【クリーム誌1978年6月号】「あるビー・ジーズ・ファンの告白」

CREEM誌1978年6月号記事より

あるビージーズ・ファンの告白
――サイモン・フリス

この間、大衆紙サンにショッキングなニュースが載っていた。名声と富と兄弟の七光の恩恵に浴すべくアメリカへと旅立ったアンディ・ギブは、故郷オーストラリアに身重の妻を残していたというのだ。その後、アンディは妻に連絡もしていないのだとか。アンディ君は富と名声と兄弟の七光りの多大なる恩恵に浴したというのに、うら若い妻はまだオーストラリアにいるらしい。どうやらその彼女が離婚訴訟を起こしたようなのだ。いまやロックスターとなったアンディはいかにもロックスターの取り巻きっぽい美女たちとよろしくやっていて、身重の若い奥さんなんてお呼びじゃないらしいのである。

これだけならロックの世界ではよくある話だ。それなのにぼくがショックを受けたのは、こんなプレイボーイみたいなことをしたのがギブ家の人間だったからだ。なんたって、ビー・ジーズ・ファンとしてのぼくの世界を成り立たせているのは自己憐憫の念なのだ。ビー・ジーズはマッチョなノーキン野郎なんかではなく、全世界のプレイガールたちにフラれる側のはずなんである。たとえばルルとビー・ジーズのメンバーが結婚したときも、ファンには「この結婚がうまくいくわけがない」とちゃあんとわかっていた。別れた後でルルがドラッグだの性格の不一致だのといくら言ってみせたって、本当は誰のせいで結婚が破綻したのかビー・ジーズのファンは知っている。

ビー・ジーズのビー・ジーズたるゆえん、そしてぼくが彼らをかくも愛する理由は、彼らが驚くほどにダサいというその点につきる。ビー・ジーズはすることなすこと、なぜか安っぽくなってしまう。ビー・ジーズのイメージといえば長年の間にいろんなものがあるが、中でもぼくにとって感動的で忘れられないのが、ビー・ジーズがタイツやスモックを身につけて中世版ビー・ジーズを演じ、城壁の下で歌ってみせた『キューカンバー・キャッスル』なる映像作品である。彼らはほんとにみっともなく、アホくさく見えたのだ。が、同時にまさにこれぞビー・ジーズという誠実さが、そこにはにじみまくってもいたのだ。そして今でも、目に星を浮かべたビー・ジーズが完璧にハモりつつ、歯がやけにめだつその横顔をマヌケにテレビカメラにさらすとき、ビー・ジーズの持つその誠実な雰囲気はやっぱり変わらない。ああ、映画『サージェント・ペッパー』が早く見たいぜっ。

ビー・ジーズは歌の中で負け犬であり、その外見において負け犬であり、彼らが成功している理由のひとつは彼らこそ誰もジェラシーを感じないポップスターだということにあるのだ。だが、同時に彼らの成功はたくみに計算された動きにも基づいている。全キャリアの中で彼らが犯した唯一の大きな間違いといえば、そもそも1958年にオーストラリアに移住したことだろう。若きビー・ジーズはオーストラリアでの成功を夢見てマンチェスターを後にしたのだが、オーストラリアでの成功なんて実はメじゃなかったのだ。なんたってぼくがこれまでに取材した全員がオーストラリアでは大スターだったと来ているぐらいである。かくしてギブ兄弟がオーストラリアという井戸の中でばちゃばちゃやっている間に、彼らが後にしたマンチェスターとリバプールではホリーズにスウィンギング・ブルージーンズ、ビートルズと誰も彼もがスター街道を驀進していたのだ。世はまさにイギリスのバンドブームだったのに、イギリスのバンドであるビー・ジーズは、そこにいそびれた。

1967年にビー・ジーズが帰英したときには、すでにビートの時代はポップ、それもこむずかしいヒップポップの時代に変わっていた。ビー・ジーズはやはりオーストラリア出身のロバート・スティグウッドと契約し、時代の何たるかを叩き込まれたらしい。その結果生れたデビュー・アルバムはイギリスのサイケデリック時代の偉大な落とし子である。ジャケット・カバーのビー・ジーズもなかなか決まっていて、たしかにヒッピーにこそ見えないが、それでもまわりには虹色の雲が渦巻いたりなんかしちゃっている。曲はメロディアスで軽く、ストリングズとビートルズ風のハーモニーで聞かせるが、詩が「面白い」。「New York Mining Disaster 1941」「Crazed Fenton Kirk RA」(訳注:原文のままです。曲名の間違いはわざとなんじゃないかなあ…と思われます)、「Red Chair Fade Away」と来たもんだ。1941年にニューヨーク炭鉱で悲劇なんか起きていないし、あとの曲も何がなんだかわからない内容なのだが、ぼくは彼らのこのアルバムをインクレディブル・ストリングバンドの最初のヒッピー風の作品と一緒に買い、鼻にかかった声で歌うビー・ジーズの宇宙的な思索の世界の方に軍配を上げたのだった。

こうして、なんというか、まあ、自分たちはまともなバンドだと証明しておいて、さてその上でビー・ジーズがしたのは金儲け街道をひた走ることだった。時代はプログレッシブ・ロックだっただけにビー・ジーズは反動分子だった。「マサチューセッツに帰ろう」と彼らは歌った。どこからかと言えば、サンフランシスコからの帰りなのだ。つまりサイケデリックごっこは止めて、ビートルズが廃業したアホくさいラブ・バラードに目をつけたビー・ジーズは、ビートルズに代わってこれを歌ったのである。これすなわち、ビー・ジーズのバラード時代である(ほどなくして、当時の彼らのバラード作品はいやしくもラスベガスに出演するようなやからにとって必須のレパートリーとなった)。オーケストラをバックにロビンが耳に快いふるえるような声で歌い上げれば、あとのふたりがこれぞビー・ジーズという泣くような声でハーモニーをつける。ビー・ジーズのバラードはまことに驚くべき俗っぽさの塊だった。ぼくの個人的お気に入りは「ジョークをいってみた、そしたら世界中が泣き出した」というあれである。最後は「ぼくが泣き出した、そしたら世界中が笑い出した」というもので、なんだか知らないが、ぼくは確かに笑ってしまった。ボブ・ディランだって個人的な問題をこれほど宇宙的な規模に展開させてはおらんって。

しかし、ついには笑いもおさまるときが来た。ホリーズ同様にビー・ジーズも当初のブームの遺産を食いつぶし、ポップの時代がロックの時代になるにつれて人気が下降線をたどっていったのである。1969年にビー・ジーズは個人的な意見の食い違いを理由に解散した。ロビンはソロになり、バリーは曲作りを続け、モーリスは俳優になった。1970年に個人的な食い違いを解消したビー・ジーズが再結成された。しかしそれは過去をなつかしむのにも似た行為で、新生ビー・ジーズはシラ・ブラック風のキャバレー・ショーやテレビ・スペシャルに出演し、イギリスのショービジネス界に埋没していった。1973年のニュー・ミュージカル・エクスプレス紙ロック名鑑には「ビー・ジーズはいろんな意味でチャンスを逃したバンドと言える。一時の商業的な成功ぶりにはトップをきわめそうな勢いがあったのだが」と書かれている。

この最終評価が下って以来、彼らは後ろを振り返っていない。機に鋭い耳(とマネージャー)を持つ彼らはポップスが盛んな国を求めて、1975年に再度移住した。今度の移住先はアメリカ。狙いはアメリカ流のこじゃれたホワイトディスコである。ロバート・スティグウッドとプロデューサーのアリフ・マーディンの薫陶のもと、彼らは気づいたのだ。しっかりしたメロディ、自己憐憫の念、クローズドハーモニーなどポップスの世界で彼らの強みだったものが、ディスコでもそのまま通用すると。バックを変え、密度を濃くして、再びヒットが生れた。そこには新しい聴衆も待っていた、アメリカのポップスファンであり、アメリカのテレビ・スペシャルであり、アメリカのキャバレー・ショーである。

当初、ぼくは彼らのこの動きをイギリスらしくないと思って受け容れられなかった。こんなスムースなサウンドや癖のない詩なんてぼくが知って愛していた泣き虫ビー・ジーズじゃないやい、と思っていた。だが、やがて少しずつ、泣き虫風の部分が耳についてきた。それが確信に変わったのは「Nights On Broadway」、とくにファルセットの部分である。そして少なくとも誰もまわりにいないときには、1977年のアルバムでぼくが一番よく聴いたのはセックス・ピストルズの『Bollocks』ではなくビー・ジーズの2枚組ライブだったのだ。スタジオ盤のようにクリアーな音のこのライブアルバムの1面にはビー・ジーズのかつてのヒットが1曲1分ぐらいに縮めた――最良の――形で網羅されており、ビー・ジーズの全キャリアが一瞬にして俯瞰できる。そしてサイケからバラードへ、さらにディスコへと変節を繰り返しながら実は彼らは何一つ変わってやしないということがわかるのだ。

そして1978年にもやはり何も変わらないだろう。ディスコ・フィーバーが燃え盛り、金がうなるほど入るだろうが、ビー・ジーズ本人たちはあいも変わらずさえないことだろう。彼らのメロディとサウンド作りの才能は稀有のものだが、彼らの人生は平々凡々だ。彼らにインタビューするとして、聞きたいことのひとつも思いつけない。言ってやりたいことならあるんだが。アンディってやなやつだなあ、とかさ。いや、それより何よりぼくはただ、彼らにありがとうと言いたいね。ビージーズがオズモンズのような明朗な一家でなかったことを、ぼくは本当にありがたいと思っているのだ。

-Simon Frith

{Bee Gees Days}

アメリカのロック誌クリームCreem)の1978年6月号に掲載された元ロック・ジャーナリスト、現ポピュラー音楽研究家のサイモン・フリスの論評です。ちょっと辛口というか、「ビー・ジーズはすごくハンサムで人気があって、成功していて才能にあふれている」というタイプの提灯記事とはだいぶ違い、お気に触る方もいるかもしれませんが、この記事にはいくつか「言えてる」点があると思います。

まず、この記事が出た当初1978年に読んで、「うーん、なるほど(ポンッ)」と思ったのは、オーストラリアに移住したのがキャリア的にはミスだった、という指摘です。そう、もしあそこで彼らがマンチェスターにいたら、ブリティッシュ・インヴェイジョンの他のバンドと一緒にもっと早く、もっと若くスターダム入りしていたかもしれません。人生やキャリアにはアルバム『Cucumber Castle』に入っていた「イフ・オンリー・アイ・ハド(ああ、もしああしていれば…)」のような「ああ、もし…」がつきものですが、実はビートルズより結成が早く、バンドメンバー同士の出会いも早かった(ロビンとモーリスなんか生まれる前からの知り合い)彼らが60年代前半のカウンターカルチャーの中で活動を始めていたら…という発想には、さまざまな夢をかきたてられます。

「ダサい」と訳したのはunhipという単語ですが、この、「ヒップでない」とうのは、「クールでない」「時流からずれている」ということです。そしてそこにこそ彼らの「誠実さがある」というのは、さすがにサイモン・フリスだなあと思います。スタイルの変遷で(ある意味、不当に)知られる彼らではありますが、おそらく時代を超え、ジャンルを超えて、ひたすら「人の心」をもっとも誠実に歌った、歌い続けたバンド、それがビー・ジーズであると思います。

ちなみに上の画像のキャプション「The beautiful, the backward, the bald」は「ハンサムなやつ(バリー)、シャイなやつ(ロビン)、ハゲたやつ(モーリス)」という意味で、(モーリスに失礼だ!ぷんぷん!)セルジオ・レオーネ監督の『続・夕陽のガンマン(The Good, the Bad, and the Ugly – クールなやつ、悪いやつ、見苦しいやつ)』の引用でしょう。Bで頭韻を踏んでたり、なかなかしゃれてるね!

この手の(ビー・ジーズへのちょっと屈折した愛情を吐露する)記事で、もうひとつ印象に残っているのが、ビー・ジーズにとって低迷期にあたる1973年にカナダの音楽誌に掲載されたもので、それも近いうちにスクラップの山から掘り出してご紹介しようかと思います。

{Bee Gees Days}

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