【2025年11月】バリー・ギブ、ボブ・ディランを語る

体調を崩してしまい、数カ月更新をお休みしました(🙇)。もろもろご紹介が遅れていますが、Upworthy.com(オンライン版2025年11月21日付)に掲載されたバリーの最新独占インタビューを以下に簡単にまとめてご紹介します。筆者はトッド・ペリー氏。

題して「バリー・ギブは語る、ベトナム反戦の思いをこめてビー・ジーズがテレビ放送で挑戦したディランの曲のカバー(Barry Gibb recalls brave Bee Gees TV performance of Bob Dylan song to protest the Vietnam War)」。

1962年、オーストラリア陸軍はベトナム戦争における米国への正式な軍事支援を開始した。2年後、若者たちは兵役制度への登録を義務づけられて血みどろの戦争への従軍を強いられ、8万を超えるオーストラリア人が動員された。以降、オーストラリアが戦線から撤退するまでの11年の間に、オーストラリア人の戦死者は523人、負傷者は約2400人を数えている。
1963年、オーストラリアの若者たちの多くは恐怖におののいた。政府が自分たちをベトナムへ送ろうとしているーー人を殺すため、人に殺されるために。だからこそ、ティーンエージャーだったバリー(17)、ロビン(14)、モーリス(14)のギブ3兄弟(ビー・ジーズ)は、オーストラリアのテレビ番組という大舞台で、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌い (YouTube)、権力に向かって真実を訴えたのである。
当時、『バンドスタンド』(オーストラリアの音楽番組)の出演者中でも無名に近かったビー・ジーズは、その後、60年代末には世界的な大物アーティストに仲間入りしている。
1963年当時、発表されたばかりだった「風に吹かれて」は、戦争や人種差別について、あるいは人間が平和と平等に生きる日が来るのだろうか、といった根本的な問いを投げかけ、60年代以降の公民権運動や平和運動における大きなアンセムのひとつになった。
現在79歳になったバリー・ギブは、ティーンエージャーだったころから、ディランの歌の持つ意義がよくわかっていた、という。「僕自身、兵役に登録する時期がどんどん近づいていました」と彼はUpworthyの独占インタビューに応えて話してくれた。「あの時代をどう説明したらものか…。とにかく、みんな不安で、不安でたまらなくて、ボブ・ディランは僕たちのヒーローでした」「オーストラリアの人間にとっては、ベトナム戦争の混沌があらゆるものの上に影を投げかけていました。僕はボブ・ディランの歌詞に触発されて『And the Children Laughing』という曲を書きました。生と死についての、国のために死ぬか、それとも見も知らない人を殺しに行くのか、ということについての歌です。僕は人を殺しに行くつもりなんかなかった。思ってもみなかった。だからこそ、ディランの歌詞に深く心を打たれたのです」。なぜ立ち上がらないのか

今こそ考える時だ

平和はどうなった?

さあ 目を開けて

子どもたちが笑っている

歌声が響き 心臓が打っている ああ…

平和を信じてきたバリー・ギブ

何世代にもわたって続いてきた暴力と不正の果てしない連鎖から逃れることはできるのか、「風に吹かれて」はそう問いかける。バリーは信じてきた、反対の声をあげることで、この悪しき循環を完全に断ち切ることができる、と。「僕たちは、この前の戦争なんかなかったような顔をして、また次の戦争へ、そのまた次の戦争へと向かっていく。だから諦めの気持ちもわいてくる。僕は、戦争であっても、街の喧嘩であっても、あらゆる暴力に反対です。街で喧嘩を止めに入ったことは何度かあるけれど、政府の命令だからといって、戦いや人殺しを楽しむという考え方に与することはできない」とバリーは当方の取材に応えて話してくれた。「当時、18歳だと投票権はないのにベトナムには行けた。これは大問題でした」

ディランの社会活動以上に、バリーが感銘を受けたのはディランの音楽が持つ果敢な実験精神だった。1965年にフォークシーンを震撼させたエレクトリック化もそうだし、ディランが長らく行ってきた曲のアレンジ変更もそうだ。時に土壇場になってアレンジを変えるので、原曲とは似ても似つかないものになることもある。「ディランはいつも実験し続けていました。 『マイ・バック・ページズ』だって、アレンジをがらりと変えているのに歌詞はそのままだったりする。あれでいいんだ、と思いましたよ」とバリーはいう。「ディランはいつもやり方を変えて演奏している。でも、ほら、天才のことですからね、僕たちは受け入れるしかない。それしかありませんよね、当時も、今も」

結局のところ、ディランこそバリーが”ギターを手にとった理由”であり、バリーと弟たちが成し遂げたことすべての原動力だった、とバリーはいう。「『サタデー・ナイト・フィーバー』以前も、以降も、現在にいたるまで、僕たちは全てを生き抜き、楽しんできました。ボブ・ディランのような人がいてくれたおかげです。彼が僕たちを駆り立ててくれた」

たぶん、『Ultimate』のUniversal再発盤の解説あたりで書いたかと思うのですが、個人的にはずっとビー・ジーズといちばん似たアーティストはボブ・ディランではないかと思ってきました。”美しさ”や”耳障りの良さ”ではなく心の叫びのようなエモーショナルな歌声、変わることを恐れずレッテルを拒否する姿勢など、ビー・ジーズとボブ・ディランにはたくさんの共通点があります。

以前にもこのサイトで書きましたが、ビー・ジーズがあのタイミングで帰英した理由のひとつは、バリーが年齢的にベトナムに送られる可能性があったからだともいわれています。ここにきて、政治的な発言が少なかったバリーが敢えて戦争反対を言明し、ディランへの共感を表明したのには、長らくビー・ジーズとボブ・ディランという二大Bのファンだった人間にとっては、とても胸が熱くなる出来事でした。(60年代後半に洋楽を聴き始めた人間として、”胸を撃ち抜かれる思いがした”アーティストがディランとビー・ジーズだったのです)

ここでバリーが言及している「And the Children Laughing」は個人的にはディランの「Positively 4th Street(邦題は「寂しき4番街」だけど、ちょっと違うと思う)」の影響が感じられると思ってきました。ディランの曲は1965年7月にレコーディングされて9月に発表され、ビー・ジーズの曲は1965年11月に発表されていますので、タイミング的にもそうかなと思います。それから他の場所でも書きましたが、ディランの「Ballad of A Thin Man」には「ミスター・ジョーンズ」への呼びかけが何度も出てくるのです、ビー・ジーズの「ニューヨーク炭鉱の悲劇」みたいに。(ちなみにデヴィッド・ボウイの「スペース・オディティ」に出てくる「メイジャー・トム」への呼びかけはビー・ジーズの「ミスター・ジョーンズ」への呼びかけに影響されたといわれています)

「And the Children Laughing」については近く「Songs」セクションで取り上げてみようかと思います。

{Bee Gees Days}

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