【2025年8月】「兄弟愛のグループ ビー・ジーズ」(後編)

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「兄弟愛のグループ」後編です。

「1978年には数回だけビー・ジーズに取材することができました。一度、マイケル・シュルツ監督の『サージャント・ペッパー』の撮影現場を訪ね、バリー・ギブと(やはり出演中だった)ピーター・フランプトンと一緒に、カルバーシティにある、かのMGM映画スタジオの黄色いレンガの道を歩き回って午後のひとときを過ごしたこともあります。

ジョージ・マーティンが指揮するオールスターをそろえたフィナーレに出演した豪華な顔ぶれはといえば………デル・シャノン、ボビー・ウーマック、ジョージ・ベンソン、ヘレン・レディ、ジョニー・リバース、ミニー・リパートン、マーク・リンゼー、ジャック・ブルース、モンテ・ロック 三世、アル・スチュワート、ジョン・メイオール、アラン・ホワイト、ホセ・フェリシアーノ、ティナ・ターナー、ピーター・ヌーン、ペイリー・ブラザーズ、キム・フォーリー、マーガレット・ホワイティング、グウェン・ヴァードン等々です。

この作品は、MGM の現経営陣のもとで制作された最後の映画でした。

MGMのメインエントランス・ゲートにいた警備員が僕に気づいてくれました。僕たちは、カルバーシティのエル・マリーノ小学校に一緒に通った仲だったのです。彼は、エルヴィス・プレスリーが『スピードウェイ』を撮影した時に使っていた駐車スペースの使用許可と、全エリアへのアクセスパスを手渡してくれました。

昼休みになると、幼なじみの彼は、ジュディ・ガーランドやクラーク・ゲーブル、フランク・シナトラが使った楽屋など、MGM の世界を案内してやると言ってきかないんです。僕たちふたりは、ケイリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ジェームズ・メイソン主演のアルフレッド・ヒッチコック監督の『北北西に進路をとれ』の巨大なロビー用ポスターに感嘆したりしました。

MGMの敷地内で、僕はモーリス・ギブに、ビー・ジーズの最新スタジオアルバム『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』について聞いてみました。このアルバムからはヒット・シングル「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」が生まれています。前作『メイン・コース』に比べ、このLPははるかにハードなサウンドになっていました。

❝「もっと緊張感のあるアルバムが欲しかった」というのがモーリスの弁だった。「メイン・コース』は少しばかり多彩すぎた。いろいろな方向性がありすぎた。『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』では『メイン・コース』のR&Bテイストをさらに一歩前に進めたかった。僕らは常に方向性を確立しようとしている。グループには指針が必要だけれど、実験性についてもオープンでなくちゃいけない。『ミスター・ナチュラル』を作った時には、明確な方向性に欠けていた。めくらめっぽうやってみてたんだけど、あのアルバムからはいろいろ良い点が生まれたというのもあるにはある」

ギブ三兄弟はそろって、とにかく、『ミスター・ナチュラル』と『メイン・コース』のプロデューサーだったアリフ・マーディンのおかげが大きいと口をそろえる。スタジオでの新しい技法やテクニックをいろいろ教えてくれたのだそうだ。

「僕たち、スタジオでのやり方がマンネリ化していたんです」とバリー。「そう認めざるを得なかった。そこでジェリー・ウェクスラーがアリフを推薦してくれたんです」

彼らはプロデューサーのトム・ベルやリチャード・ペリーとも打ち合わせしたが、具体的な成果は得られなかったそうだ。

「アリフとの仕事は素晴らしかった」とロビン。特にモーリスとの組み合わせはばっちりでした。アリフは僕たちのレコーディング・スタイルを一変させた。全部の楽器をいっぺんに演奏するのではなく、ひとつの楽器からスタートしてだんだんと作り上げていくやり方になった。ずっと明確なプロセスです」

アリフはプロデューサー兼レフェリー。クリエーティヴな土台に基づいてサウンドを構築してくれた」とモーリス。

ギブ兄弟は『メイン・コース』をレコーディングしたときには、それまでの問題点を自覚しており、結果として3曲のヒットシングルが生まれた。オリビア・ニュートン=ジョンがカヴァーした「一人ぼっちの囁き(カム・オン・オーヴァー)」、全米で大ヒットした「ファニー」、そして「ジャイヴ・トーキン」(全米チャート・ナンバーワン)。「ブロードウェイの夜」もトップ10入りを果たすスマッシュ・ヒットとなった。

「ジャイヴ・トーキン」はR&Bのチャート入りも果たし、これもアリフ・マーディンがプロデュースしたアベレージ・ホワイト・バンドとビー・ジーズを比較する声もあがった。

「今の僕たちには信じられないぐらい勢いがある。今までで最高の状況です」とバリー。

「60年代末は誰もがすっかり神経がまいっていました。ツアーにレコーディングにプロモーション。当時、僕はイートン・スクエアに住んでいたんですが、近所の人たちは僕のことをちょっと変だと思っていたでしょうね。玄関を出ると車が6台ずらっと停まっていて、全部僕の車だったりした。狂気の沙汰ですよね。

今は家族仲がとてもいいんです。みんな一緒にこの家で暮らして将来の計画を立てています。5年前には、お互いに慣れるための期間みたいなものが必要だったりしたけれど、ちょっとしたいざこざやわだかまりはもうすっかりなくなりました。兄弟としてお互いに向き合えるようになりました。

現状に甘んじるつもりはありません。前からずっと、みんなが思っている以上に僕たちには引き出しが多いんだという自覚がありました。今、僕たち一家は脈打っている。誰ひとり『自分が、自分が…』ってならずに、そろって内側に目を向けています。

前より仕事のスピードがあがって、モーリスやロビンと一緒なら1分で1曲書ける気がします。僕たちのポピュラー音楽に対する影響力が認められて、本当にうれしいです。イギリスでトップ5入りするシングルを出せてどれだけうれしいか、わかってもらえないだろうな。ニューウェーブやパンクロックが台頭する中、『愛はきらめきの中に』みたいな曲は見向きもされないかと思っていたのにね。僕たちは前進し続け、日ごとに力をつけています」

「他人のアイデアを真似しようと思ったことは一度もありません」とロビンが口を添える。「アイディアを真似るという点についていえば、僕たちは真似される側なんです。ビートルズは僕たちの音楽に大きな影響を与えたけれど、彼らの真似をしようとは決して思わなかった。僕たちはまだ若いし、映画とか、まだまだ新しく挑戦したいことがある。ある意味で僕らはまだはじまったばかりなんです。

僕たちはいろいろな段階を経験してきました。下積みを経験し、大成功を収め、解散し、再結成し、ナンバーワンを獲得し、世界中をツアーしてまわった。もちろん、あらゆる面で進歩し続けたいけれど、今いちばんの関心は強力なアルバムを作ることです」

ロビンはここ数年で変わった。以前より自信に満ちた様子で、60年代後半にアメリカ・ツアーをしたころの不安定だった彼とはほど遠い。

「自分がどう見られているかはわかってます」と彼はため息をつく。「昔はすごく不安定だった。周り中からプレッシャーがかかっていたし、初めてのスターダムやツアーに対応するのも大変でした。でも今ではそれも変わりました。この5年で少年から大人になった。新しい時代に入った。今ではまわりの人ともいい感じです。ビー・ジーズはみんなの心の琴線に触れたんだなあと感じています。ファンレターを読んだり、サインを求められる時に受ける質問などから、それが伝わってきます。ファンレターでいちばんよくある質問は『次はいつまた来てくれますか?』なんです」❞

「ビー・ジーズを無視したり過小評価したりするのは絶対に無理です——60年代後半から70年代半ばにかけての彼らのシングルやヒット曲は当時も今も変わらずに記憶に残る名曲です」メルボルン(オーストラリア)在住の作家マイケル・マクドナルドは、2002年にやり取りしたメールの中で、こう彼らを称賛している。

「『傷心の日々』『ニューヨーク炭鉱の悲劇』『マサチューセッツ』『ブロードウェイの夜』なんかには特別な思い入れがあります。『ラヴ・サムバディ』がオーティス・レディングのために書かれた曲だということも忘れられないし、パーシー・スレッジも『獄中の手紙』をカヴァーしていたりする。

ビージーズが大ヒットを出すようになる前から、バリー・ギブはすでにもうすごいポップソングを書いていました。メルボルンのロニー・バーンズは、ギブ兄弟の作曲した『コール・マン』と『エグジット・ステージ・ライト』をオーストラリアでヒットさせています。ご存じの通り、バリーは70年代になっても姿勢を崩さず、彼らほど力のないアンディ・ギブにも何曲もヒットを出させたし、メルボルンのキャバレー歌手出身のサマンサ・サングも『愛のエモーション』でチャートの首位に立っています。

『メイン・コース』は過渡期のアルバムでした。彼らは、初期ヒット曲のみずみずしいポップサウンドを捨てて、ディスコ/ホワイトR&Bのグルーヴへと移行しました。キャリア上の動きとしては当然、成功だったわけです。その後に『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックを出していますからね。ロビンとモーリスが若くして亡くなったのは悲しいことです。

ある意味では、ビー・ジーズは僕らにとってのビートルズだったと言えるのではないでしょうか」

「1968年のクリスマスに、親戚の中でも音楽通とは言えそうになかった年上の従姉マリリンが、なぜかビー・ジーズの当時の最新アルバムをプレゼントしてくれたんです」と、いうのは分別に富むゲイリー・ギブ・ゴールドだ。

「音楽面、特にボーカル面で宝の山ともいえるこの理想のLP『アイディア』は、68年から69年にかけて、居間のステレオで、『エレクトリック・レディランド』や『ホワイト・アルバム』を相手どって、だいぶ離れてはいたけれど三番手につけていました。何週間も、何ヶ月も、何年も、熱心に聴き続けた結果、このアルバムは、いまだにビー・ジーズの作品中で僕にとっての絶対のお気に入りの一枚になっています。

もちろん、それまでも、6台持っていたトランジスタラジオから流れてきたビー・ジーズのトップ40ヒット曲の数々は良く知っていました。『アイディア』のB面に入っているロビンの最新傑作『ジョーク』も含めてね。

でも、キルバーン・タワーズに登り、インディアン・ジンや、特にウイスキー・ドライを飲んだらどうなるんだろうなあと想像し、空軍に入隊してやるぞと脅しをかけながらも、実のところは同級生の女の子キティちゃんたちのために黄金色のラッパ水仙を何千本も摘んだりしているうちに、僕はゆっくりと、しかし確実に、ギブ兄弟の作曲法の繊細で徐々にしのびよってくるような特質に気づいていきました。あちこち気が散りがちではあったけれど、僕たちは、まるでエヴァリー・ブラザーズみたいな、はてはウィルソン兄弟(訳注 ビーチ・ボーイズ)のレベルと言ってもよい、ギブ兄弟の兄弟ならではのヴォーカルのプールの中で、ステレオから刻々と流れるサウンドの波にのってたゆたいながらも、バリーとモーリスとロビンは常に自分たちはまず第一にソングライターであり、パフォーマーであるのは(はるかに)二の次なのだとみなしていたということを忘れるわけにはいかなかったのです。そして、それまでのアルバムにも確かに片鱗はあったものの、『アイディア』では、この偉大な才能が、思いもしなかった領域に向かって開花しはじめていました。この目くるめく作曲の技こそ、以降、そのまれに見る素晴らしいキャリアを通じて、ギブ兄弟のひとりひとりを支えたものなのです。

ここに喜んで認めますが、この半世紀の間、僕はビー・ジーズのさまざまなスタイルを、数十枚のアルバムを、そして文字通り何百という楽曲を、多大な時間を費やしては収集し、聴き、そこから多くを学んできました。とにかく僕は忘れません。従姉のマリリンが1968年に素晴らしいプレゼントのアイディアを思いついてくれたことから、すべてははじまり、僕はこの素晴らしい音楽の旅についたのです。これからも僕は彼らとならどこへだって行くつもりです」
By Harvey Kubernik

訳しにくい記事でした。最近の記事は当然ながら、ビー・ジーズに取材して書かれたものはほとんどなく、何年も何十年も前の記事からの引用や孫引き(ひ孫引き?)を使ったものが多いのですが、この記事はいろいろな著者に取材してきちんと書かれているものの、切り貼りもしているので、引用がはっきりしている箇所については、混乱を避けるためにこちらで引用符❝❞を入れたりしましたが、やはりかなり混乱した仕上がりになってしまって…(お詫び)。

面白いのは、最後の方で独特の愛情あふれる論を展開しているゲイリー・ギブ・ゴールド氏です。調べてもちょっと誰だかわからないのですが、ミドルネームがギブというのが怪しく、当方はこれこそこの記事の筆者である音楽ジャーナリストのハーヴェイ・クバーニック氏ではないかと推論しています。(「それは違うよ」という情報をお持ちの方がいらっしゃったら、教えてください)

このギブ・ゴールド氏(ね、なんか嘘くさい名前でしょ)だけ、「メールでやり取りした」とか、「電話で取材した」とか書いてないんですよね。で、年齢的にクバ―ニック氏は1951年アメリカ生まれ。68年には17歳で、年上の従姉から『アイディア』をプレゼントされてもおかしくない年恰好なんです。それに「ジョーク」はイギリスではシングルになっていませんしね。

この彼の論評は愛情あふれていて読みごたえがあります。ビー・ジーズはずっと「自分たちは第一にソングライターである」と確かに発言してきました。でもほかでも書きましたが個人的には当方は彼らは「パフォーマー」としても素晴らしいと思っています。また、彼らは「歌詞には比重を置いてない」と発言したことも多々ありますが、それについては最近出たボブ・スタンレーの研究書が「そんなことない」と論じています。ボブ・スタンレーの著作については、近くもう少しきちんとご紹介したいと思います。

{Bee Gees Days}

 

 

 

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