とバリー。「国際レベルになればいろいろと役に立つコネクションもできてくると、父も知っていたので。現在、父はぼくたちのステージ・マネージャーで、ライティングなどの仕事をしてくれています」

「電気会社の仕事を辞めてぼくたちの面倒を見てくれたんです」とモーリス。「母が父のバンドのステージにのぼって歌ったのが母とのなれそめ」

オーストラリアにいたころの初期キャリアで影響を受けたのは?

「子どものころに聞いていたのは」と、バリーが記憶をたどる。「ニール・セダカのレコードや、ミルス・ブラザーズ、エヴァリー・ブラザーズ、レイ・チャールズ、フォー・シーズンズ…

「オーストラリアではアメリカのレコードが主流だったんです」とモーリスがさらに情報を追加。「その後、イギリス・ブームが到来。イギリスのグループの最初のレコードはホリーズ。それから、もちろん、ザ・ビートルズ。もちろん、グループというグループはザ・ビートルズに影響されてましたもんね。でもぼくたちはニール・セダカのハーモニーの方に影響されていたな」

ギブ兄弟はミュージシャンとして正式な訓練を受けているのですか? 「楽譜は読めないし、書けない」とモーリス。ピアノで”フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン”を弾けって頼まれても、できないな」

「お願いだから頼まないでほしい」と、ロビンが不機嫌を装ってひとこと。ふてくされたように椅子にもたれて座り、つまらなそうに片目でカラーテレビ画面のオリーブオイルを追っている。

「音楽院なんて行ったことない」とモーリス。

「精神病院には10年間いたけど」と、ロビンが口をはさむ。「認定されたんだよね。ゴールドレコード認定じゃなくて、要介護認定」。モーリスとバリーが笑いだす。「まあ、ぼくたちのオーストラリアでのヒット歴はすごいから」とロビンはクールに言いつのる。「13曲連続チャート落ち」

ビー・ジーズってオーストラリア最大の人気ロック・グループだったんじゃ?

「ああ、その噂を広めたのはぼくたちです」と、ロビンがにっこり。

「オーストラリアにいる間は、認めてもらえなかった」と、モーリス。

「9年かけてようやくヒットが出せた」とバリー。「”スピックス・アンド・スペックス”という曲です」

「オーストラリアを本拠地にしていると、名前が売れるのはニューギニアとタスマニアまで」と、モーリス。「ぼくたちはそこから離れて、国際路線を目指すことにしたんです」

若きギブ兄弟は5週間かけて航海し、1967年2月にイングランド入りする。2ヵ月後、マネージャーとして、レコーディングとパブリッシングにロバート・スティグウッドの後ろ盾を得て、「ニューヨーク炭鉱」を発表。

「あらかじめ、NEMS宛てでブライアン・エプスタインにテープを送っていたんです」とバリー。「当時、ブライアンとロバートは組んでいたので。ロバートから電話をもらった時点では、ぼくたちは彼のことを知りませんでしたけど。なんか、”スティグウィード”さん、って聞こえたかな」

「”スティグウィード”だか、”ステンチウッド”だかね」と、モーリスがくすくす笑う。「1週間後には彼と契約してました」

ビー・ジーズはロンドンのポリドール・レコードの階段で「ニューヨーク炭鉱」を書き上げた。当時、この曲がシングルとしてヒットしそうだとわかってました?

「門番には大ウケだったな」と、ロビンがにやにや。

「ぼくたち、経験がなかったから」と、モーリス。「ロバートに会うまで、ヒット性なんてものを知らなかった。パサデナのKRAQラジオが1カ月間、アーティスト名を出さずに”ニューヨーク炭鉱”をかけ続けてくれました。もちろん、みんな、”ああ、これ、ビートルズが偽名で歌ってるんだな”って思ったみたいね。”ラヴ・サムバディ”を出すまでは、ビー・ジーズが存在することも誰も知らなかったから」

ジャニス・ジョプリンのコズミック・ブルース・バンドの痛烈なカバーを得た「ラヴ・サムバディ」に続いて、1968年のビー・ジーズは「獄中の手紙」「ジョーク」など一連のヒット曲を飛ばした。1969年にはロビン・ギブがソロキャリアを打ち立てるべくグループを去った。モーリスとバリーはくじけずにビー・ジーズの名前でアルバム『キュー化ンバー・キャッスル』を発表したが、やがて彼らも分裂。

ビー・ジーズ第一期の終焉をもたらしたのは何か、話してもらえますか?

「言っちゃ悪いけど、その話ばっかりで」と、モーリス。

「ぼくたちのそれぞれがビー・ジーズなんてもうたくさんと感じていた」と、バリーがズバリ。「それぞれがソロでスターになりたかったんです」

「18歳の男の自尊心ってもんですよ」

ソロになったロビンはデビュー・シングル「救いの鐘」を世界中でヒットさせた。モーリスとバリーも全英チャートを制した「トゥモロウ・トゥモロウ」と「想い出を胸に」で反撃した。分裂時代のギブ兄弟は激しいライバル争いを繰り広げていたのですか?

ライバル関係は常にありました」とバリーは言う。「グループだった時もです。それが原動力になっている。分裂していたときも、お互いに話はしていた。ヨーロッパのマスコミが大げさに書き立てただけです」

「ぼくたち、お互いに大っ嫌いだった」と、ロビンは反論する。

「15年もやって来たんだもんな」と、モーリスが考えこむように言う。「別れるのは当然の帰結だったと思う。時間を置く必要があった。もちろん、親父は大ショックだったし、業界の人たちにもわかってもらえなかったけど。だけど同時に、また再結成することも当然の帰結だった。まだまだ未熟だったってことだな」

「一緒にやっていたことの素晴らしさを知った時に再結成しました」とバリー。鳴り物入りの再結成だった。71年の「ロンリー・デイ」はビー・ジーズにとって初めての全米ナンバー・ワン・シングルとなる。アルバム『トゥー・イヤーズ・オン』は「ぼくたちの最低の作品だった」とバリーは認める。「まだ、お互いの顔色をうかがいながら、そろそろっとやり直しはじめたところだったから」

モーリスは続くアルバム『トラファルガー』にも否定的だ。「どっぷり」とため息交じりに言う。「ストリングスどっぷりだもんな。バリエーションに欠けていたよね」

続く3枚のアルバム『トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン』『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』『ミスター・ナチュラル』は、ロビンに言わせると、「あてどなくさすらった2年間」だそうだ。

「スランプでした」とバリーは認める。「”ライフ・イン・ア・ティン・キャン”はちょっと前衛的すぎた」 つまり、流行らなかった、と。「当時書いた曲が悪いとは思わないけど、内向的だったと思う」 つまり、流行らなかった、と。「聴き手の方を向いて書いていなかった」

「それからどんな曲が求められているのか、流れを感じ取ろうと努力し始めた」と、モーリスがにっこり。つまり、流行りはじめた、と。

1975年のモンスター・アルバム『メイン・コース』はディスコのDJたちを驚愕させた。いったい、何があったんですか?

アリフ・マーディンに出会ったんです」とバリー。「良いプロデューサーを探していると宣伝してみたら、どうやら、アリフの方も前々からぼくたちをプロデュースしたいと思ってくれてたみたいで」とモーリスが口を出す。「だから自然な流れでしたね。アリフに”ジャイヴ・トーキン”を聞かせたら、”これだ、これだ。この路線で行くべきだ!”って」

アングロサクソン系の白人であるビー・ジーズがブラックミュージック、アーバンミュージックに挑戦するのって変だとは思いませんか?

アベレージ・ホワイト・バンドやボウイが変じゃないのと同じ」とバリー。「でもディスコが究極の到達点でもないんです。ダンス・ミュージックの優れた形態だとは思います。とてもハッピーで、きちんとやりさえすれば素晴らしい雰囲気が生まれる。ぼくたちにもやれるなんて思ってもいなかったけど。ファルセットで歌えるなんて思っても見なかったから」とバリーは笑う。「黒人にも受けているのが嬉しいところです。白人のバンドがブラック・ミュージックを演奏しても気を悪くしたりしないでいてくれる」

アルバム”チルドレン・オブ・ザ・ワールド”はバラエティに富んでいる」と、モーリスが指摘してくれた。「全部ディスコじゃない。全部R&Bでもない。自分たちでもこんなのできるとは思っていなかったような曲でいっぱいです。ちょうど誰かがやって来て、ぼくたちに魔法の妖精の粉をもかけて、目をさましてくれたような感じ」

「これからの何枚かのアルバムではいろいろと新しい方向に行くつもり」と、締めくくりの言葉はバリー。「ぼくたちひとりひとりに違う個性がありますからね。モーリスとロビンとぼくのそれぞれにいろいろなアイディアがあるんです」

ーー by ウェズリー・ストリック ”Rock”誌1977年5月号

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