【1973 年2月】英紙ビー・ジーズ・トロント公演レビュー

1973年初春に実施されたビー・ジーズの北米ツアーより、イギリスの音楽史に掲載された2月25日のトロント公演のレビュー記事をご紹介します。
そうとも、僕はビー・ジーズのファンなのだ
ビー・ジーズはもっと認められてしかるべきだと思う人は、僕しかいないのだろうか? 同時代のスタイルに、これほど大きな影響を及ぼしたアーティストはめったにいないのに。
たとえばアメリカだ(訳注 国名じゃなくて、A Horse with No Name(1971)のナンバーワン・ヒットで知られるグループの方です)。彼らのサウンドはギブ兄弟のハーモニーに負うところが大きい。それ以外の部分はクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ(訳注 ニール・ヤングが参加する前ですね)から借りたわけだが、じゃあCS&Nはどこからあのスタイルを学んだのか? ビー・ジーズからだよー、もちろん。
数ヶ月も持てばいい方だと言われるこの業界で、ギブ兄弟は(ロビンがソロ活動に走ったあの暗黒の2年間をのぞけば)7年の長きにわたってヒットを飛ばし続けてきた。今の彼らはこれまで以上に強力に思える。
そう、そうなのだ、実は僕はビー・ジーズのファンなのだ。音楽業界に身を置いて10年、すっかり幻滅しきった僕は、今ではもしビートルズが再結成されてもわざわざ通りをわたってまで聴きに行く気になれるかどうかわからない。
だけど、ビー・ジーズのためなら、僕は燃える石炭の上をはだしで歩いても行くぞ。彼らの仕事ーー作曲も歌もーーには、正直さとあたたかさがある。彼ら以外ではめったにお目にかかれない特質だ。
ビー・ジーズは5週間の北米ツアーを、トロントの瀟洒なオキーフ・センターでの2回のショーで切って落とした。この2回のコンサートは、控えめにいって、待つだけの価値があるものだった。
オキーフ・センターを選んだことで、ビー・ジーズはアーティストとしては稀有な誠実さを示したといえる。ふつう、彼らほどの格のアーティストなら(たとえばトロントのメープルリーフ・ガーデンズのような)アリーナを選んだはずだ。座り心地の良い席で、よく見えて、音も申し分ない等々の些末な芸術的属性を欠くアリーナを。
ただアリーナにはひとつささやかなメリットがある。もっともそれは演奏する側にとってであって、観客にとってではない。つまり2万人の観客を詰め込めるというメリットだ。ビー・ジーズもメープルリーフ・ガーデンズを選んでいれば、もっと楽をしてもっとたくさん稼げたはずなのだ。でも彼らはその道を選ばなかったわけで、僕は心から尊敬する気持ちになった。
とにかくこのコンサートは満員御礼だった。立見席を入れてもなお、このホールでは小さすぎたのだ。
ギブ兄弟は「トリオ」と告知されていた。けれども数えてみると、トロント・シンフォニー・オーケストラのメンバーが29人、それにビー・ジーズのリズム・セクションと指揮者のグリン・ヘイルまでもが、石鹸箱ぐらいの大きさのステージにぎゅう詰めになっていた。あと一人でも多かったらギネス・ブックに載ったんじゃないかと思うぐらいだ。
序曲(というか、「ニューヨーク炭鉱の悲劇」のインストゥルメンタル・バージョン)からクロージング・ナンバー「ロンリー・デイ」の最後まで、ギブ兄弟は観客を夢中にさせた。ストリングスとバリーのギターの響きをおさえてしまい気味だったサウンド・システムをもってしても、ギブ兄弟の熱意を減じることはできなかった。
考えてみれば、ギブ兄弟はロックンロールのアイドルのイメージにはそぐわない。ロビン・ギブときたら、僕んちのクローゼットにも2枚ぐらいありそうなただの青いシャツ、それに黒のスラックスというかっこうだった。バリーはブラウンがかったピンクのフリル付きのシャツを着ていたが、そのまま観客の中にまざって座っていても、誰も気がつかなかったと思う。モーリスだけはロック・ミュージシャンらしくスパンコールをきらきらさせていた。
だけど、ビー・ジーズの場合、着ているものなんか問題じゃない。ビー・ジーズには最高に素晴らしいハーモニーと美しいメロディ、知的な歌詞がある。ビー・ジーズの最良の歌詞に比肩する歌詞を書くアーティストはほとんどいない。
ビー・ジーズを批判する人たちは彼らが歌っている言葉をきちんと聴いていないのだ。
ビー・ジーズは、トロント滞在中に記者会見を行い、ひとりひとりが魅力的な個性を発揮してくれた。
マルクス兄弟のひとりみたいな感じで、一番目立っていたのがモーリスだ。ビー・ジーズの音楽に影響したのは誰かという質問が出たときのモーリスの答えは、「その質問にはバリーの方がちゃんとお答えできると思います」。
そこでバリーが「僕は…」と言い始めると、
モーリスは、「いや、その質問に答えるのは、ロビンの方が適任かもしれません」
そこでロビンが「僕は…」と言い始めると、
モーリスは、「いや、その質問に答えるのは、やはり僕が適任でしょう」。
by Jim Smith
この記事は1973年春にお茶の水の洋書店で購入したイギリスの音楽紙(たぶんSounds紙じゃないかと思う)に掲載されていました(と思います)。1973年はビー・ジーズにとっては「ヒットが出なかった時期=低迷期」とされていますが、確かに海外メディアで取り上げられる回数も減っており、この記事を見つけてとてもうれしかったのを覚えています。
当時は、何しろひとつひとつの記事のソースをちゃんと覚えていられた(その後の何十年間にスラップブックが軽く100冊を超えるなどということは予期していなかった…&トシとともにこんなに記憶力が減退するとは予想外でした😢)ので、切り抜くときにソースをきちんと書く習慣がなくて、当時の資料を見るたびにいまだに残念に思っています。当時の日記を掘り出せば「何日にどこで買ったどの音楽紙のどの号」から切り抜いた、と書いてあると思うのですが、今のところは「英紙」ということにしておきます。(上にも書いたようにたぶん今はなきSounds 紙じゃないかと思いますが、確認できたら補足します)
なんといってもこの記事がうれしいのは、記事のタイトルからして、ライターの方が「ビー・ジーズのファンである」と公言していることと、特に「彼らの歌詞(詩)がすごい!」と明言していることです。かくいう当方は、もちろん、ほかにも惹かれた理由はいろいろとありますが、彼らの音楽を聴くようになった当初から、そのつむぎだす独特の言葉の世界に惹かれてきました。その点ではどうも少数派かもしれない、と思ったりしています。ですから、この古い記事を引っ張り出して読み返してみて、「ああ、ここに同じ考えの人がいた!」と改めてうれしく思いました。
ただ、この段階で彼らがオキーフ・センターを選んだのは、実は集客力に不安があったからではないかとちょっと疑ってもいます。1973年のビー・ジーズは、1967年に国際的に売り出された当初のように、”ティーンのアイドル”として売るのにはちょっと微妙な年齢とイメージになっていましたし、イギリス本国ではクラブ出演したりするようにもなっていました(コンサート会場ではなくクラブに出演するというのは、落ち目の象徴でもあったわけです。ただし、バリーは当時の状況を「これがどん底だった」みたいに語りますが、実は彼らが出演した”クラブ”は人気アーティストや大物アーティストが出演することでも知られたちゃんとしたクラブではあったみたいです。これについてはまたいずれきちんと書こうと思います)
とにかく、これから数年後、1979年のスピリッツ・ツアーでトロントを訪れた彼らは、ここで(金にはなるが客目線ではあまり良くない例として)やり玉に挙がっているメープルリーフ・ガーデンズで1979年8月29日と31日の2回公演しているのでした。
実に、スピリッツ・ツアーの旅程が発表されてトロントの会場がどこかを見たとき、当方は「あちゃー…」と思ったものでした。また、個人的には、スピリッツ・ツアーの巨大なアリーナでのコンサートより、ステージの上を歩く音さえ響くような小さな会場で見た1970年代前半のビー・ジーズのステージの方を今でも大切な思い出にしています。服装の点も、ダサい(?)けれど各人の個性があふれていたころの方が実は好きです。
また、ひとつこの筆者に反論する点があるとすれば、1973年のバリーが「観客にまざって座っていても誰も気づかなかっただろう」という記述でしょうか。これには承服しかねます。写真ではあまりわからない(?)けれど、1973年のバリーは光り輝くようなオーラがありましたから、気がつくなと言っても無理だったんじゃないかと思うんですよね(笑)。
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