【1978年2月米誌】ビー・ジーズ、ソングライティングを語る(その2)
Songwriter Magazine誌1978年2月号にカバー・ストーリーとして掲載されたビー・ジーズのロングインタビュー(その2)をお届けします。
「レコード会社とレコーディング契約を結ぶにいたった経緯は?」
「レコードを出すようになる前は、ブリスベンのレース場で働いていました。レースとレースの間に歌ってたんです。なんとかうまいこと言ってライヴができるようにしてもらって。投げ銭はもらっちゃっていいよ、って言われてました。だからレース場の真ん中に立って歌いました。そうするとおがくずを敷き詰めたトラックの上にみんながお金を投げてくれるので、走って行って、それを拾っていました。あれは……ロブ、あれは何年だっけ? 1959年か。18年前だ。
中に親切なレース・ドライバーがいて、その人がビル・ゲイツ(Bill Gates)さんというディスク・ジョッキーと知り合いだったんです。その人のイニシャルがB.G.で、ギブ兄弟(Brothers Gibb)もB.G.で、僕のイニシャルもB.G.だったんで、ビル・ゲイツさんが、”じゃあ、ビー・ジーズって名前にしたら?”って言い出したんですよね。
ビル・ゲイツさんとレース・ドライバーのビル・グッド(Bill Goode)さんがふたり一緒に僕らのうちに来てくれました。新しいギターを買ってくれて、”おい、おれたち、君らのマネージャーをしたいと思っているんだ。君らを売り込みたいんだよ”って言ってくれたんです。
ふたりのマネージャーのうち、力があったのはビル(ゲイツ)でした。ブリスベン最大のラジオ局のDJだったんで、僕たちの歌をテープに録音してラジオで流してくれたんです。これが僕たちにとってはオーストラリアでのラジオ放送デビューになりました」
こうバリーが話すとロビンもさらに説明してくれた。
「ただ、オーストラリアにいた間にヒットは2曲しか出せず、あとはThree Kisses of Love、Claustrophobia、それにあとで1970年になってからAtco
から出たアルバムに入ったI Was A Lover, A Leader of Menとか、13曲も連続じてぽしゃりました」
「そこでオーストラリアは諦めて、イギリスでやってみようということになったんです」とバリー。
「それ以外に道はなかった」とロビン。「レコード会社のマネージャーから電話が来て、”お前らはもうクビだ。出て行ってくれ。もうこれ以上、お前たちのレコードを出す気はないよ”って言われましたからね。当時、両面2曲分のレコーディングをするのにスタジオを使わせてもらえたのはたった1時間だけだった。当時のレコード会社では、トップ・アーティストとどうでもいいアーティストの扱いの違いが厳然としていました。トップ・アーティストだけがスタジオを好きなだけ使えたんです。
あのころはみんなに、”出ていけ、役立たずども”って言われていました。僕たちがレコードを出すたびに(いかにもうんざりという声で)”あいつら、またやってるよ”って言われてね。それが僕らのレコードのレビューだった。”まーた、ビー・ジーズのレコードが出ました。やあれやれ”って感じで。それがレビューだった。”なんでビー・ジーズって無駄にあがくんだろうね”って書いて、最後にさもうんざりという感じに”やあれやれ”とくっつけるわけだ。
「そうした経験から大いに学ぶところがありましたか?」
「それこそ学びそのものですよ、じゃない?」と、ロビン。
「オーストラリアの思い出といえば、最後の最後まで不当な扱いを受けた、ということです」とバリー。「オーストラリアを離れる船の上で、友人たちから連絡をもらいました。僕たちが出発前に出したレコード”スピックス・アンド・スペックス”がヒットしているって。そうなると地元の新聞は”ビー・ジーズはオーストラリアを見捨てた”って書くんですよ。まったくひどい。
で、いざイギリスに着いて、どうだったかというと、船から降りて最初に出会ったロック・グループが”オーストラリアに帰りな”ってアドバイスしてくれました。ちょっと話したら、”もうウォーカー・ブラザーズは落日だ。これからの時代はエリック・クラプトンだよ。イギリスで成功しようなんて思わない方がいい”というのが彼らのまじめなアドバイスでした。でもかえってそれでがんばってみようという気持ちになったんです。
オーストラリアを出る前にテープを送ってあったので、誰か聞いてくれた人から連絡がくるんじゃないかと思ってました」
「で、イギリスに着いて2日後に、僕が独りで家にいると電話が鳴ったんです。若い女性からで、”ロバート・スティグウッドさんの代理でお電話しています”って言うんですよ。(当時、スティグウッドはザ・ビートルズのマネージャーをしていたブライアン・エプスタインと一緒に仕事をしていた)そこで僕たちはスティグウッドに会って契約を交わし、スティグウッドが僕たちのマネージャーになりました。それ以来、彼が僕たちのマネージャーです。しかもスティグウッドの代理で電話をしてきたその女性が僕の現在の妻なので、そういう意味でもいっそう思い出深い体験です」
「それから2カ月後、僕たちは”ニューヨーク炭鉱の悲劇”をイギリスとアメリカでヒットさせました」とバリーが付け加える。
「ロバート・スティグウッドのことを本当に尊敬しているみたいですね?」
「もう20年、彼にマネージゃーをしてもらってますからね」とロビン。「浮き沈みもあったし、大いに争ったり、けんかしたりもした。でも、けんかするってのは良いことだ。相手と親しければ、それだけけんかしたりもするようになる。事実、けんかもしない関係っていうのは健全じゃない。きちんとけんかすることで、空気がからっとする」
「それに、僕たちは争わないわけにはいかない」と、バリー。「ビー・ジーズから見れば、マネージメントがアーティストを所有しているわけではないし、アーティストを成功させるわけでもない。アーティスト自身が自分に起こることのもろもろをしっかり把握していなくてはならない。全員が膝をつきあわせて、次はどうするかを話し合えるような関係でいる必要がある。意見の相違が生じたら、アーティストは自分の信念のために戦わなくてはならない」
「僕たちはレコード業界というものを知っているから」とロビン。「だから自分たちが正しい選択だと思えなければ、次はこのレコードを出しなさい、なんて他人に言わせたりはしない」
「どうして”メイン・コース”からのシングル第一弾を”ブロードウェイの夜”じゃなくて”ジャイヴ・トーキン”にしたんですか?」
「あれは新機軸だったからです」とバリー。「それまで僕たちのイメージになっていたバラード・スタイルから新しい方向への動きだったからです。
”ジャイヴ・トーキン”がヒットしたら、僕たちは”ディスコ・グループに成り下がった”なんて言われるようになった。でもそれってディスコというジャンルに対しても失礼じゃないですか。僕たちはディスコが低俗な音楽だなんて思っていない。楽しくて幅広いアピールのある音楽だと思っている。踊るための音楽です。それだけですよ。
僕たちは政治的な曲を書いて、何年もの間、世界の救済のために努力をしてきた。今度はもっと軽やかな音楽をやりたくなって、それを実行に移した。レコードを売りたいがために、ディスコに身売りするというこすからい手を使った、というような人がいるけれど、それは違う。僕たちは、ただあらゆるタイプの音楽をやってみたいだけだ」
「それに」とロビンが付け加える。「言っておくけど、僕たちが”ジャイヴ・トーキン”を出した時にはディスコはそれほど売れてなかった。だから、ディスコ人気に便乗したなんてことはない。むしろ、僕たちは”ジャイヴ・トーキン”をやったことで今日のディスコ人気に貢献したと思う」
バリーの説明はこうだ。「”メイン・コース”の時には、R&Bの系”列に入るアルバムが作りたかったんです。”ジャイヴ・トーキン”を書いた時にはディスコ音楽のことは考えていなかった」
子ども時代の彼らがブリスベンのレース場で歌っていたという話は有名ですが、1959年といえば、バリーは12-3歳、ロビンとモーリスは9歳。小学生と中学1年生ぐらいですね。これはかなり過酷な子ども時代であるといえます。これを一種の冒険談、成功への階段をのぼる過程のように語れるのは、ひとえに彼らが後にプロとして名を成したからでもありますが、もうひとつには彼らが兄弟だったからでしょう。彼らは、音楽への愛と成功への情熱を持って一緒に戦うことができたから、この過酷な体験を生き延びた(ステイン・アライヴ)といえるかもしれません。
ロビンがときどき、「自分には子ども時代がなかった。でもあれ以外の子ども時代を持つことはもうできないのだから、あの子ども時代を自分のものとして受け入れるしかないんだろう」というような発言をするのは、彼らの生育環境をふり返ると非常に傷ましいことである気がします。
また、アメリカの雑誌が相手というのもありますが、オーストラリア時代に受けた扱いへの不満が噴出しているのも興味深いです。同時に、レース場で歌っている子どもたちにファンであり支援者である人たちが現れて、「マネージャーになって売り出したい」とまで言ってくれたのは、やはり当時から彼らがただものではなかったからでしょう。でもそうした支援者でさえ、そしてビー・ジーズ自身でさえ、彼らがこれほど長く輝かしいキャリアを歩むことになるとは思ってもみなかったことでしょう。
もうひとつ興味深いのは、マネージャーとの関係について、ここで彼らが述べている内容です。ここには明らかにアーティストとしての自負とやや不満の影も感じられるような気がします。やがてこれがロバート・スティグウッドへの訴訟を生むことになるのでしょう。もっと初期には、どの曲をシングルとして発売するのか選ぶ役割は明らかにスティグウッド(マネージャー側)にあり、「若葉のころ」問題の下地もそこにありました。
しかし、ディスコへのバッシングは当時からあったということが、この記事からもわかり、やがてこの段階では出たばかりだった『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックから、さらに大きな成功が生れ、それがさらなる誹謗と長い不遇の時代へとつながっていったわけです。こんなに損しているグループって他にあるんでしょうか? ほんと、改めてそう思ってしまいます。
それからもうひとつ、彼らがあれだけタフに生き延びたのは、おそらく不遇である時代に鍛えられた強さのせいなのでしょう。だから不遇の時代が”学び”になったというのは本当でしょうね。逆にアンディについて述べた追悼記事”ゴールデンボーイの死”には、「不遇の時代を経ずにスーパースターになってしまったがゆえの彼の脆さ」が語られていたことが思い出されます。
(その3)に続きます。
(Thanks: Yamachan)
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